いざ高円寺
週明け、語学の授業の終わりに藍子は清彦に近づいた。
「この間はすみませんでした」
「は?」
いきなり謝られた清彦は状況が分からず目を見開いている。
「中野区のお祭りで、星野さんの上に落ちちゃって・・・・」
「あ、あれ君だったの?刃物を振り回す恐ろしい女の人がいると思ったら」
同級生達が何の話をしているのかと二人を見る。
「怪我しなかった?」
「はい、大丈夫です」
「猿も木から落ちるって言うしね。あ、君がお猿さんみたいって言いたいんじゃないよ」
「分かっています。あ、あの、星野さんの演奏を拝聴したら、曲も素敵だし、サックスもお歌も上手で驚いちゃって、もっと聴きたいと思いました。文化祭でも演奏するんですか?」
藍子は自分の感動を急き込んだ口調で伝える。
「出来ればそうしたいね。そうだ、来週高円寺でライブがあるんだけど、来る?」
今話したばかりなのに友達のような扱いを受け、藍子は大感激である。
「はい、勿論!」
清彦は自分のカバンからチラシを取り出した。
「入場券が千円で、ワンドリンクが付くよ。友達を誘って来てよ」
そう言って清彦は藍子に笑顔を見せた。藍子はいつも清彦の笑顔を横から盗み見していたのだ。今、その笑顔は藍子に向けられた。藍子はチラシを両手で持って、
「ありがとうございます。絶対に行きます」
藍子の口調は同級生と言うよりも、タレントに向き合ったファンそのものだ。藍子は自分の名前を名乗っていなかった事を思い出し、
「私、鵜飼藍子って言います。友達からアイアイって言われています」
「アイアイ・・・・これまたお猿さんみたいな」
清彦は苦笑した。
昼休み、藍子は友人達にチラシを見せてライブに誘った。彼女等も語学クラスの級友である。
「高円寺でライブだって。みんなで行こうよ」
誘われた級友達も満更ではないらしく、
「ライブハウスなんてドラマの世界だけだと思っていた」
「東京って凄いねぇ」
と興味深々である。日時は来週の土曜日、夜からだ。土曜日は夕方まで合気道の稽古があったが道場から直行すれば十分間に合う。藍子はカレンダーにライブ、と赤い字で書き込んだ。
待ちかねた土曜日、合気道の稽古の後高円寺に向かう。武器稽古があったので木剣等の武器を携えての高円寺詣でだ。駅前で級友二人と待ち合わせをした。藍子達三人は大学デビューよろしく週末のライブハウスに繰り出した。特別な夜なので藍子はとっておきのシャーベットピンクのワンピースを着ている。ライブハウスの入場券にはドリンクチケットが付いていたが、飲酒をしたことがない三人組はとりあえずアイスティーを手に席に付く。
清彦のバンドは最後から二番目だった。藍子は手を前に組んで彼の出番を今か今かと待ち構える。やがて清彦のバンドが登場した。疎らに拍手が起こる。藍子だけが椅子から腰を浮かせて盛大な拍手を送った。
「今晩はー、ビュレットナイトでーす」
ボーカルの清彦と、同じくボーカルでいやに嗄れた声の女が声を合わせて挨拶する。挨拶の返事を待たずに清彦はサクスフォンを奏で始める。清彦が観客を支配下に置いた瞬間だった。
全てのバンドの演奏が終わった後も藍子は夢心地だった。
「星野君、すごかったね」
「ホントホント、プロみたいだった」
級友達も口々に褒めそやす。
「帰る前に清彦さんに挨拶しに行かない?」
藍子は級友を楽屋に誘う。三人はおずおずと楽屋を訪問した。
清彦は楽屋でペットボトルを飲んでいた。藍子達がドアの外で小さく手を振ると、清彦も手を振り返し、
「入っておいでよ」
と三人を誘う。三人は顔を見合わせつつ、楽屋に入った。
「この子達、俺らと同じ大学なんだぜ」
清彦はバンドのメンバーに紹介する。
「あ、そうなんだーよろしくねー」
とやや軽薄に挨拶するドラムとギターの男達。ギターの男は駿と名乗り、ドラムは
「芸名ジョニーと呼んでくれ」
と自己紹介した。藍子は思わず吹き出す。バンドのメンバーも彼を「ジョニー」ではなく、「芸名ジョニー」と丁寧に呼んでいた。
「もし良かったら皆さんで召し上がって下さい」
藍子は焼き菓子の入った箱を清彦達に差し出した。
「なにこれ?」
と芸名ジョニー。
「マドレーヌです」
藍子は答えた。清彦は
「もしかして君が作ったの?」
「・・・・・妹が作りました」
藍子は昨夜楓をせっついてマドレーヌを焼かせたのだ。
「あはは、とにかくありがとう」
「せっかくだから彼女達も打ち上げに来て貰えば?」
ギターの男、駿が口を挟んだ。
「そうだね。来なよ」
と清彦も藍子達を誘う。
「え、でも・・・・」
と藍子はためらいつつも行きたくて仕方がない。藍子と級友はバンドメンバーの後ろに付いて居酒屋に入った。