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第32回 やりたいこと


今回は由良さんのお話です。



 ここから少し離れた所にある住宅街にパン屋ができるらしい――その話を私はお客さんから聞いて知った。

「店長、知ってました?」

「はい。具体的な場所までは知りませんでしたが、新しいパン屋ができるということは知っていました」

 私が『ベーカリー ル・シエル』で働き始めてから、新しいパン屋ができるのはこれで2度目だ。またお客さんが盗られると私はため息をつく。

「その話によると、ここからは離れているようですね」

「駅のさらに向こうみたいですか」

「おそらく・・・いえ、まだ確信ができないので伏せましょう。僕も新しいパン屋のことを聞きましたが。できるのは11月の下旬だそうです」

「よし、行ってみよ!」


            ◇


 今度は偵察目的ではない。去年はそういう目的で行ったことがあるが、後藤が同業者として協力したいと言っているのでその方針に従いたい。ただのお客さんとしてお邪魔させてもらうことにした。

 ということで、新しいパン屋のオープン日、バイトを終えてから向かおうとしたら。ちょうど仕事を終えた由良が一緒に行くと行ってくれた。

「やった。乗せてってもらえるだけでもすごく嬉しいです」

「私は一緒に行ってくれるだけで嬉しいよ」

 その由良の言葉の意味がわからなかったが、すぐに理解することになる。



 その店は本当に住宅街の真ん中にあった。土地が広いので一応駐車スペースはあるが、それでも全体的に小さい印象を受ける。レンガ造りの建物で、外見はとてもかわいい。

 オープン初日ということもあってか、駐車場に入れない車が何台かあった。私たちは店内のお客さんが出てくるのを待ってからようやく車を停めることができた。店の前には『ただ今食ぱん焼きたて!!』と書いてある黒板があるが、忙しそうなのでそれも今あるかどうかわからない。

「いらっしゃいませー」

 若い女の人の声がした。店内はパンが並べてあるはずのトレーが置いてあるが、そのほとんどが空だった。私たちはトレーとトングを手に取り、売り切れないうちにパンをトレーに乗せていく。



「由良さんはどれにしますか」

 しかし、由良はパンを見ずに店の奥をじっと見ている。たぶん厨房があると思うが、なぜそこを見ているのだろうか。

「――?由良さん?」

「え、あ、ううん。なんでもない」

 なんでもないように由良は首を振る。そして、改めてパンをじっと見つめた。

(わぁぁ・・・由良さん真剣だー)

 1つ1つのパンをじっと見つめるその瞳は真剣だ。パンを作る人には見るところがあるのかもしれない。しかし、その間にもどんどんパンはなくなってしまう。

 しばらくして、ようやく由良が選んだのは、たった1つのパンだった。

「これにする。山のくるみパン」

 平たい形のパンだ。外からはくるみとつぶあんが入っていることがわかった。ちょうど2つ残っていたので、私もそれを1つ食べてみることにした。



「650円になります」

 会計を済ませて私がレジを離れようとすると、まだ由良は動こうとはしなかった。ただ厨房の奥をじっと眺めているのだ。

(由良さん――?)

 さすがに不思議に思って由良の視線を追うと、どうやら厨房の中が見えるようだ。そこにいたのは―――

(藤田さん・・・)

 後藤の同期だという藤田が熱心にパン生地をこねている。その姿をただ由良は眺めているのだ。

(そっか・・・新しい店を持つって言ってた。ここがその店なんだ)

 それを由良は知っていたのだ。だからしきりに厨房の奥を見ていたんだ。たぶんお互いに想い合っているのに、2人は別々の道を選んだ。その気持ちを私が知ることはできない。

(由良さん・・・・・・)

 切ないその横顔を眺めて、私はどうしようもなく苦しくなってしまった。


            ◇


 由良は私を家まで送ってくれたので、家でお茶でも飲んでいくように私は勧めた。

「うわー・・・意外に綺麗な部屋だね」

「意外にってどういう意味ですか」

 私が口をとがらせると、由良はごめんと苦笑した。



 由良が居間でテレビを見ている間、私が台所で温かいお茶を淹れた。マグカップからは湯気がもくもくと上がっていた。

「ありがとう」

 カップを受け取り、由良は一口お茶を飲む。その様子を見てから、私は今日のことを切り出そうとしたが、

「ゆきちゃん」

 先に話されてしまった。

「は、はい。なんですか」

 ぎこちなく返事をする。

「私ね、店辞めようと思うんだ」

 思考が半分停止するのと同時に、同じセリフを以前にも聞いたことがあるなと残りの半分で考えた。

「そう・・・なんですか。すごく寂しいです・・・」

「あ、でもすぐにってわけじゃないよ?美咲さんと相談して次の春くらいを目安に考えてるの」

「美咲さん?」

 誰のことかわからなかったから訊いているのではない。なぜそこで美咲が出てくるのかわからなかったので訊ねたのだ。

「うん。美咲さんが戻ってきてくれるって知って、私も今の自分のことを考えてみたんだ。そうしたら、やっぱり行き着くところは同じで・・・あの人は私のこと、いつまでも待ってくれるって言ってくれたから――」

 きっと藤田のことだ。一緒に店をやらないかと誘われたことは私も知っている。

「今日店に行って確信した。私がやりたいことを」

 今なら言える。私は静かに目を閉じてから、開けた。

「由良さん、応援してます。頑張ってください」

「・・・・・ゆきちゃんに貸してた借りが返されちゃったね。今日一緒に行ってくれたから」

「別にそんなの返したわけじゃないですよ」

「んーん!すごく感謝してる!ありがとう」



 2人で今日買ったパンを食べてみた。山のくるみパンは軽くてとても食べやすい。それに、くるみとあんこの相性がいい。あんこやくるみだけだとくどくなってしまう人は、これならおいしく食べられるかもしれない。

「おいしい!」

 藤田の作るパンはどれもおいしくて、愛情がこもっていた。

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