第36回 最後のバイト
神山の最後のバイトの日です。
あれから神山の様子はなにも変わる様子はない。私もいつもどおり接していたつもりなので、なにも変わらないバイト生活が過ぎていく。
1つ変化したことといえば、美咲がパン屋にいるようになったことだ。彼女は由良からいくつかのパンの作り方を教えてもらい、練習している。今では杖なしでも歩けるようになったらしく、リハビリの成果が出たと喜んでいた。
「雪乃さんは大学を出たら、なりたい職業とかはあるんですか」
突然後藤にそう訊ねられて、私はきょとんとしてしまった。
(将来なりたいものか・・・そういえば考えたことがなかった)
今までなんとなく生きてきて、なんとなく英語ができたから英米学部に進んだだけだ。つまり成り行きでここまできたようなものだった。私は真剣に考えた。
「まだわからないです」
神山や武藤と違って、私には目標がない。それは以前から感じていたことだった。ふと、神山から一緒に働こうと誘われたことを思い出した。
(もちろん冗談だとは思うけど・・・)
これが自分の将来について真剣に考え始めた瞬間だった。
「美咲さん!お疲れ様です!順調ですか」
バイト終了後、私は厨房にいる美咲のもとへ行く。冬なのに厨房は暑い。少し火照った頬をぱたぱたと仰ぎながら美咲が振り返った。
「最初のときよりはだいぶ作れてきたかな。昔の感覚思い出せばちゃんと作れそう」
「わぁぁ・・・期待してます」
「任せといてー」
にっこりと笑って美咲はオーブンを開ける。中からはこんがりと焼けたチョコマーブルというパンが出てきた。これにココアパウダーと粉糖をふりかければ完成だ。私が朝来るときにはすでに焼きあがっているため、焼き立てを見るのは初めてだった。
ふと私は思った。
「パンって初心者でも作れるものですか」
「え?」
「作ってみたいんです。パンを・・・難しいですか」
美咲は私の表情をじっと見ていたが、やがてにっこりと微笑んだ。
◇
その日は2月最後の土曜日で、明日は結婚式の日だった。そして、今日は神山にとってバイト最終日だ。
「おはようございまーす・・・ってあれ?」
店にすでに多く並んでいるパンを見て、神山は驚いている。その日、私はいつもよりも早く来ていた。だから普段の仕事もさっさと終えることができた。
「早いね」
「うん。超早く起きちゃったもん」
本当は早く起きたからではない。でも、本当の理由を言うつもりはなかった。私が笑うと、神山はやっぱりいつもの無表情で頷いただけだった。こういう仕草も彼らしかった。
「あ、直樹君。おはようございます」
厨房から後藤が出て来た。
「おはようございます」
「今日で最後ですね。思えばもう1年たつんですね」
「早かったよねー」
由良や美咲も厨房から出てくる。みんな一斉に出てきたため、神山は戸惑っているようだった。
「本当にみなさんにはお世話になりました」
「いえ。こちらこそとても助かりました。またぜひここに遊びに来てくださいね」
「はい!絶対行きます」
そのとき、オーブンの音が聞こえてきた。それに反応したのは私だった。
「できたかも!」
急いで厨房へ入っていく私を見て不審に思ったらしい神山が首を傾げる。
私は厨房へ行き、オーブンから鉄板を取り出す。いつも何気なく見ていた光景だが、オーブンの中がこんなに熱いなんて思わなかった。私は熱さで鉄板を落とさないように気をつけて台の上に置く。
ちょうど神山、後藤、由良、美咲が入ってきた。
「いい具合に焼けていますね」
「ほんとですか!?じゃあ・・・・」
私は焼きたてのくるみぱんを持とうとしたが、熱すぎたためできなかった。仕方がないので包丁で切ることにした。一口サイズに切ったくるみぱんをずいっと神山の目の前に差し出す。
「――?え?」
「初めてパン焼いてみたの。ちょっと食べてみて」
受け取った神山はしばらくきょとんとしていたが、やがてパンを口の中に入れる。よく噛んで飲み込んだ。
「おいしい!」
「うん・・・みんなにちゃんと教えてもらったから・・・おいしいとは思ってたよ」
「や、でもこれは宮崎さんの最初のパンでしょ?」
私が顔を上げると、普段あまり笑わない神山がにっこりと笑った。
「おいしい」
◇
その日のバイト終了後、私は着替えの部屋で神山にあることを伝えた。
「私ね・・・医療の仕事に携わりたいと思うんだ」
「え?」
「あ、もちろん、神山君たちみたいに医者としてとかじゃなくて、影で支えていきたいってこと」
たとえ医学部に行かなくても、医療の仕事に就くことはできる。多くの企業を研究して私は文系でもそれができることを知った。
「同じ職場で働くことはできないけど、同じ現場っていうか境遇で働くことはできると思うの。また大学出たら、私たちどこかでばったり会っちゃうかもしんないよ」
どんどん前を行く人たちに追いつきたかった。だけど、それで焦ってもだめだと思う。私は私なりの速さで歩いていこうと思う。そう思って出した結論だった。
「面白いかもね。ばったり会ったときは」
「うん。神山君が放射線技師で、私が事務か、セールスの人か、血液を届ける人かも!」
「楽しみだな・・・その日が」
寂しそうに笑う神山の笑顔が忘れられなかった。
◇
他人の幸せをこんなに願ったことなんてなかった。
ショッピングモールへ行くと言って神山が帰った後、店にお客さんが来たらしく、由良が対応していた。私がひょっこりと顔を出すと、なぜかそのお客さんにぺこりと頭を下げられた。
(この人って・・・)
最近見覚えはあるのだが、どこで見たのか思い出せないことが多い。ショートカットのかわいらしい女の人だ。どこで見たのだろうか。
「私、『太陽のレストラン』でバイトしていたんです」
「あ!」
思い出した。私がバゲットを届けに行った日、最初に出迎えてくれたウェイターの女の子だ。あのときしか会っていないのに、私の顔を覚えていてくれたらしい。まさかここで会うとは思わなかった。
「実はここで神山君がバイトしてたんですよー」
それを教えると、彼女は驚いたような表情になる。なぜか頬も赤くなった。
(もしかしてこの子・・・)
「もう今日でここのバイト終わりだったんですけど・・・」
「そっ、そうなんですか」
焦った様子で彼女は俯く。やっぱり顔が赤い。
「でもショッピングモールに行くって言ってたから――」
彼女は急ぐようにして店を飛び出していく。
私は彼女が神山に会えるように心から願った。