第82章 最悪な人生
振動に抵抗するためにオデュッセウスは全身に力を込めて振動を堪えた。
僅かに身体が動かせるようになる。
涼音の開いた口の先で溜められている水の玉は今や凄まじい練度になっている。
そして咆哮と共にそれが放たれた。
練度を保ったままで直線状に伸びていく。
オデュッセウスの身体はその直線の上にあった。半身が焼かれて行く。
力を込めていたのが功を奏して防御のようになっていたがダメージは甚大だった。
痛みのみならず死を感じたほどだった。
彼らは痛みによる死というよりも苦痛に心が負ける事に由来した死を迎えるのだとこの時に初めて知るのだった。
こんなに辛い想いをするのなら死んだ方が良いと考える同胞が少しだけいた。オデュッセウスはその諦めようとした魂を力強く抱き寄せなければならなかった。
焦げ付く臭いがする。水竜の咆哮でその場の空気はひりついていた。
『闘いを長引かせるべきではない』
『ああ、そのようだ』
オデュッセウスは力を溜めた。
教徒たちが水竜の周りに再び集まっていく。その数はとても多かった。水をまとった教徒たちがひしめき合っている。
≪ミケル!≫
群衆の中から声が聞こえる。届くはずのない距離にいるのにその声はオデュッセウスにしっかりと響いて来た。
≪レーアか?≫
≪ええ、良かった。無事だったのね。セシルはどこ?≫
≪我らと共にいる≫
≪そう、本当に良かった。ここにいる教徒たちは水で操られているわ。スキルの発動は本人の意志だからそこまで操る事は出来ないと思うの。だから、水竜の本体の方を叩いて。きっと、いくらでも教徒はやって来るだろうから≫
≪そうか。レーアは今、どこにいる?≫
≪わたしの事は気にしないで。大丈夫だから。生きてるから≫
≪分かった。危なくなったら逃げろよ。あと我らの名はオデュッセウスだ。ミケルと言う名は捨てた≫
≪オデュッセウス、良い名前ね≫
オデュッセウスは集まる群衆が水の角を鋭くさせていくのを見ていた。
『不可能だろう』
『何の事だ?』
『あそこだ』
同胞が示したところには水の角を身体の前に突き出したレーアが居た。水の膜が彼女を覆って自由を許していない。
『そうか。レーアも』
『解放しよう。彼女は手伝ってくれたのだから』
『ああ、無傷は保証できないがな』
無数の角が射出された。
オデュッセウスへ向かってくる。
涼音が咆哮を始めて振動が伝わるとオデュッセウスの身体は自由を奪われる。
だが、転生者どもの思い通りにはさせたくない。
オデュッセウスもこの響く咆哮に負けないぐらいに自らの咆哮を轟かせた。
角はオデュッセウスの身体に当たって砕け散りながら落ちてゆく。
咆哮と咆哮がぶつかり合った。
せめぎ合いは均衡を作る事なく打ち破る。獣性はオデュッセウスの方が高かった。というのも身を作る獣の魂が一つ二つのみならずさらにたくさんの獣があったからだった。
涼音の開いた口の先に水の玉が作られていた。前の一撃よりもかなり練度が高まっている。あれ以上の物は誰にも作られないだろう。涼音の全力がやって来る。
オデュッセウスはここで決めるつもりで炎を、光を輝かせていく。
「行くぞ!!」
「来い!!」
玉からまた直線状に放たれた。ぎりぎりのところを降下して涼音へと近づく。
懐へ入るとオデュッセウスは彼女の腹部の水の鎧に突き刺さったままの山神ノ錫杖を握りしめた。
思い切りそれを突きこむ。
ばぎっと何かが壊れた音が聞こえた。水の鎧か、錫杖か。何かが壊れたのは確かだった。
すると、涼音の絶叫が辺りに木霊した。
凄まじい風圧を生じさせながら宙へと飛び上がる。
オデュッセウスは錫杖を握ったままそれについて行く。
水の鎧に血が混じっていく。
悲鳴を上げながら飛ぶ涼音はオデュッセウスを振り払うとぐわんと翻って大口を開けて宙に浮いて落ちていくオデュッセウスに咬みついた。
負けじとオデュッセウスも組み付く。肩から「虎狼の大牙」を生やすと水竜の首に咬みついた。
ぎりぎりと軋み合う。
咬み合う獣と獣が宙に浮いている。
ぐるぐると回転していく様子は異形だった。
「化け物だ………!」
教徒の中の誰かが呟いた。
涼音の注意が完全にオデュッセウスに向かった事で教徒たちを支配していた水の力が弱まったのだろう。
この言葉に涼音は大いに反応した。
そして一瞬だけ力が弱まった。
その機に乗じてオデュッセウスは猛攻をしかける。
「虎狼の大牙」をさらに大きくさせて身体ごと飲み込もうとする。
「くそ、くそ、くそおお!!」
涼音が叫びながら抵抗するが黒い玉に呑み込まれた。
宙に黒い玉が浮かび、教徒たちは獣と竜を呑み込んだ黒玉を恐れて見上げていた。
『なに、ここ?』
水竜こと水野涼音は高校生の制服姿で立っていた。
短い髪の毛と浅黒い肌が見えている。
『ここは我らの生まれた場所、作り変えられた場所』
『ふーん、生まれた場所かあ。興味ないや』
『ふん、そして死に場所でもある』
『わたしたちの? それともあんたの?』
『さあな、少なくともお前たちのものではある。ここで瀬川勇気が死んだ。他にも多くの転生者たちもな』
『あんたが来るまでは普通だったのにさ。でも、いつか終わりは来るかもしれないって思ってた。それが今なんだね』
『覚悟はあったのか?』
『そりゃあね、覚悟はあったよ。あーあ、最後に力が緩まなければ勝てたかもな』
『いや、それでも我らが勝っていただろうな』
『ちぇっ。こんなところから早くおさらばしたいよ。あんたはここをどう思ってるの?』
問われてオデュッセウスたちは考えなければならなくなった。
『ここは名を得てから形が変わった。それまでは全くの暗闇だった』
それが今や明るいところと暗いところとがある。朝と夜、光と闇の空間。
転生者たちの陽の世界とオデュッセウスの闇の世界が入り混じっていた。
もはや彼は孤独でも孤高でもなかった。今回の闘いで得る物は多かった。だが、失った物も多い。
オデュッセウスは涼音を見た。
まるっきりの少女だった。
『さらばだ、転生者よ』
『ふん、最悪な人生だった』
オデュッセウスが水野涼音を圧し潰した。




