第55章 聖者と獣
オデュッセウスは風よりも速かった。
もしかすると光と同じ速度だったかもしれない。
人の目にも獣の目にも止まらない速度で彼は駆け抜けた。
そして盲目の神父デールと出会った例の町へとたどり着いた。
彼は獣の姿からオデュッセウスの人型へ姿を変えると町の中へと踏み込んだ。
その一歩目から不穏だったかもしれない。
町の人々はまるで獣から人へと姿を変えたその時を見ていたかのように彼に疑いの目を向けて来る。町へ入る前の木の裏で姿を変えたはずだから誰にも見られていないはずなのに。
オデュッセウスは真っすぐに教会へ向かった。
扉の前に立った時、彼は一瞬の躊躇もなく扉を押して開いた。
罠がある事や待ち伏せされている事は考えたが望むところだった。
「来ると思っていましたよ。その扉が開かれて人が訪ねてくるのが見えていましたから」
「デールと言うんだな」
「ええ、いつぞやは名乗りませんでしたね」
「その時からこの瞬間が見えていたのか?」
「ええ、もちろんですよ。貴方の行く末もね。悲しいですね、貴方は運命に抗えない。どれだけ拒絶しようとも貴方は悲しい結末を迎える。すなわち人にも獣にも、いかなる生命にも理解されない貴方だけの孤独という結末を」
「慣れている」
「悲しい言葉ですよ。慣れだなんてね。慣れてどうにかなりますか? 受け入れてどうにかなりますか? あるいは拒絶しても? どんな寄り道をしても貴方の孤独はますます強くなる。そして少しも貴方の炎は休まらない」
「休まるさ。貴様ら転生者の息の根を止める度に傷のひとつひとつが癒えていく」
「ええ、そうでしょうとも。ですが、我々がつけた傷ではないし、それは真の癒しではない。貴方の傷は見えざる手によって付けられた悲しい傷ですよ。ですが、本当に分かっておいでなのかな?
その末がたったひとつの傷になった時、貴方が見るのは悲しい完全な孤独の魂と癒されぬ傷なのですよ。それは決して癒されません。癒されて時を貴方は見る事がない。もし癒された時を迎えるとしたらそれは貴方の苦しむ魂が救われる時、この世から姿を消す時なのですから。そうであるがゆえに貴方という魂は傷によって支えられている」
デールは壇上でステンドグラスから注がれる色鮮やかな光を浴びながらオデュッセウスを見ていた。
「その傷は何ものによっても癒されない。悲しい、本当に悲しいですね。悪い事は言いません。貴方はここで全ての重荷を下ろしていくべきですよ。生まれ落ちてから業を背負って歩んで来た道のりは過酷だったでしょう。だが、微かな安息があったはず。その安息を探しなさい。そして得た安息を大切にする事です。なぜ、辛い事に目を向けるのですか?
なぜ、誰が背負わせた物でもない自ら選択して背負った重荷ばかりを見るのでしょうか?
今、貴方の隣を歩く優しい人のために生きる事を選択しなさい。それが唯一、貴方の傷を癒しうる方法です」
リリーやアリーシャ、ぺピンやアルフリーダ、ベレットの事を思い出していた。そしてレーアやクレイやコードをも。
そして亡きセシルを思い出していた。
デールの言う事にも一理ある。
この先にもオデュッセウスの事を全てとは言わないが少しずつ理解を示してくれる人が現れるかもしれない。
だが、オデュッセウスはデールの言葉を少しも飲み込もうとしなかった。
「お前たちはいつも身勝手な事を言う。忘れてどうなる? 炎を消してどうなる? どうにもならないさ。いずれまた蘇る。傷の疼きを思い出して、あるいは貴様ら転生者が英雄などと自称するかのように人々の上に立った時に俺は生まれを思い出して苦しむに違いない。何故だろうか、俺たちはなぜ違う? どう違うのだ?
神の手によって作られたはずだ。貴様らが選ばれた存在だと言うのなら我々もまた選ばれた存在のはずだ。我々が傷を負うているからか? そうだと言うのなら今こそこの傷を無傷の連中に同じように突き付けてやらなければならない。傷を癒すのが不可能ならば傷を付けるのは可能なはずだ。俺がそれをしようとする限り。完全なものなどない。傷があるがゆえに不完全ならば、皆が不完全になれば良いのだ。我々に肉体はない。貴様らに奪われたからだ。
ある転生者が言っていた。常に何か繋がりのようなものを感じていると。それは前世の記憶を持つがゆえに抱く繋がりだと言っていた。そして引き付け合うと。肉体を蹂躙されて魂を傷つけられてそれを忘れろと言う。決して飲めない言葉だ。傷が忘れるなと叫ぶ、断ち切れない繋がりは何も貴様らだけではない。次の生命に旅立つ同胞も断ち切り、次へと進むために自らの肉体を自らの手で傷つけたのだ。その苦悩、その葛藤、貴様らに分かってたまるものか!!」
「本当に我々は分かり合えないのですね。コインの表が見る風景と刻印は裏の見る風景と刻印は異なる。わたしたちの見ている風景とあなたの見ている風景は異なる。この世界の在り様もそれほど厳しいものではないはずだ。あなたの蒙を啓くのはいったい誰がなし得る事でしょうね。本当にその不在が悲しい」
オデュッセウスは呆れたように息を吐いた。それはいわゆるため息だった。もううんざりした様子でいる。
「お前が言ったようにこの世界は悲しみだけでは成り立たない。投げられたコインが地上に落ちようが人の掌の上に落ちようがテーブルの上に落ちようが表と裏ではその都度に見えるものは異なる。異なりながらもそこに喜びを見出せる事はある。
だからこそお前に言っておこう。俺はもう十分に恵まれている。本当に充分なほどに。もうこれ以上には必要ない。名を得たのはそれを授けてくれた人がいるからだ。つまりは名もなき生命だと理解してくれたがゆえに。友を得たのは知ってくれたからだ。俺がどのような者なのかを」
ステンドグラスの光を浴びて鮮やかに光るデールと扉から入ってすぐのところにいるオデュッセウスは影の中にいた。
この影の中にいる彼はほとんどその暗がりで見えなかったが驚くほど優しく微笑んでいた。
「その傷とそれから生じる不幸を背負うのはたったひとりでいい。そう、つまりはオデュッセウスだけで良いんだ。背負う覚悟は出来ている。これは俺が背負うまでの道のりなんだ。たったひとりになっていくための旅路。苦しみに悶え苦しむ魂たちを救い、次の生命へと進ませる光への、表を歩む道のりなんだ」
オデュッセウスは前へ進んだ。光の中へと入った。
「だからこそ転生者に告げる。お前たちは障害に過ぎない。邪魔をするな、凡愚ども」
「悲しいですね。やはり我々は分かり合えないようだ」
聖者と獣がぶつかる。




