第57章 本当の選択
オデュッセウスは暗がりの中にいた。
あらゆる試みが水泡と消えていた。輝きをいくら与えてもこの闇の中では輝けない。
祝福はどんなものにも宿らなかった。
もはや何もかもが消え去っていた。触った感覚もない。底へ沈んだ感覚もない。前後左右も分からない。時の流れさえも消え去っていた。
そしてまた自らの肉体さえも暗闇の中へと消えていく。
拳を振るった。破った気がするがその先にも暗闇は広がっている。
【憤怒の炎】を滾らせてみるものの胸の内が熱くなるばかりで少しも照らしはしなかった。
胸の内に滾る炎がどこかを照らしている。
オデュッセウスはそのどこかを見ようとよくよく見ようとした。暗闇の中では己が内を顧みるのに容易かった。
そこには彼が培った関係と培えなかった関係の様々が映っていた。
その奥でたったひとりでしゃがんでいる人がいる。
オデュッセウスはその人へと近づいた。
すぐにも触れられそうなほど近づいてようやくそれが誰だかを理解した。
それはセシルだった。彼女はしゃがんでいた。膝を折った姿勢で手を合わせてどこかへと祈りを捧げている。
『ここで、なにを?』
もうどこにもいないはず。彼女が去った遺体はあの町が見下ろせるあの場所に祝福を授けて埋めていた。
『祈りを、捧げています』
返事があった。それは彼女の声だった。彼の記憶通りの声が聞こえる。
『あなたは死んだはずでは?』
『人は生命のある限りはそうでしょう。でも、残した者の心の内で生きる事は有り得ます。わたしがあなたの生命を信じて祈りを捧げ続けたように』
『それの正体はなんだろう?』
『思い出、記憶、過去。あらゆる形を取り得るでしょう。それは名付けと言ってもいいかもしれませんね。あなたが感じたいように感じたらいいでしょう。認識と言っても差し支えありません』
『思い出?』
『まあ、笑ってる』
セシルは立ち上がってオデュッセウスの頬を撫でた。彼はその手を受け入れてなされるがままに立っていた。
『今、ここにいるきみも思い出だろう?』
『本当にそう思っているの?』
『そうじゃないのか?』
『だって、あなたに肉体はない。あなたは弾き出された魂が寄り集まって生まれたと語った。なら死者もまた肉体を離れた魂のはずでは?』
『なら、きみは本当にここに?』
この暗い底、何物にも照らされない恐ろしい終焉の中にいる。
そんな事は信じたくなかった。
『さあ、さっきにも言ったようにあなたが感じたいように感じるはず。認めたいように認めるしかない。あなたは自分の生まれ落ちた場所を離れて肉体と魂の世界へと魂だけでさ迷っていた。魂だけがたどり着くあの場所は魂なら行けるはず』
『待て、そうなるときみはさ迷っているのか?』
『大丈夫、さ迷いなんてありえない。わたしはわたしの光を得ている。光のために祈っているの。でも、少し暗い』
オデュッセウスは自らの誕生の場所、あの寂しい完全な孤独な場所に彼女がいると思うと耐えられなかった。
『暗いだろう』
『寂しいだろう』
『悲しいだろう』
『そうね、そして暗い』
『そう、暗いんだ』
『照らしてくれない?』
『照らす?』
『だって、ここはあなたがいた場所。さ迷える魂のために、いずれ訪れる魂のために、そして今、何者かによってそこへと追いやられようとしている魂のために』
『だが、俺は何物も持っていない。憎しみと怒りの炎だけしか握っていない哀れな魂なんだ。だからこそここで培った全てが大切なんだ』
『人であるのなら選択しなくちゃいけないの。そして今、あなたは選択を迫られているんだわ。だって、あなたが頑なに持ってきたそれが今こそ変わろうとしているのだもの。その変化はあなたが培ってきた様々な関係がそうさせている』
『選択?』
セシルは立ち上がった。そして例の優しい微笑みを浮かべていた。
『もう行くね。これで本当にお別れ。もしかしたら会えるかもと思って来たの。だから、会えて本当に嬉しかった。でも、もうお別れなの。わたしは次へ進む事を決めたから。あなたもきっとそれを選ぶ。オデュッセウス、大好きよ、本当に大好き。あなたなら力強くそれを選ぶ違いないわ。わたしはあなたを信じてる。信じてるからこそあなたの決断が分かる気がするの。そしてきっとあなたも分かっている。わたしが次へ進む事を。信じて、信じられて、信じ合う』
オデュッセウスは彼女の言う事にどう応えたものか分からない。口から言葉は出なかった。彼女はあらゆる示唆を彼に与えてきていてそのどれに応えたものか彼には全く分からなかった。
『悩むあなたも、決断するあなたも、闘うあなたも、何もかも大好き。ずっと変わらないから覚えていてね。ここで会うことは無くなるのね。ぽっかりと空いた洞のような暗がりがある。わたし、すぐに見つけたの。この洞を。憎しみと怒りの獣ではいられない。本当に人間であろうとするのなら名前だけじゃ不完全だわ』
『待って………』
オデュッセウスはまだ様々な事を彼女に聞きたくて引き留めた。どこにも行かないでくれと言おうとしてもこの暗がりの中で過ごさせるほど無残な事はない。それはオデュッセウスが最もよく知っている。
セシルはまた柔らかく微笑んだ。
そして一歩だけ歩みを進めた。
『オデュッセウス、大好きよ。だから、またね』
オデュッセウスは我に返った。返ったところでそこはまだ暗がりだった。
あまりにも暗い。だが、この暗がりの中を彼に名を授けた彼女が歩いている。彼女はさ迷いなど有り得ないと言っていた。
それなのにそこは全く光はないのだった。
『さ迷いなど有り得ない』
『セシルはいつも真っすぐだ』
『目的地が定まっているからだ。定まっているからこそさ迷いなんて有り得ない』
『この暗いところで?』
『次へ進むと言っていた。彼女はおそらく本当に次へと向かったんだ。我らの同胞が救われて次への誕生へと向かったように。彼女もまた次へと進んだんだ』
夜の道、暗き底、何物にも照らされない恐ろしい終焉。デールの唱えた言葉を思い出していた。
次へと向かうための終焉。
オデュッセウスは理解した。
『あの時、あの場所で我らが最も欲しかったもの』
『弾き出された魂が次へと向かうために歩むべき道、向かうべき先』
喪失感に怯え、震え慄き、憎しみと怒りに身を任せていたあの一瞬が蘇ってくる。
自分の事なのにそれはどこか他人のようだった。それは時間と彼が培ったそれらがそうさせていた。
『一条の光。歩むべき道を、向かうべき先を教えてくれる一条の光』
『照らせ、我らには炎がある。そしてそれに祝福を与えられる!』
『今すぐにするんだ!』
『先を歩むセシルのために。さ迷える魂のために。彼女やそして多くの魂がさ迷わぬように!』
『憤怒の炎よ、燃え上がれ!!!』
『全てをくべろ。あらゆるものを燃やし尽くせ!!!』
炎が赤々と燃えている。それはそこを照らしていた。だが、もっと燃え立たせねば。
そしてそれはさらに巨大となっていく。
彼の怒りと憎しみの炎はこれまでにないほど高まっていた。
その姿に彼は見覚えがあった。生まれ落ちた先の世界で見たあの巨大な物体にとても良く似ていた。
『太陽の加護を今ここに。全ての魂が道を踏み違えないために道を照らしたまえ!!』
『太陽神の加護を!!!』
巨大な赤々と燃える灼熱が宙に浮き上がった。
オデュッセウスはそこに全てのさ迷える魂の悲し気な背を見たような気になった。
【名付けの祝福】が浮かぶ太陽に祝福を授ける。
『【太陽の導き】』
全ての闇が払われていく。




