第59章 獣の咆哮
オデュッセウスの人間の選択とそれへの猛進は獣には理解されなかった。
いや、少しは理解されていたかもしれない。
竜はいずれの種でも常に知恵がある。人間に種を考える功利的な一面があるとするのなら竜は完全に利己的だった。
種の事など考えない。圧倒的に自己のみの思考が魂の共同体という現在を受け入れながらも人間である事は受け入れてられなかった。名を抱いただけでは人間足り得ないと竜だけは理解していたのである。
オデュッセウスが使命を徐々に弱めていくのを竜は知っていた。彼がいまだ持っていた時々に姿を現す獰猛さや残酷な衝動はこの竜の利己的な価値観だった。
使命を徐々に弱めて人間種の魂にまでその救いを与えようとした時に竜は完全に同胞を見限った。
身の内にある獣の魂の方が激しく憎悪に燃えていたのである。そして竜が最も強大で濃密な激しい憎悪を持っていた。
洞穴の中で眼だけを光らせながらその両の手で練り上げた呪詛の塊。それは炎と言うよりは水的でどろどろとしている。
恐ろしい硬質の塊が獣の内にある。
思いがけない獣の反撃に人間の魂は打ちのめされていた。
思えば多くの窮地で決定的に揺るがなかったのはこの獣の硬質な憎悪が【憤怒の炎】を支えていたからかもしれない。
オデュッセウスが【名付けの祝福】を与えてその形を変えてしまった事が裏切りのように捉えられて竜は身体の主導権を奪う反逆に出るのだった。いずれにせよそれは莫大な力だった。というのも獣の魂の数は極端に少なくほとんどが人間の魂であったのにたった1匹の竜の魂の反逆になす術もなく身体の主導権を奪われてしまったからである。
咆哮が王都の中に轟いた。
「こんな時に!」
特徴的な大きな翼と空を穿つように伸びる角、鋭く大きな爪、力を漲らせる牙の間からは口から迸る気炎が漏れている。
真っ黒な巨竜は翼を広げて飛び上がった。
立ち上る黒煙を従えて棚引く雲を突き破ると大きな穴を天に穿った。
そして何物にも阻まれない限りなく自由な空の中で大きな翼を力いっぱい広げて四肢を伸ばし、大海の沖の方に宿る覇者を見やった。
咆哮を再び轟かすとそれは凄まじい波紋となって王都と海を襲った。
押し寄せる波はその波紋とぶつかって海の上で衝突する。
空と海は途端に荒れた。雲は渦を巻き、海はうねりを上げて驚くほど高い波を作り出す。
オデュッセウスは巨竜にしがみついていた。彼らのおよそ人間的な功利の考えはこの期に及んでもこの竜のさ迷える魂を救おうとしている。この魂すらも導くためにその道を照らそうと言うのだった。
『もうだめだ!』
『いいや、諦めるな。俺たちだけは見捨ててはならない!』
『だが、このままではめちゃくちゃになる!』
『いいさ、めちゃめちゃにしてしまえ!』
『破壊の後に創造がある!』
『ここでこの竜を見捨ててしまったら我らは真の罪を負う事になる!』
『もし、この竜の、同胞の肉体を奪った者が転生者であってそれがどこかの人間であったならこの竜は肉体も魂も人間によって傷つけられた事になってしまう!』
『二重の裏切り、全てを奪う事ほど恐ろしいものはない!』
『みんな、力を合わせるんだ!!』
恐ろしい憤怒を浴びた彼らの太陽はおどろおどろしい様相を呈していた。
どろりと何かがこびりつき、「忘れるな!」というよりも「薄めるな!」と言わんばかりの執念で落ちては吸い上げられて循環していた。
黒い祝福の太陽が浮かんでいる。
初めて肉体の主導権を得た竜は力の振り方も分からない様子で腕を振るった。すると、王都の東側が吹き飛んだ。
驚く事にこの竜は【風の王】を使って烈風を叩き込んだのである。
このとんでもない威力を目にしても竜は納得がいっていない様子で不満気だった。
すると、右の指の爪先で何かを記すように宙を走らせた。
『知恵がある!』
『当然だ。わたしはお前たち、人間が話す言葉も理解している』
竜がオデュッセウスに語りかけてきた。
『話もできるのか?』
『可能だ。耳と目と口があるのだから』
『何をするつもりだ?』
『知れた事、我が肉体を奪い、空と海を支配する愚か者から全てを奪い返すのよ。肉体も空も海も、そして畏怖さえも!!』
竜は【名付けの祝福】を使って【風の王】に祝福と新しい形を与えようとしていた。
『【風神招来】』
先ほどと同じように今度は左腕を振るった。
次は王都の西側が吹き飛んだ。
それは先ほどよりもいっそう激しい爆風を呼び起こしていた。
『【水神降臨】』
海水が竜の意のままに操られる。理に反して波は竜のいる地上側から大海の沖の方へと向かい始めた。
【太陽の導き】が顕現した。それも黒い憎悪を塗られて。
黒い太陽が暗い光線を地上へと注いでいる。
竜は再び天へ向かって咆哮した。
大地と天空が震えあがり、彼方にある星々さえもその輝きを虚ろにさせる。
そして大海の沖の方から乳白色のほとんど同じ形をした1匹の巨竜が風と水をまとってやって来た。
王都の上空で黒竜と白竜が衝突した。
噛みつき、噛みつかれ、爪で抱き、抱かれ、ぐるぐると舞いながら、空を破壊し、海を伸ばして、竜と竜は1対の黒白となっていた。
王都の宮殿の外にいたひとりの傷ついた民衆を先導していた騎士が呟いた。
「この世の終わりだ」
バルドウィンはクローヴィスと対峙しながらこの光景を目にした。
「王よ!」
呼びかけるが老いた王にその声は届かない。
クローヴィスがその王を突き落とした玉座に座ってこの黒白に混じり合う竜たちを見やりながら言った。
「ほう、良い余興になりそうだ」
バルドウィンは王座から落された王とその王を支えようとする王妃を見て憤怒に燃え立つと胸をどしんどしんと叩き始めた。




