第28回 店長と美咲
6月の晴れた日の午後、比較的お客さんの入りが少なくなってきた頃だ。厨房にいた後藤のケータイに電話がかかってきた。
「え?そうなの?」
それは後藤にとっても意外な電話だったらしく、こねている最中の生地を見ながら困ったような表情をしている。
「ごめん・・・全然知らなかったよ。でも、よかった。おめでとう」
後藤が敬語を使わないなんてあまりない。電話の相手はそれほど気心の知れた人なんだろう。
「今から?大丈夫だよ。すいてるから。迎えに行こうか?」
そんな会話が行われ、電話が終了した。近くにいた由良が気を遣って、
「あとは私がやっときましょうか」
「大丈夫です。1人で来るそうなので」
「店長の友達ですか」
「――えっと・・・恋人です」
弱冠照れた様子で、それでもちゃんと恋人だと後藤は言った。私から話を聞いて後藤の彼女の存在について知っていた由良は、一瞬で興味を持ったようだ。「このー」と言いながら後藤を肘で小突く。
私もあの冬以来、後藤の彼女である美咲とは会っていない。もう出歩けるということは退院したのだろうか。
「美咲さん、退院されたんですね」
「近々退院できるって聞いてたけど、まさか今日だとは思いませんでした。今日の午前中にはもう退院したそうです」
「おめでとうございます!」
後藤の話によると、今までも何度か入退院を繰り返していたらしいが、今回は正式に退院が決まるらしい。あとは通院するだけで、容態が悪化しない限り、このまま日常生活を送れるそうだ。
(今日来るんだよね。楽しみだな)
◇
美咲が来るとわかってからの後藤は落ち着きがなかった。普段は失敗しないようなミスまでやってしまい、そわそわしている。お客さんが入ってくるたびに反応していた。でも、その表情はどこか緩んでいてかわいい。
「店長をあそこまで変える彼女ってどんな人なの?」
あまりにもすごい豹変ぶりに神山が不思議そうに尋ねる。
「綺麗な人だよ。神山君だって、会ったら一目惚れしちゃうかも」
「えぇぇ・・・」
本気で困ったような顔をする神山。
そのとき、カランとドアが開いた。
「いらっしゃいませー!あ!」
すぐにわかった。入り口の段差につまづかないように注意しながら杖をつく女性。顔を上げた瞬間、彼女は屈託なく笑った。
「雪乃さん!」
「美咲さん、こんにちはー!今日退院したんですね!」
「そうなの。やっと家に帰れるから嬉しいよー」
そのやりとりが聞こえたのか、厨房から後藤が出てきた。杖をついて歩く美咲の傍に慌てて駆け寄る。
「懐かしい・・・ここ。全然変わってないね」
「そうだよ。ここはずっと変わらない」
「・・・・うん」
それは、私たちには知る由もない想いだった。元はこの2人で始めたような店だ。大切な場所なんだろう。
その後、美咲は由良と神山に挨拶をした。由良とはパンのことでとても気が合ったらしく、厨房からは笑いが途絶えなかった。後藤は厨房から出たり、入ったりしていたが、美咲が嬉しそうに話すことがなによりも嬉しいらしく、それが表情に出ていた。
「店長って彼女さんと一緒に暮らしてるんですか」
神山が訊ねると、後藤は苦笑しながら頷いた。
「でも最近は実家に帰ることも多いです。正式に退院が決まった今、どうするんでしょうか」
まるで他人事のような言い方だ。だけど、後藤がこう言うのは、きっと美咲を思いやってのことだからだと思う。彼女の気持ちを尊重したいのだろう。
(いいなぁ・・・美咲さん。愛されてるね)
なまじ後藤が好きだっただけあって、美咲の立場が本当に羨ましかった。だけど、今は心から2人の幸せを祝福できる。あのとき、私の気持ちを知られなくてよかったと思った。
「店長」
美咲の声がしてはっとして振り返る。きっと普段は別の呼び方をしているのだろうが、ここでは店長と呼んでいるらしい。慣れない呼び方に、後藤も面食らったようだ。
「私、リハビリ一生懸命やって、ちゃんと歩けるようになるから・・・だから、またここで働かせてもらえませんか」
「もちろん―――ここが美咲の場所だよ」
その言葉に、今まで我慢してきた美咲の瞳にじわっと涙が浮かんできた。顔を手で覆い、何度も何度も頷く。そんな美咲に後藤が歩み寄った。
「はい。2人ともちょっと厨房手伝ってくんない?」
「え?」
一部始終を見ていた私と神山は突然由良によって強引に厨房に連れて行かれた。せっかくいいところなのにと思ったが、だから由良は邪魔をするべきではないと判断したのだろう―――厨房に行くまでの鏡に、後藤と美咲がキスをしているのが写った。
(店長にとってきっと1番嬉しいことだろうな・・・美咲さんと一緒にパン屋をすることが)
少し遅れて2人の時間がまたスタートする。私はそのときがとても楽しみになった。
◇
幸せそうな後藤と美咲を見ていたら、無性に人恋しくなってしまった。遠くで頑張っているはずの男性を思い出して、私はふーっとため息をついた。
(会いたいなぁ)
1年は長すぎた。まだ6月だというのに、早く帰ってこないかと本気で思うようになってきた。
携帯のアドレスはお互いに交換したが、用もないのにメールをするのはどうかと思い、今までメールをしてこなかった。私は携帯をぱかっと開けた。
(迷惑かな。でもちょっとだけでも繋がっていたい――)
新規メール作成を開き、文字を打ってみる。なんだかとても緊張した。とても長い時間をかけてメールが完成した。
(よし!送信!)
その返事が返ってきたのはその日の夜だった。たったそれだけのことなのに、とても嬉しかった。
裏設定ですが、実は店長ってそんなに奥手ではないんです。