シロクマのハンカチ
次の日も夕方、お店の手伝いが終わった頃に、病院に向かった。
河野先輩は、すでに病室前で、すみれさんと一緒に待機していた。
あたしは、すみれさんとも相談して、河野先輩の(友人)という立場で、お父さんのお見舞いをさせてもらうことになった。
「おお、どうも、はじめまして。わざわざ来てくれてありがとう」
おじさんは、すみれさんと同じように、まったくあたしを警戒せずに、受け入れてくれた。
「せっかく、尋ねて頂いたのに、ご存じのとおり、息子のことも、妻のこともなにも思い出せないんだ。困ったもんだよ」
おじさんは、記憶を無くしているとはいえ、思ったよりも、明るくて少し安心した。
「突然、来てしまって……。ご迷惑でしたか?」
あたしは、おそるおそる尋ねた。
「とんでもない。」
お父さんは、にっこり笑って、
「こんな広い病室で、一人にされるとかえって頭がおかしくなりそうだ。できれば、ぼくの話し相手になってください」
そういえば、この病室はおばあちゃんの時とは違い、他に患者さんはいないようだ。
「あたしでよければ、ぜひ」
できるだけ、元気いっぱいに明るく答えた。
「とはいえ、女の子相手におじさん、なんの話をしていいのかさっぱりだな」
おじさんは、黙り込んでしまった。
「そうだよな」
河野先輩は、やっぱりな、という顔であたしをじっと見た。
「あたし、漫画を持ってきたんです」
カバンの中から、10冊ほど取り出した。
全部、あたしが自信を持っておすすめできる面白い漫画ばかりだ。
「あのな、少女漫画なんか見るわけないだろ」
河野先輩は、少しあきれ顔で、ため息交じりに突っ込んだ。
「全部、少年漫画です。それに男の子がちょっとドキドキするようなシーンだってあるんだから。男の人って好きなんでしょ?」
「コラ、女の子がそんなこと言うな」
なぜか河野先輩の顔が真っ赤になっている。
え? ダメだったの?
おじさんと仲良くなるとっておきの作戦だったんだけど。
今度はあたしも自分で、カーッと顔が赤くなるのが分かった。
「ぶっ、ぶはははは……」
「おじさん?」
「父さん?」
あたしたち二人はポカーンとしている。
「はぁー、久しぶりにこんなに笑ったよ。いいな、こんなに楽しいなら、入院も悪くないな」
おじさんは、笑顔で答えた。
よかった。
これなら、たくさんお話も出来るし、記憶がぽろっと戻るかもしれない。
「きっと、すぐに元の状態に戻れますよ。これ、今、クラスの男子達もすっごいはまっているんですよ。ぜひ、読んでみてください。あと、これも、これも、お勧めです」
あたしの手と口は止まらない。
「お、これは、おじさんも読んでるんだ。新刊が出たんだな」
おじさんの目が、キラキラ輝いている。
「え? 父さん、漫画なんて読んでたっけ?」
河野先輩も、思わず話に入ってきた。
「ああ、仕事の休み時間や休日はいつも読んでたんだよ」
「そっか。そうだったんだ。知らなかった」
河野先輩は、意外そうに目をぱちくりさせていた。
「ゆうき……君は、読んだこと、ないのか?」
「う、うん、おれはまだ」
「そうか、残念だったな。」
先輩は、アイドルで、撮影で忙しいから、漫画やTVを見る暇がなかったかもしれない。
暫くして、時間が来たので、あたしと河野先輩は、病室を後にした。
その瞬間、あたしは、河野先輩からすぐに声を掛けられた。
「なあ、悪いんだけど……、今度、あの漫画のあらすじ、教えてくれないか?」
河野先輩は、すごく恥ずかしそうだ。
「え、いいですけど、どうして?」
「俺も、もっと父さんと話がしたいんだ。なにを話したららいいのか分からなかったけど、漫画の話なら、父さんも気持ちよく話せるだろうから」
「分かりました。もちろんです」
「……ありがとう」
前の優しい河野先輩の笑顔だった。
また、河野先輩の笑顔が見れた。
なんだか、すごくうれしい。
「じゃあ、これで」
あたしが帰ろうとエレベータに乗ろうとすると、
「待って」
ひときわ、大きな声で引き止められた。
河野先輩が、走ってきた。
「あの……」
河野先輩は、口ごもっている。
「ごめんっ」
そのまま、頭を大きく下げた。
「俺、本当は分かっていたんだ。西野さんはなにも何も悪くない。これは、ただの事故なんだって。だけど、父さんの記憶が無くなって、俺や母さんのことを忘れられたことが悔しくて、悲しくて、押しつぶされそうだったんだ」
河野先輩の本心がやっと聞けた。
「本当に、ごめんっ」
あたしは、もう河野先輩を責める気は、一切なかった。
もし、あたしが、同じ立場でも同じことをしていたかもしれないし、もっとひどい言葉をいっていたかもしれない。
「気にしないで。 あたし、なんとも思っていませんから」
作り物じゃない自然な笑顔で、河野先輩にそう答えた。
「俺、あの掲示板に書かれていたことが、デマだってこと、ちゃんとみんなに説明する」
俺に任せろ、そう言わんばかりの力強い表情に変わった。
「俺がちゃんと、あの時、否定していれば、西野さんもこんなことには、ならなかったんだから。俺に責任がある。だからちゃんと説明する」
「河野先輩……」
正直、あたしをその言葉をずっと待っていた。
だけど、今は、まだその時じゃない。
「ありがとう。でも、今は、お父さんの記憶を取り戻すことが最優先でしょ?」
「けど……」
「学校は、逃げていかないから。ね?」
「そっか。わかった」
河野先輩は、もう一度、深く頭を下げた。
おじさんの記憶は一向に戻らないけど、体調面では問題がないため、退院の許可が下りた。
そこで、あたしは、すみれさんと河野先輩にあるお願いをした。
「うちのケーキ屋におじさんを連れてきてもらえませんか?」
二人とも、考え込んでいた。
記憶を取り戻すためには、直前の行動をとると、ぱっと思い出すことがあるらしい。
だけど、無理に思い出そうとすると、あせりを生んで混乱を招いて、患者さんに負担がかかるとお医者さんにいわれていたからだ。
だけど、あたしは、なんとしてもおじさんの記憶を取り戻したい。
あたしに、できることはなんでもしたい。
「少しでも、父さんが苦痛に感じたら、すぐに連れて帰る。それでもいい?」
「もちろんです」
退院当日は、あたしはお店で待機していた。
河野先輩のマネージャーの方が、連れてきてくれるそうだ。
お昼過ぎに、大きな黒いワゴンが一台止まった。
おじさんが、河野先輩とすみれさんに、付き添われながらやってきた。
「いらっしゃいませ」
「おお、ここか。いいお店だな」
おじさんは、ゆっくり店内を見渡している。
さらに、ショーケース中のケーキを見わたしていると、
「おお、このケーキは……」
おじさんは、がばっとショーケースにはりついた。
誕生日用のワンホールのイチゴケーキだ。
きっと、事故当日もこのケーキを買いに行ったに違いない。
ま、まさか、思い出した?
こんなに早く?
あたしも河野先輩もすみれさんも、どきどきしながらお互いが顔を見わたすと……。
「すごくおいしそうだな」
あたしたちは、ずっこけそうになった。
「よかったら、外のテラスで召し上がりますか?」
「ほー。テラス席か、おしゃれだな」
あたしは3人をテラス席に案内して、さっきの誕生日用のイチゴのケーキを切って、差し出した。
「やっぱりここのケーキはおいしいわね」
すみれさんが、上品にケーキを口に運ぶと、
「だろ? だろ? ここのケーキ、最高なんだよ」
河野先輩は、満面の笑みを浮かべている。
「甘い。うまいけど、甘いっ」
おじさんは、複雑な表情だ。
「やっぱり、男はラーメンだな」
「え?」
あたしたちの頭の上には、おじさんの良く分からない宣言に ? が飛び交った。
「ケーキをごちそうになったお礼に、今度はラーメンをごちそうさせてくれ」
「え、でも……」
退院したばっかりなのに、ラーメンをごちそうしてもらうなんて。
次の日、朝から、河野先輩から電話があった。
どうやら、本当にラーメンをごちそうする気らしい。
「俺たちも、止めたんだ。だけど、作るって聞かなくて。俺や、母さん、そして、西野さんにどうしても食べさせたいって」
河野先輩はため息交じりに電話口で話している。
「でも、記憶が失ったままじゃ……」
「記憶が無くなっても、ラーメンを作ることは体が覚えてるらしい。おれも母さんも、ここはもう本人の好きなようにさせてやることにしたんだ」
先輩も、もうあきらめているようだ。
「分かりました。じゃあ、お言葉に甘えて」
日曜日になり、おじさんのお店に向かった。
おじさんは朝から、スープの仕込みを行い、準備は万端だった。
当初、あたしたちだけにラーメンを作る予定だったけれど、お店の前にひとだかりができていた。
「お、やっと、開いたのか」
「良かった。もう、閉店したかと思った」
外から、ちらほら声が聞こえる。
おじさんはそのまま、お店を開けることに決めた。
「仕方ないわね」
すみれさんも、ふっと笑って、エプロンの支度をして、接客の準備に入った。
「あたしも、手伝います。 もともとこのお店は、あなたとあたしのものですからね」
けれど、おじさんは、かたくなに断った。
「いいから、座って。どうしても、みんなにラーメンを食べてもらいたいんだから」
調理場を見ると、おじさんは、すごくいきいきとしている。
本当にラーメンが好きなんだな。病院に居た人とは、別人のようだ。
「それにしてもあっついな」
河野先輩もあたしもがっつりと汗をかき始めた。
もう、秋とはいえ、店内は異常に暑かった。
入り口を、開けっ放しにしていても暑い。
河野先輩は、ポケットから、ハンカチを取り出して汗をぬぐった。
そのハンカチには、シルクハットをかぶった白クマの絵が描かれていて、すごくかわいい。
しばらくして、おじさんがラーメンを運んできてくれた。
「あなた、あたしが運びますから、無理しないで」
すみれさんは、心配でたまらないという感じだ。
「ありがとう。でも、これだけは、俺に運ばせてくれ」
「醤油ラーメン、おまちっ」
おじさんは厨房に戻る際に足元がふらついて、その場に倒れこんでしまった。
あたしたちは、おじさんに駆け寄った。
汗をびっしょりかいてる。
やっぱり、まだ無理だよ。
「父さん、もう、いいんだよ。休もう? ね?」
河野先輩は、持っていたハンカチで、おじさんの頭の汗をぬぐいあげた。
すると、おじさんは、河野先輩の腕をガシっとつかんだ。
そして、放さない。
「ど、どうしたの? 父さん」
そして、おじさんは、自分のエプロンのポケットから、ハンカチを取り出した。
「これは……」
河野先輩と、おそろいのハンカチだった。
シルクハットをかぶった白クマのハンカチ。
どうして、おじさんも同じハンカチを?
「父さん、これは、おれがまだ小学生の頃、旅行で動物園に行った時に、買って貰ったものだよ。なにか思い出したの?」
「そう、なにか心当たりはある? どんな小さなことでもいいの」
すみれさんは、おじさんの肩を優しく抱きかかえている。
「いや、覚えてない」
おじさんは、首を横に振る。
だけど、その目からはポタポタと涙が床にこぼれ落ちていく。
そして、しばらく黙り込んだ後、おじさんはやっと口を開いた。
「大の大人が動物園で迷子になって、迷子センターの放送で呼ばれた恥ずかしい思い出なんて覚えてない」
「あ……」
河野先輩は、すみれさんと顔を見合わせた。
「その後、かあさんにがみがみ怒られ、最後は、疲れ果てて眠りこけた息子をおんぶして帰った思い出なんて、覚えてない」
「あなた……」
すみれさんは自分の口を押えこみながら、涙があふれだす。
「おかえり、お父さん」
河野先輩がおじさんを抱きしめ、その二人をすみれさんが、優しくも大きく抱きしめた。
おじさんの記憶は、こうして無事に元に戻った。