第9章 いずれ我らも帰るだろう
レーアが案内する道は事件のあった通りを避けていた。人通りもあまり減ったようには見えない。いや、むしろその逆で増えているようにすら見える。もしかしたらその事件のあった通路は封鎖されていて使えないのかもしれないとミケルは考えた。そうなると現場へ行って調べる事も難しい事になる。
レーアが案内する場所はおよそ女性らしい場所ばかりだった。
名物とされている噴水、大きな獅子の彫像(ネクタネポの獅子に酷似しているためにミケルは動き出すかもしれないと警戒すらした)、大きな木が植えられている公園、よく使える服飾店、美味いレストラン、掘り出し物がある書店、種類が豊富な武具店などなど。
どうやらレーアはこの案内を楽しんでいるらしい。静かに笑っている時が増えている。
「ミケルは、探し人に、会えたの?」
昼食を食べている時にレーアが尋ねた。ミケルは首を振るだけで答える。
「そう、なんだ。見つかると、いいね」
「もしかしたらここには来ていないかもしれない。これだけ人がいたらもしかしたらと思ったんだがな」
「そう、でも、まだまだ、人は、増えるから、望みは、あるよ」
「これ以上に人が増えるのか?」
「うん、たくさん、集まるから」
サンドイッチの最後の一切れを食べ終わるとミケルはレーアに尋ねた。
「ここの街の連中はどんなものを信仰してるんだ?」
レーアは食べかけのミートボールパスタの細長いパスタを巻いたフォークを置いてレストランの端の方に設置されていた本棚から一冊の厚い本を持ってきた。
「これに、書かれてる」
そう言ってミケルに本を手渡すのだが本の表紙に打ち付けられた金のプレートに彫られている文字を見てそれが読めない事をミケルは認めた。
読めないと知りながら受け取って試しに開いてみるとぎっしりと文字が書かれていて読む気さえも起きてこない。
レーアを見ると食事を再開している。
ぱらぱらと目を通す程度にページをめくっていく。ミケルの眼にある絵が止まった。
その絵は大きな怪物が描かれている。明らかに人間ではない。太い腕と脚、長い尻尾、大きな翼、顔は見えない。両腕は筋張って力強く広げられている。そして脚は立った大地を掴むように力で漲っていた。
「それは、降誕の、絵。私たちが、神と、崇める、天から、やって来た、ヘイムスクリングラ」
「ヘイムスクリングラ………」
ミケルが繰り返した事をレーアは頷く。
彼女が食事を終えるのを待っていた。文字は理解できないが描かれている絵は理解できる。厚い本と崇高なる絵。このヘイムスクリングラの後ろ姿の絵の他にも様々な解釈を描いた絵が載せられている。
「本を、読むのは、苦手なの?」
「ああ、あまり好きじゃない」
「そう、なんだ。私は、好きで、よく読むの」
「そうか」
気のない返事をしてミケルは立ち上がった。それが催促になってレーアも立ち上がる。自分が座っていた椅子の背に厚い本を立てかけて置いた。
「この通りの、名前は、この宗教に、関わる、伝説の、人々の、名前が、付けられている」
想像していた通りの事だった。
「派閥があるのですよ。嬉しいですね、ミケルさんが我が神に興味を持つなんて」
ミケルとレーアは声のする方へ振り返った。
「コード、それにガーランか」
ミケルが名前を言うと2人は座っていた椅子から立ち上がって一礼した。
そしてミケルが置いた厚い本のページを繰ってミケルが見ていた例の後ろ姿を描いたページを開く。
「この姿こそ我々の神の真の姿なのです。私が席に着いた時にあなたがこの絵に見入っていたのを見て私は感動さえ覚えました。どうですか、私たちと共に祈りませんか?」
「いや、止しておくよ。まだ見て回ろうと思っているからな」
「そうですか。ですが、もし気が向いたら我々の教会へ来てください。ミヒャエル派はいつでもあなたを歓迎しますよ」
コードとガーランを残してミケルたちはレストランを出て行った。
「派閥があるんだな」
「うん。ミヒャエル派は、中でも、過激な、方で、私は、あまり、好きじゃない」
「レーアの派閥はどこなんだ?」
「私は、ルイーゼ派。ルイーゼ派は、癒しや、救済を、見出そうと、する、派閥で、その意志を、汲んだ、人が、集まっている」
「ミヒャエル派は何を得ようとしているんだ?」
「知らない。彼らは、獣の、力を、得ようとする、派閥。この、後ろ姿は、翼と、尻尾と、腕と脚は、種類の、異なる、獣だと、考えられている。神は、全ての、生き物の、複合的な、存在で、“不死性”を、宿していると、考えられている」
歩きながら2人は喋っていた。
「この街で派閥はどれくらいあるんだ?」
「分からない。派閥は、いくらでも、ある。誰かが、主張さえ、して、そして、信仰する、神から、汲み取った、物の、区別さえ、付けられていれば、派閥は、それだけで、生まれるから」
ミケルは初めてこの街を改めて調査する気が起きて来た。その派閥の中に、あるいはもっと深い場所に転生者は潜んでいるかもしれない。もっと想像力を働かせるとその教祖、始祖すらも転生者である可能性すらミケルは感じているのだった。
そうと分かるとミケルの行動は早かった。身体を小さく分離させて仲間たちと共に調査のために働かせた。
黒狼と蛇を街へと放った。
レーアは一通りに観光的な名所を案内し終わった事に満足していた。夕食を食べてまた大聖堂で唄われる唄を聞きながら家路へ着く。ミケルはレーアを家まで送って行った。彼女は共同住宅の一室を借りているらしい。そこには数人の年頃の女性が住んでいた。
「それじゃ」
「あ、ありがとう」
レーアは礼を言って家の中へと入っていく。
ミケルは夜の中へと再び溶け込んでいく自分を感じていた。それは昨日よりも柔らかくてより真に迫っている。ミケルか、あるいは暗闇が受け入れる余地を作り上げていたに違いなかった。
家の中の灯りが徐々に消え始めて街が暗闇に沈んでいく。もはや光が宿っているのは大聖堂と方々に散らばる小さな教会だけだった。
ある公園に足を踏み入れた時、通りの角にあった家の灯りが激しく明滅するのが見えた。光が点いたり、消えたりを繰り返しているのではなかった。光の前を何かが高速で行き来しているのだ。
果たしてそれは2匹の梟だった。あの無賃宿の食堂で見た2匹の梟が地面にある何かに向かって爪や嘴で攻撃している。
ミケルが近づいて行くと2匹の梟は大きく翻って弧を描いて描くように宙を舞うと公園を囲んでいた木の枝の上に停まった。
梟が攻撃していたのは1匹の狐だった。小さな4足の獣が倒れている。ミケルはそれを柔らかく見下ろしている。梟は去らない。狐は微かに息があるようで呼吸のために体が膨らんでは縮むのを繰り返している。
手酷く繰り返された攻撃によって狐の金色の毛は血や泥で汚れていた。何かを言いたげにミケルを見た眼は恨めし気に淀んでいる。
梟は未だに去らない。どうやら完全に仕留めるまでそこにいるつもりらしい。そうと分かるとミケルも行動を求められている気がする。何のためにそこにいるのかを示さなければならないのだった。
ミケルはしゃがんで傷ついた狐の傍らに膝をつくとそっと手を狐の小さな体の上に載せて唱えた。
「スキル【治癒の掌】」
唱えた直後に柔らかな光が生じて狐を包んだ。みるみるうちに狐の傷が癒えていく。この【治癒の掌】はロンドリアンを出てから得たスキルだった。30ほどのスキルを得ていたがそれと同時に30の同胞と別れていた。
得たものよりも失ったものの方が明らかに大きい。誰かが旅立っていくと同時に未だに旅立てない者たちは恋焦がれるように己が肉体を想うのだった。
このスキルがどれだけの範囲に効能があるのかミケルは知らない。この狐の手足が千切れていたらそれなりに効果の検証も出来ただろう。
狐の傷が癒えて荒かった呼吸が落ち着くと狐は警戒と動揺を半々にした挙動で立ち上がった。
2匹の梟は既にいない。ミケルが狐の傷を癒したのを見ると飛び立っていった。
ミケルがどんな表情もない暗い瞳で狐を見つめ返すと一歩二歩と後退る。
追う気のないミケルは興味を失って狐を見るのを止めてしまった。彼は梟の飛んで行ったのが無賃宿の方角だったと知っている。
彼が無賃宿へ一歩踏み出す頃には狐はもういない。