10.辛い時にこそ余計に魅力的に感じる、”後回し”という言葉。
「……畜生。ぜんっ、ぜん終わんねぇ」
書類に目を通し、決済印を捺してサインをする。
それだけの作業なのに、いや、そういう”作業”だからこそ、手を抜く事ができない。
さらさらさらり。と、中身を読まず流れる様にサインした書類に限って、細かい文字で重大な”罠”がそこかしこに仕掛けられているなんてのは、まぁ良くある話だ。
早く”冒険”に出たいからと、テキトーにサインしたが為に負った”ツケ”を、全て弁済するまでに5年もの歳月が掛かったからなぁ……あの時支払った”授業料”は本当に高くついた。何せ、未だセバスにあの事を引き合いに出されてはグチグチと説教されるんだから、本当にたまったもんじゃない。
そろそろ日付が変わろうかという時刻になってしまったというのに、未だ決裁待ちの書類の束が幾つも残っている。流石に五日分以上の仕事を半日だけで全て片付けられるとは思っていなかったが、それでもある程度の目処は付けられるだろう、その予定でいたのに。
「……もうダメだ。明日の俺、頑張ってくれぇ……」
疲労した脳が、文章をそれと認識する事を拒む。集中力なんてのはとうの昔に尽き果ててしまっている。これ以上の作業は、本当に無理。机仕事でかちこちに凝り固まった節々を解す様に伸ばすと、関節同士が擦れ合って、ちょっと鳴っては不味い様な音が執務室で盛大に響いた。
「……うん。いい加減歳だな、俺……」
節々に走る痛みから自身の年齢を嫌が応にも自覚させられ、ほんの少しの後悔と、深い絶望感を味わう。そりゃ、もう幾つ寝ると魔導士系称号職ではない、真の”魔法使い”になるんだから、まぁ、うん……それでも、”称号”には間違い無いんだろうが。
もう時間が時間だし、寝る前に今から湯浴みなんてのは難しいだろう。一人の為だけに湯を沸かしなおすなんて、いくら我がドゥーム家が比較的裕福な貴族であっても、そこまでの贅沢は許されない。今日の所は清拭だけで済ますか……出先でない限りはなるだけ入浴したいのだが。
不眠番で常駐している家政婦が数名いるが、この程度の事で手を煩わせる訳にはいかない。基本的にそういう契約をしていないし。仕方が無いので、湯の準備でもするか。桶一杯程度なら、そこまで燃料もかからんだろう。
できる荷物運びは、こういう時の為に清浄という特殊魔法を習得しているのだと聞く。それさえあれば、徒党面子は常に身体と衣服を清潔に保てるのだとか。今度ミリィにそんな人材がいないか聞いてみるのも良いかも知れない。常に清潔であるということは、徒党面子達の心身の健康にもきっと良い筈だ。特に女性は身嗜みには気を遣うだろうし。
「ま、今はそんな事よりなぁ……」
今は、面子達の健康面に気をつける、それ以前の話だ。
『絶対にあたしは嫌よ。あの二人が入ってくるのなら、あたしは【暁】を抜ける。抜けてやるんだからっ!』
ヴィオーラにああ言われては、今のままでは、あの二人を入れる芽はほぼ無くなったと言って良いだろう。
【暁】を俺個人の単独徒党に戻さず、彼女を最初の面子として迎え入れた以上は、彼女の意思を尊重するのは当然の話だ。
だが、彼女は二人の加入に対し(そもそも二人には、まだ意思確認すらしていないのにも関わらず、だ)何故ああも強硬に反対の意思を示したのだろうか?
そういや、昔の馴染みからは良く言われたな。
『お前は会話をしなさ過ぎる。その上、言葉が全然足りない。人付き合いをするには、その性格は本当に不味いぞ。てーか、女を口説き落とすなんて、お前にゃ絶対無理だな』
その当時は、『ほっとけ、余計なお世話だ!』……なんて思ったもんだが、そんな俺が今では立派な”魔法使い予備軍”なのだ。少なくともアイツの言葉は俺にバッチリ当て嵌まったのだろう。
領地を持たぬ法衣貴族……しかも男爵家では、まともな縁談話なんかは、ほぼない。
精々、近しい歳の準男爵家の三女、四女辺りがいれば……程度だ。どこの家だって縁を結ぶならば、同じ男爵家でも領地持ちの方が良いに決まっているし、少しでも爵位が高い家を狙うだろう。俺だって、もし自分に娘がいたら、当然そういった家から順に選ぶ。
そんな訳で、まともな縁談話もなく、社交界でも積極的に交流を持たなかった人付き合い下手な男爵家の当主は、こうして独り身のまま”魔法使い”への道を順調に突き進んでいるのだという……
あれ? なんだか急に死にたくなってきたぞ……
もしかして”絶望の精霊”の影響、受けてないだろうな、俺?
……うん、深く考えるのはよそう。
取りあえず、寝る前に身体を拭いて、少しでも清潔になっておこう。明日は重要な”商談”が控えているのだから、身綺麗にしておかねば。
俺が席を立ったと同時に、執務室の扉を叩いたのだろう、微かな音がした。
「……うん?」
もう一度、今度ははっきりとした音で数度。
こんな時間に誰だろう? セバスはもう今日は辞しているし、家政婦達も同様だ。この時間、屋敷で働く家人は、不眠番だけの筈。
いくらあの馬鹿野郎がどうしよもなく馬鹿で短絡的であったとしても、こうして直接的手段を取ってくるとは考え難い。
まぁ、お隣の侯爵様のお小遣いと権力があれば、かなりの手練れの暗殺者は雇えるのだろうが、それでも今俺が誰とトラブルを抱えているかなんてのは、とうにギルドに伝達済みなので、もし俺に何かあった場合、真っ先に疑われるのはクズ野郎だ。
ここは敵対こそしていないが、奴の故郷の国ではないのだから当然侯爵様の権力もそこまで通用しない。
ま、それでも暗殺者が来てくれる方が、今の俺には有り難いのだが。
(……二人、か)
後ろ手で魔剣を握り、部屋の中央へと移動する。殺気は一切感じられないが、用心するに越した事は無い。テーブルとソファが少し邪魔だが、それでも執務机の向こうにいるより遙かに自由度は高い筈だ。もう一度のノックに、俺は返事をした。
「どうぞ」
「……レグナードさん。少々、お時間いただけますでしょうか……」
「……え? どうした、クラウディア。それに、レジーナも……」
そりゃ、何時かは話をしなきゃダメだろうとは思っていたさ。でも、できれば、今日、こんな時間に、いきなり……なんてのは、本当にやめて欲しかった。
だって、まだ心の準備が……俺の中で、全然できてなかったのだから。
◇◆◇
……なんて拒否るのも当然できるだろうが、彼女達の気持ちを考えれば、そんな無体な事は俺に出来る訳も無い。
なんせ、あのクラウディアは”野郎は全員死に絶えろ”と言って憚らない極度の男嫌いのアンほどではないが、男性が苦手だと聞いているし。
なのに、あのゴミ野郎には、二人とも普通に会話をしていたし、どうやら夜は……うん、基準が解らん。結局は童貞野郎の僻みでしかないんだろうがね。
「もう夜も深いし、ミルクティーにしたよ……で。二人とも、こんな時間に俺に何の用事だ?」
戸棚を探ってみた所、丁度昼のスコーンの残りがあったので、それを一緒に二人の前に差し出した。少し堅くなってるかも知れないが、その時はミルクティーに浸して食ってくれ。そのつもりで、器はカフェオレボウルにしたのだから。
「……はい。まずは貴方にお礼を。わたくし達二人の命をお救い下さいまして、まことにありがとうございました」
二人とも態々ソファから立ち上がり、俺にの横に移動し膝を折って深々と頭を下げてきた。礼の仕儀として、これは最上級のものだ。
「二人とも顔を上げてくれ。頼むから、そんなに畏まらないで欲しい。ただ俺は、あの時近くを通りかかっただけなんだ……本当に、ただの偶然なんだ」
あの日、俺が”ちょっと余所行きの高級生菓子”を買っていなければ。
俺は何時もの道を通って、屋敷に帰っていたのだ。あの道を通らずに。
あの時、アストリッドが物欲しそうに菓子箱を見ていなかったら……きっと、彼女達が路地裏で蹲っている所を、俺は見かける事はなかっただろう。
そして、アストリッドがダークエルフの優秀な精霊使いであったからこそ、”絶望の精霊”の手による永劫の眠りからの生還を果たす事ができたのだ。
本当に、彼女達の命が繋がったのは、そんな幾つもの偶然が重なった結果に過ぎない。
「俺は何もしていないさ。礼なら、アストリッドに言ってやってくれ。彼女がいたから、君達を救う事ができたんだ」
彼女達の緊張を解すことができればと、なるだけ穏やかな口調を心掛けて話をしているつもりだが、正直言ってあまり自信が無い。
特にクラウディア。ちらと彼女の仕草を視た限り、今にも緊張で死にそうになっている様子が手に取る様に解った。まぁ、ただでさえ男性が苦手だったというのに、あんな目に遭っては仕方が無い話だろう。俺ですら、彼女達のあの姿がトラウマになったくらいだ。
だからこそ、心の傷が癒えるまではと、なるだけ彼女達に接触しない様にしていたのだが、彼女達がこんな早くに俺の元を訪ねてくるとは思ってもみなかった。
「……お心遣い、ありがとうございます」
「レグナード、あなたには本当に感謝しているの。何もしていないなんて言わないで欲しい。だって、あなたでしょ? アタシ達の身体を治してくれたの」
膝を折り、頭を垂れながら二人は続ける。畜生、こいつら、俺の言葉を全然聞き入れてくんねぇ……
「クラウディアが言ったんだ。自分では治せないって、無理だって。もしさ、あなたに拾われる事なくアタシ達が自力で助かったのだとしても、あんな傷じゃ、アタシ達は人間として、女として終わってたと思う。だから、あなたはアタシ達の、命の恩人なんだ」
彼女達の身体は、それこそ染みの一つすらも残す事無く、完璧に復元してみせた。
それをできる”能力”が俺にはあったし、女性の顔をあそこまで辱める様な鬼畜の所行は、絶対に許せなかった。だって、俺の対応こそが原因なのだから。
「わたくし達は、死の顎から、命辛々逃げ果せました。でも、街の大通りを行き交う人達の姿を見て、気が付いてしまったのです。”今の醜いわたくし達の姿は、あの人達の目にどう映って見えるのか?”と……」
数々の暴行と陵辱の果て。そんな姿を衆目の目に晒されて、果たして正気でいられるだろうか?
他人の目を気にするのは、人として当然の話だ。
ましてや、彼女達の容姿は、男の俺の目から見てもかなり良い。10人中8人は振り向く位に魅力的だろう。そんな彼女達が、あの様な無残な姿になったのだ。その絶望感は、本人でなくば表現すらも困難だろう。
「そして、わたくしは願ってしまったのです。レジーナにも聞かずに、痛みの無い世界を。永久の眠りを……」
……なんてこった。
アストリッド、君の推理が的中していたよ。
ここにも居たのだ。”優秀な精霊使い”が……
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