第31回 お兄さん
ある秋の日の朝、バイト先へ行くと後藤と由良の他に先客がいた。
「おはようございます」
ぺこりと挨拶をされ、私も挨拶を返す。しかし、いくら考えても相手に覚えがなかった。
「由良さん、あの人どちら様ですか」
「さぁ・・・昔の友人ですって店長は言ってたけど」
後藤が友人と言うように、確かにその人は若く、後藤と同い年くらいに見えた。背が高く、スポーツマンのように短く切られた髪が爽やかな印象を与える好青年だ。こういう人がスーツを着たらかっこいいと思う。
しかし、見れば見るほど誰かに似ているような気がしてならなかった。
と、そのとき。まるでタイミングを見計らったかのように神山が来た。私と由良が同時に振り返り、挨拶もせずにただじっと見つめていると、神山は困ったような顔をした。
「え・・・と、なんすか」
「思い出した」
由良がぽつりと呟く。
「あの人、前にもここに来たことがある。たぶんだけど、神山君のお兄さんじゃない?」
「は?兄貴?」
それに驚いたのは神山本人だった。慌てた様子で厨房へ行くと、そこで後藤と談笑しているさっきの若い青年と鉢合わせたらしい。
「兄貴・・・?」
そう呟く声が聞こえた。
◇
神山は実家から通っているが、両親と妹の4人暮らしだそうだ。本当は上に兄がいるのだが、諸事情であまり家に帰ってこないらしい。だから、神山も兄が来ることを知らなかったのだ。
「店長と神山君が知り合いなのって、お兄さんと友達だったから?」
「うん。店長よくウチに来てたし、面倒見のいい人だからおれのこともすぐに覚えてくれたよ」
神山は昔を思い出すかのように話す。つまり、神山は『太陽のレストラン』で知り合ったのではなく、小さい頃から兄を通じて知り合いだったようだ。
しかし、なぜ神山兄が店まで来たのだろうか。
「たぶん結婚式のスピーチとか頼むんじゃないかな」
「え!結婚するの」
「うん。3月の頭にするかもだって」
かもということは、まだ本当に準備をしたばかりなのかもしれない。それにしても結婚なんて本当に羨ましい。
「お相手はどんな方なの?」
参考までに聞くと、神山はどう言おうか言葉に迷ったようだが、
「幼なじみだよ」
(幼なじみで結婚・・・なんて理想の結婚なんだろ)
「雪乃さん、今お時間よろしいですか」
厨房から後藤に呼ばれ、私はパンに粉糖を振っていた手を休めた。
「紹介が遅れました。僕の友人で、直樹君のお兄さんである、神山弘人さんです」
「弟がいつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそお世話になってばかりで・・・」
私たちは互いに腰の低い挨拶をする。見た目がスポーツマンのようだが、体のラインがかなり細い。ちゃんと3食食べているのか心配になってきた。
「あの、神山く――直樹君から聞きました。ご結婚されるんですよね。おめでとうございます」
心から祝福すると、兄は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。そう言ってもらえてすごく嬉しいです」
「雪乃さん、お聞きしたいことがあるのですが・・・今日ブリオッシュのパンって予約入ってましたか」
「いえ。今日はまだ・・・」
「じゃあちょうどよかった。今回は彼に作ってもらいます」
私は驚いて後藤を見たが、彼はにっこりと笑うだけでなにを考えているのかわからない。隣にいる神山兄もノリノリで腕まくりをし始めた。
(作れるの?)
顔には出さないが、私にはそんな不信感が渦巻いた。
◇
しかし、私の心配をよそに、出来上がったブリオッシュのパンはおいしそうだった。試しに食べてみると、その上に乗ったシナモンパウダーとブリオッシュ独特の食感がベストマッチでおいしすぎる。
「おいしい!生地がよくできてるね!」
由良が絶賛して食べまくる。神山は感想こそ述べなかったが、2個目を食べているところからおいしいと感じているようだ。
「ブリオッシュはバターと卵を多く使ったパンです。だから、かつてはパンというよりお菓子感覚で食べられていたようです。僕も普通のパンとは違った食感が面白くて、得意なんです。これ作るのは」
「とってもおいしいです!お兄さんもパン屋さんになれるかもしれないですよ!」
「それは褒めすぎです」
苦笑しながら神山兄は照れる。しかし、今まで多くのブリオッシュパンを食べてきたが、どのパンにも決して劣らないものだと私は思った。
「小振りですから、1つ80円で売り出してみましょう」
後藤の言葉の通り、1つ80円で売られたブリオッシュのパンは、『シナモン風ブリオッシュ』と名づけられた。いつもは並ばないパンに、常連のお客さんは興味を引かれたようだ。また、試食として切ったブリオッシュを置いておいたため、おいしいとわかるとみんなどんどん買っていった。
「これ新商品?食べてみたけど、おいしかったわ」
「ありがとうございます!」
試食品をおいしいと言ってもらえることはとても嬉しい。あまりの人気に、ブリオッシュは飛ぶように売れて、試食品もすぐになくなってしまった。
そのことに最も驚いたのは、作った本人である神山弘人であり、嬉しそうだが申し訳なさそうな顔をしていた。
◇
「店長、今日ファックスで届いた注文表なんですけど、シナモン風ブリオッシュが入ってるんですけど・・・」
バイト終了後、届いた紙を手に、私は厨房まで行く。そこでは、なんと神山兄がパンを作っていた。
「本当に上手なんですね」
「――パンが好きで、昔パン屋になろうと思ったことがあるんです」
生地をこねながら彼は呟く。
「でも専門学校時代に病気になってしまって、パン屋になることをあきらめました」
「そうだったんですか・・・・」
悪いことを聞いたと私は後悔した。しかし、すぐに背後から声が聞こえてきた。
「シナモン風ブリオッシュの作り方、僕に教えてください」
振り返ると後藤が立っていた。手にはファックスの用紙を持っている。
「こんなにこのパンの予約が入ってしまいました。弘人のパン、僕に作らせてください」
後藤は夢をあきらめるなとか、パン屋になれとは言わなかった。今の神山弘人の状況をわかった上でこう発言しているのだ。いや、単純に兄の作ったブリオッシュのパンの予約が殺到しているために言っただけかもしれないが。
後藤の言葉を聞いた神山弘人はしばらく押し黙っていたが、やがて爽やかな笑顔を浮かべた。
「もちろん」
その2ヶ月半後、私のもとに結婚式の招待状が届いた。
久しぶりの更新になりました。