第6章 反英雄
図書館の中は耳が痛くなるほど静かだった。
正面の入り口から入ったがマヤーは向かう場所を分かっていないらしく辺りをきょろきょろと見回している。
「リリーは図書館に来た事があるのか?」
「ないよー。ぜんぜん来ない。初めて来るんだから。オデュッセウスは?」
「俺も初めてだ」
「えへへ、本は読まないって言ってたもんね。それにしてもたくさん本があるね。全部読むのにどれくらいかかるかな?」
「さあな。とにかくたくさんの時間がかかるだろう。ここにある全ての本を読もうと思うならな」
「酷い苦労だねー。そんな事をマヤーさんはお仕事にしてるんだ。ギルドにいる方が楽だね」
オデュッセウスは苦笑いで返した。
「人には向き不向きがありますから。リリーさんはギルドで働くのは楽しいでしょう?」
どうやら聞こえていたらしい。案内板を見ていたマヤーが笑ってリリーに尋ねた。
「楽しいよ、すっごい楽しいんだから。ね?」
リリーは自分の言った事が悪口と取られないようにする明るい調子を装った上げ調子で言うのだった。
オデュッセウスを見て助けを乞うような眼をするのでオデュッセウスも同調した。
「そうだな」
「合ってるんですよ、きっとね。わたしもこの書籍の調査や研究が合ってるんです。ちなみにここの本を全て読もうと思ったら一生かかっても無理ですよ。それだけ莫大な数なんです」
「ほえー。それだけの人が本を書いたって事ですね」
「そうです。その通りです」
「そんなに調べる事ってこの世界にあるのかな?」
「たくさんありますよ。ここに書かれていない知識もまだまだあります」
「ふーん」とリリーは興味が無さそうだ。
「ところで従者さんはここにいるって分かってるんですか?」
「分かっていると思いますよ。わたしがする仕事も理解していますからね」
「いったいどんな用事なんですか?」
「それは、その」
「ごめんなさい。その興味だけで」
「いや、いいんです。当然の疑問だと思いますから。そうですね、家族の事情と言いますか。仕事の事情ではなくて私的な事情による離脱です。ですが、すぐに帰って来ると思いますよ」
「家族ですか。それは大切な事情ですね」
「ええ、大切な事情だと思います」
マヤーが歩き始めたのでオデュッセウスとリリーもその後に続いた。
リリーはオデュッセウスの隣を歩いている。
「マヤーさんって何歳だろ?」
「見たところ30代といったところだろう」
「そんな感じだね。結婚してるのかなあ?」
「気になるのか?」
「べつにそんな気になるって感じじゃないけど。どうだろうなーって。べつに好きってわけじゃなくって興味本位で」
マヤーは受付の司書から台車を受け取るとあれこれと会話をして整然と並ぶ本棚の方へと歩いていく。
彼はそこから数冊の本を手に取って台車に積んだ。何十冊と積まれると机まで運んで中身を検める。そのような事を繰り返してマヤーは夕方まで図書館で過ごした。
護衛をしているオデュッセウスとリリーには退屈極まる時間だった。
リリーは近くにあった本棚から適当に本を持って来てぱらぱらとページを繰ってみるのだが内容が理解できないみたいですぐに元に戻している。
「たいくつ」
広い窓際の長椅子にだらりと座ってリリーは呟いた。
オデュッセウスはその長椅子の端に腰かけている。リリーの呟きに返す事もまばらになって今は返さなかった。
2人がいる窓際は東向きに開かれているので西日は入って来ないのだが真向いの大きな窓からは強い陽が射し込んでいる。
マヤーが大きく伸びをして気を持ち直す様子が見える。
2人が自分を見ている事に気が付いたマヤーがにっこりと笑うと立ち上がって2人の方へと近づいて来た。
「大丈夫ですか?」
「はい。わたしたちは大丈夫です」
「そうですか。もう少しで終わりそうです。あと、オデュッセウスさんにこれを」
そう言ってマヤーが差し出したのはそれほど厚みのない一冊の本だった。
「これがあって良かったです。転生者についてまとめた本ですが比較的によくまとめられている本だと思います」
オデュッセウスは受け取った。渡された本の中身に目を通して見る。文字は少なくて絵もところどころにある本だった。
「読んでみるよ」
「ええ、ぜひ」
「たくさんの書籍を読むと言っていたが病気のような事にも詳しいのか?」
「医者ではありませんがそれなりには詳しいと思います」
「実は最近、出目の獣に会う事が数回あったんだ。右目が外部に突出した獣だったんだがそうした病気はあるのか?」
「出目ですか、その獣とは?」
「ディルミノーティラと名前は分からないが猿の獣だった。マヤーは見た事があるか?」
「いえ、ありませんね。生物的な特徴として僅かに左右差を認めるほどの突出としてそれが見られる事はありますが病的なほどそれを認める獣には出会った事がありませんし、報告も読んだ事がありません。そのような獣がいたのですか?」
「ああ、少し気になってね」
「えー、そんなの居た?」
「この間のディルミノーティラの茂みの奥に居た1頭はそれだった。あとはこの王都に来る前にも見た事がある」
「へー、どこで見たの?」
「コトブスの谷だ」
「見たところにもう一度行ってみると言うのも手ですね」
「いつかそうしよう。ありがとう、それだけでも助かったよ」
「いえ、お力になれずすみません」
台車の上に載せられているたくさんの本をマヤーは司書へ預けた。
「あれを借りようと思います。我が国にはない書籍でしたからいくらか含蓄のある本だと思いました。夕飯を食べようと思いますがお2人はどうするんですか?」
オデュッセウスはリリーを見た。
「わたしたちはそれぞれでとなっています」
「よろしければご一緒にどうですか?」
リリーは判断をオデュッセウスに委ねたようだ。「え」と短く呟くとオデュッセウスを見上げている。
オデュッセウスには食事の必要はないがマヤーと接触を断つのは憚られた。彼から引き出せる情報はまだあるだろうと判断したオデュッセウスはこっくりと頷いた。
「構わない。行こうか」
「良かった。おすすめのお店などありますか? 王都の名物が良いのですが」
オデュッセウスには好みはない。
リリーを見るとぶすっとした様子で口を尖らせている。
「リリー?」
「王都は、肉料理が有名ですよ。鳥・豚・牛なんでも大丈夫です」
「そうですか。肉料理ですか。ではリリーさんのおすすめのところが良いですね。ご案内していただけますか?」
「はーい」
リリーは考え込んでから恐る恐るオデュッセウスに尋ねた。
「代金って誰もちかな?」
「俺はあまり持ってないぞ」
「わたしもだよー。どうしよー」
自分の食事分だけしか2人は持っていなかった。
「お値段は気にしないでください。許可証をいただいていますから全てこちらがお支払いします」
どうやらまた聞こえていたらしい。
そうと分かるとリリーはいくらか格式高いレストランに案内した。
そこは肉料理の良い香りの漂う店だった。
ウェイトレスにリリーが事情を説明して景観の良い静かなテーブルを案内してもらうとおすすめの肉料理を注文した。
「とても良いレストランですね。2人は良くここへ来るんですか?」
「こんな高いお店には来ないですよ。いつもどこかの居酒屋か安い食堂を使います。この間だってギルドメンバーが増えたお祝いが安い食堂だったんですから。滅多な事がない限りは来ませんよ。今日は特別です」
「なるほど。わたしたちの支払いですからね。ご遠慮なく注文してください」
「もうたっぷりと注文してますよ」
リリーの嬉しそうな表情を見てマヤーも少なからず嬉しそうだった。
「わたし、ちょっとお花摘みに行ってきますね」
マヤーに断ると「ええ、どうぞ。ごゆっくり」と言って見送った。
「オデュッセウス、お願いね」
「分かった」
リリーがウェイトレスにトイレの場所を尋ねている。
「元気な方ですね。いるだけで場が華やぐような」
「そうだな。そうかもしれない」
すっと潮が引いていくように場の盛り上がりはリリーの不在によって下がっていった。
沈黙が長く続いた。オデュッセウスはそのような事があっても少しも気兼ねしないが、このマヤーという転生者の事を調べているという男についてはまだ尋ねたい事がある。
「“本来、入るべきはずだった”魂の存在を問いかけたと言ったな?」
とつぜんオデュッセウスが口を開いた。
「ええ、言いました」
驚いた様子もなく彼は答えた。
「実際にその魂を見た事があるのか?」
「いいえ、ありません。わたしはそもそも転生者にすら会った事がありません。伝説上の存在となっているのです。転生者を英雄とするのならその魂たちは反英雄と言えるでしょう」
「反英雄?」
「はい。恐らく英雄に敵対する存在となるでしょうから。生まれながらにしてね。我々、凡人は転生者がその存在を秘匿すると我々には感知できません。ですが、その反英雄は直感的に感知するのではないだろうかと思っています。
それはもしかしたら“本来、入るはずだった”肉体に魂が共鳴するが故の感知かもしれないのです。わたしは転生者の存在を信じますがこの反英雄というさ迷える魂の存在も同様に信じているのです。もしも今を生きる人々が転生者を是とするのなら民衆は転生者に敵対するこのさ迷える魂を非とするかもしれない。ですが、真にこの世の理を理解するにはこのさ迷える魂にこそ寄り添う必要があると思うのです」
ウェイトレスが前菜を運んできた。
それに構わずにマヤーは続ける。
「ですが、わたしはそのさ迷える魂がこの世界に現れているかも分かりません。転生者は肉体を得ていますがこの弾かれた魂には肉体がないかもしれないのです。これを我が国では魂の加算と呼びました。転生者が増える事をそう呼ぶのです。肉体の数は変わりません。
魂だけが増えて行く。増えすぎた転生者の魂の宿り先をなんとか作るために世界は魔物や無機物にまでそれを広げたのかもしれないのです。人間という種だけには留まらない転生という真理を我々は紐解こうとしています。無機物と魔物にまで広がったのはこの機構のタガが外れつつあるサインなのではないかと考えられているのです。そのタガが外れた先に我々はどうなるか分かりません。
ある研究者は今、ここに生きている我々の魂がとつぜんに転生者に奪われるという可能性をも示唆していました。そしてわたしやあなた、リリーさんの魂は弾かれてこの世をさ迷う事になるのかもしれないのです」
テーブルの上は料理が載った皿で埋まっていく。注文した料理のほとんどが運ばれて来ていた。
「あなたはどう思われますか?」
オデュッセウスは自分の事だが自分以上にそれを考えている者に初めて出会った戸惑いとその問いかけに戸惑った。
この戸惑いはバレるのを避けなければならないという考えから来ていたがバレたところでどうという事もないとオデュッセウスは思った。
マヤーはオデュッセウスの返答を待っている。
「難しいな。俺には分からない。だが、肉体を奪われる感覚とはどういう感覚なのだろう?」
マヤーに問いかけながらオデュッセウスは思い出していた。奪われた感覚はない。気が付いて自我を持った時にはあの空間の中にいた。
「分かりません。ですが、この上ない苦痛でしょう」
オデュッセウスの問いにマヤーが答えるとそれが良い区切りになった。
「冷めてしまいます。食事をしましょう」
やって来た料理を見てマヤーが言った。ナプキンを広げる方法をオデュッセウスは真似てナイフとフォークを持った。
「そういえばリリーさんが戻って来ませんね?」
言われてオデュッセウスは気が付いた。リリーが戻って来ていない。それもずいぶん長い間だった。




