5.甘いクリームとバターの香りには渋いお茶が欲しくなる。
「レグナード?!」
一瞬、アストリッドの事が頭から抜け落ち、気が付いたら俺は駆けていた。
遠目からちらと眼を向けただけだというのに、あの二人だと俺はすぐに気が付いてしまった。これが運命の神の手による悪戯なのだとしたら、その神は、絶対に俺の敵だ。
二人とも何時もの見慣れた格好ではなかったというのに、何故俺は、それが彼女達だと気付いてしまったのだろうか?
外套を纏った彼女達は、まるで建物の影に隠れる様に、壁に身を預け蹲っていた。その儚げな様子が、酷く俺を不安にさせたのだ。
「……これは、酷い……」
俺の後を追ってきたアストリッドが、彼女達の姿を見て呻いた。
「おいっ! レジーナ! クラウディア?!」
二人とも、こちらの呼び掛けに全く反応が無い。
遠目で外套に見えたソレは、どう見てもただのボロ布だった。肩を揺すった拍子に、少しだけ開けて素肌が見えてしまったが、その下は何も無い。
布から少しだけ露出した彼女達の肌には青痣が目立ち、痛みに耐えかねて回復術を使ったのだろうか、中途半端に治りかけた切り傷や、火傷の痕が多数見受けられた。ひょっとしたら回復術をかける前は、足の骨が折れていたのかも知れない。下肢の傷は上半身のそれよりも薄く目立たなかったのがその根拠だ。それだけではない。彼女達から立ち上る男の体液特有の臭いが示す通り、夥しい量の乾いたそれの痕跡があった。
「……アストリッド。面倒をかけてすまないが、ギルドまで戻って、人を呼んできてくれ」
「……解りました」
あの馬鹿の裏切りによって袂を別つ事になったとはいえ、彼女達は一年以上も同じ窯の飯を食ってきた仲だ。
ずっと疑いの目を向けていたとはいえ、それなりに長い時間を共有していたお陰か、思い描いていた様な連携が上手く取れた時は嬉しかったし、少しばかりこちらから歩み寄っても良いんじゃないか……? ふと、そんな気の迷いが脳裏を過った事もある。あの夜の茶番劇は、そんな矢先に起こった出来事だった。少しは落胆もしたが、できれば、彼女達のこんな落ちぶれた姿なんか見たくはなかった。
そりゃ、追い出した時分は……
『俺の知らない所で、精々不幸な目にでも遭っちまえ!』
……なんて、そのくらい思っても、バチは当たらないだろ?
だが、彼女達の凄惨な今の姿を見て「ざまぁ!」なんて、口が裂けても言える訳が無い……これは、いくら何でも極めつけ過ぎだ。
お前の器の狭さのせいでこうなったんだぞ。そう、無理矢理に思い知らされた様な、胃の辺りを締め付けられ吐き気さえしてくる最悪な気分だ。
「眼窩底骨、鼻骨、頬骨、下顎も逝ってるか……歯の欠損、多数。糞っ、女性相手にここまでやりやがるのかっ……」
陵辱の限りを尽くされ、こんな手酷い怪我を負って。恐らくは着る物も無いまま、僅かな隙を突いて這々の体でここまで逃げてきたのだろう。
一体、彼女達が何をしたというのだ? ここまで辱められ、痛めつけらねばならぬ様な事を、本当にしでかしたというのだろうか?
あの屑野郎は一体何してやがったんだ? 彼女達は、お前の仲間じゃなかったのか? 情婦じゃなかったのか? 解らない事だらけで、この怒りのやり場が見つからない。
「糞っ。何も解らない事が、こんなにも腹が立つなんてっ……!」
今でこそ軽戦士の中でも最上級に位置する称号職<魔影舞踏士>を名乗ってはいるが、俺の前職は回復術士だ。
彼女達の傷は、絶対に治す。肌の染み程の傷痕も、残してなんかやるものか。
俺は大きく魔力の腕を拡げ、その腕の届く限りのありったけのマナを根こそぎ支配下に置いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あの後、二人の身柄は、そのまま俺が引き取る事にした。
ギルドを信用していない訳ではないが、ギルドには多くの”他人の眼”がある。彼女達のこんな姿を晒す訳にはいかないし、心の平安を少しでも念うのであれば、慣れ親しんだ環境に置く方がきっと良い筈だ。
……何を今更。
お前のやってる事は、ただの自己満足だ。偽善なのだと、指をさして笑いたくば笑えば良い。俺も今、心底そう思っているのだから。
◇◆◇
「……あのね、レグ」
「なんだよ?」
「お土産は、嬉しいんだけどさ……」
そりゃ、菓子箱を手に持ったまま何も考えず全力で駈ければ、その中身の状態は、推して知るべしって奴だ。
ヴィオーラの為に買ってきた、今まで頑張ってきたご褒美”少し余所行きの高級生菓子”は、その芸術的で艶やかな原型の一切を留める事無く、見るも無惨な姿に変わり果てていたのだ。
「……わりぃ。今度またちゃんとしたの買ってくるから、今日はそれで勘弁してくれ」
見た目はアレだが、味は変わらんだろうと開き直ってはみたものの、やっぱり、うん……正直すまんかった。
「……美味しいですよ? 私はこの様な贅沢なお菓子を口にしたのは初めてです♡」
うん。アストリッド、フォローありがとうな。貴女の優しさがささくれ立った心身に染みるぜ。美人ってなぁ、見た目だけでなく性格も良いんだなぁ……
「あによー? それじゃまるであたしが不細工で性格悪い小姑みたいじゃないか!」
「……似た様なモンだろ?」
「そうなのですか? ヴィオーラは、性格がお悪い……と」
「ちょっ!? 何メモってンのよ、アンタはぁっ!」
アストリッドは懐からメモ帳を取り出して何やら書き込み始めたのを見て、ヴィオーラは慌てた。
「人間の世界で遭った出来事を、私、日記にしているんです。こういうネタは、本当に有り難いんですよ?」
「……やめてやれ。ヴィオーラの名誉のために」
アストリッドの徒党加入には、ヴィオーラからは特に反対意見が出る事は無かった。逆に何も意見が出て来ない所が正直言って少しばかり怖いが、このまま何事も無く面子を揃えていければ良いなと思う。
まだ正式に彼女のギルドランクは決まっていないらしいが、あんの脳筋ハゲが言った通り銀級になるだろう。
ランクの高い人材が徒党に入ってくれれば、それだけでギルド内の評価も上がり、依頼の報酬額も増える。元々、黄金の俺に対し指名依頼が入る【暁】にとっては、これ以上デメリットが増える訳でもないので、徒党評価が上がる事には何も困らない。
「……でも、仕方無い、かぁ……そんな事があったんならさ。あたしがレグの立場だったら、絶対置き忘れてきちゃってただろうし」
「ってーか、買ってきてた事を黙ってた方が良かったかなぁって、少しばかり後悔してたりな」
「……その場合、きっと私が全部独り占めできたのでしょうね……次からは是非そうして下さい、レグナード。ヴィオーラには内緒で♡」
「うぉいっ」
文句を言いつつもしっかり完食し、名残惜しそうに菓子箱の隅にこびり付いたクリームを指で掬っては口に運ぶヴィオーラ。こらっ、意地汚い真似はやめなさい。
「気が動転してたせいで、中身がそうなっちまったがな。なるだけ早い内に埋め合わせするよ」
「うん、ありがと。でもさ、レジーナ達……どうなの?」
「あいつらに何があったのかは解らん。傷は完全に癒えた筈だが、あの状況では、な……」
全力の回復術で、彼女達の見た目は、以前の様に完璧に元通りに復元はしてみせた。だが、拷問(あの状態では、どう見てもそうとしか取れない)と陵辱の記憶は、回復術なんかじゃ決して癒せはしない。現実を受け止めきれずに心が壊れてやしないか? それが心配だ。
「……彼女達がああなっってしまったのは、全部俺が原因だろうな……」
回復術の行使前に行った走査で解った事だが、レジーナの右手首から先の腱と神経は上手く繋がっていなかった。今思えば余りに底意地の悪い話だが、それは俺の目論通りでもある。
ゴミ野郎の切断された右手に回復術をかけられるのは、あの中ではクラウディアしかいない。当然の事ながら、奴の右手もレジーナと似た状況になった筈だ。
恐らくだが、レジーナは利き腕が使い物にならなくなったので捨てられ、クラウディアは完全に癒やせなかった腹いせに切り捨てられのだろう。
……状況だけで考えるならば、これが一番しっくり来る。我ながら、本当に胸糞が悪くなる嫌な結論だが。
胃の辺りにずっしりと重い鉛を押し込められた様な、どうにも為様の無い不快感と罪悪感がじわじわと襲ってくる。
『『全部、お前のせいだっ!』』
まるで彼女達の声で、耳元でそうなのだと叫んでいる様だ。本当に、やるせない。
「……でも、あれはレグが悪いわけじゃ……」
「ああ。確かにお前の言う通りだよ。俺は、身に降りかかった火の粉を払っただけさ。ただ、やり過ぎた」
「それは、そうだけれど……」
正直に言ってしまえば、あいつら如き、血の一滴を流させる事もなく制圧するのは訳も無かった。
なのに、殊更彼我の戦力差を見せつける様に制圧してみせたのは、俺に対し上等な口を叩きやがったゴミクズへの意地の悪い意趣返しだ。
言うなれば、レジーナもクラウディアも、俺の心の狭さが招いた被害者でもあるのだ。
「そうやってご自分を責めるのは、まだ早いと思いますよ、レグナード? まだお二人は、目覚めていないのですから……」
セバスにお茶のお代わりを注いでもらいながら、アストリッドが少しだけ揺らぐ紅の瞳を俺に向けてきた。
「それに、もし貴方様の言う通りに、お二人が貴方を詰るのであれば、私は決して容赦しないでしょう。もしあの時、貴方様が彼女達を見つけていなければ、彼女達は、あそこで死んでいても、何らおかしくはなかったのですから」
「だが、その原因を作ったのは……」
「お黙りなさいっ! 私がそうだと言うのですから、貴方様は……ただ、素直に頷いていれば良いのです。そうまでしてご自分を苦しめて、何の益があると言うのですか……」
「……そうだな。すまない……」
今日出会ったばかりだというのに、彼女は、種族の違うこんな俺を、何処までも受け入れてくれている。
……今は、その気持ちに甘えよう。
いつも完璧な仕事のセバスが煎れてくれた紅茶が、今日だけは何故だか妙に渋く感じた。
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