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藍子の武者修行  作者: 山口 にま
第二章 
4/63

腕の中に落ちて

祭りは中野区内の大型公園で催された。露店が出て、大道芸人も現れる。特設ステージでは沿線の大学に通う学生が漫才や、楽器の演奏をするのだ。藍子の通う大学も中央線沿線であった。午後の早い時間に合気道会の演武が始まる。総勢八人の門下生が集まり、ステージに上がった。

まず藍子と大悟の組が技を披露する。二人は立ったまま観客に礼をする。そして互いに向かい合って再び礼。藍子が投げ、大悟が受けだ。藍子は自分の藍子の両肩を掴みに来た大悟を投げ飛ばした。

 いくかの技を繰り出した後、藍子は小休止で一度息を吐く。そこでステージの下から恐ろしいものを見るようなまなざしでこちらを伺う視線に気付いた。大学の語学クラスで一緒の男子学生、星野清彦だ。清彦は黒いジャケットに、黒い細身のジーンズ、そして首からサクスフォンをぶら下げていた。どうやら演武の後にバンドの演奏が控えているらしい。

こんなところに清彦さんが。藍子の胸は高鳴る。言葉は交わしたことはなかったが、藍子は清彦が気になっていたのだ。背の高さと足の長さ、その男らしい肢体とはアンバランスな愛くるしい顔。王子様が下々の者の元にやって来た、それが初めて清彦を見た時の気持ちだった。彼がブルースバンドを結成していて、バンド内では「清彦」と名乗っていると聞きつけた藍子は、心ひそかに彼のことを「清彦さん」と呼んでいた。


清彦さんに顔を覚えて貰おう。藍子は張り切り出す。紗羅という同学年の女子学生と対峙した。模造の短刀を手にした藍子はそれでめったやたらに紗羅を切りつけにかかった。紗羅は藍子の攻撃をひらりひらりとかわしていく。藍子は紗羅の脇腹目がけ短刀を突きつけるも、紗羅に手首を掴まれ、そのまま前方に投げ飛ばされる。藍子は受け身を取り、直ぐに立ち上がった。もう一度紗羅に向かって行く。紗羅は藍子の手首を捻り、短刀を取り上げ、藍子を投げ飛ばした。藍子は立ち上がり、そのままステージ隅で待機。

ここまで大過なく演武が進行した事に安堵して、藍子は清彦を見る。彼は出番に備えて、他のバンドメンバーと共に舞台の下に移動する。


演武の最後は多人数がけだ。男子学生の上段者一人に藍子たちが多人数で掴みかかって行く。上段者は向かって来た後輩の上腕を持ち、続けざまに投げ飛ばした。大悟が上段者の前に立ち塞がる。上段者は同じように投げようとしたが、大柄の大悟を前に固まってしまう。そこで彼は捨て身に出た。大悟に肩を掴まれたまま後ろに倒れ、腰を床につけた。自らが梃子の支点となり、大悟を空中に放った。いきなり繰り出した大技で観衆からどよめきが起きる。

上段者は素早く身を起こすと次はお前だと言わんばかりに藍子を見る。藍子は流れに乗って上段者に挑みかかった。上段者は大柄な大悟を投げ飛ばしたと同じ勢いで藍子を投げた。藍子は空中に弧を描くように投げ飛ばされ、着地点はステージの際だった。立ち上がると既に足の半分はステージの外に出ている。藍子は踵に重心をかけてなんとかステージに留まらんと努める。下では清彦が驚愕した顔で藍子を見つめていた。しかし藍子を支える物は何もない。藍子は落下した。清彦は素早く首から下げたサクスフォンを背中に回すと、両手を広げて藍子を待ち構えた。藍子は清彦の腕の中に落ちる。清彦は一瞬強く藍子を抱きしめた。少なくとも藍子にはそう感じた。

抱きとめられた礼を言ういとまも無い。清彦はすぐさま藍子を軽々と持ち上げてステージに戻す。藍子は何事もなかったかのように演武を続ける。上段者が最後に藍子を床に組み伏せて、演武は終わった。藍子は身を起こし、観衆に礼をする為に同門の者たちと並んで立つ。頭を下げながら目で清彦を探した。清彦はサクスフォンを首にかけ、メンバーと最後の打ち合わせをしていた。今頃になって藍子は頬が熱くなる。憧れの人の上に落ちてしまった恥ずかしさと、抱きしめられた嬉しさ。でもその抱擁は彼に特別な気持ちがあってのことではない事は分かっている。その証拠に彼の関心はもう藍子から離れているではないか。


藍子達がステージから降りると、挨拶もそこそこ、清彦のサクスフォンでバンドの演奏が始まった。既に多くのファンは付いているのか、観客から歓声が起こった。バンドのメインボーカルは髪を亜麻色に染めた蓮っ葉な女だ。そのハスキーな声が清彦のサクスフォンに被さる。清彦は一心不乱にサクスフォンを吹き鳴らした。藍子の目は清彦に釘付けだ。こんなすごい人に私は抱き締められてしまったのか。藍子の胸は改めてざわついた。更に清彦は高いキーで歌まで歌った。サックスの演奏は力強いのに、その声は教会合唱団のように澄んで、その名前の如く清らかだ。この人をもっと知りたい。それは最早藍子の祈りだった。

「何か食おうぜ」

大悟から声をかけられても藍子の耳には届かない。私もこの人のファンになるんだ、藍子はそう決意した。合気道しかやって来なかった藍子にとって、それは恋と呼ぶには淡すぎる感情だった。

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