第27回 思い出のラスク
パン屋には大抵スライサーというパンを切る機械が存在することが多いが、これは食ぱんを切るためのものだけではない。
「雪乃さん、これを切っておいてもらえませんか」
後藤に言われ、手渡されたのはバゲットだった。ここのパン屋ではバゲットをスライサーか専用の包丁で切り、5〜7ミリくらいにする。それによってできるのが、シュガーやガーリックなどのラスクだ。
(できた!)
最初の頃よりはだいぶスライサーの使い方に慣れてきた。ちなみに、バゲットをスライサーで切ると、後で粉が大量に機械についてしまうので掃除もしなければならない。
「店長、ばんじゅうに入れておきます」
「ありがとうございます」
後藤が切ったバゲットになにかを塗っていく。甘い香り。これはひょっとして――
「メイプル?」
「そうです。メイプルバターを乗せて焼きます」
「へー・・・初めて見た・・・」
私が働き始めてから見てきたラスクにはない味だ。それをオーブンに入れると、焼き色をつける。しばらくしてオーブンから出てきたのは、甘いメイプルの香りを漂わせたおいしそうなラスクだった。
「おいしそー」
「あとはこれを冷ましてから、袋に詰めるだけです」
後藤がにっこりと微笑んだ。
◇
実際に店頭に並んだのは翌日の日曜日だった。いつもあるシュガー、ガーリックと一緒にメイプルのラスクも並んでいる。袋は綺麗に閉じられていて、消費期限が明記してある。ラスクは普通のパンよりも長持ちするのだ。
「メイプルのラスクかー・・・ねぇ、神山君、おいしそうだよね」
私が問いかけても、神山の反応はなかった。
「あ、もしかして、あんま好きじゃない?」
「ううん、好きだよ。ちょっと昔のことを思い出したんだ」
「昔って?」
「昔の話だよ」
意味深な言い方が気になったが、神山の態度から聞いてほしくないのだろう。私はこれ以上この話をするのをやめた。
店の開店時間になり、いつものようにたくさんのお客さんが来た。すでに5月になり、神山もこのバイトにかなり慣れてきたようだ。反対に私が危なっかしい手つきかもしれないが、それでもミスなくバイトができるようになった。
12時少し前になると、お客さんの入りが少なくなる。そんなときにやって来たのが、
「あれ?店長!?」
そう呟いたのは神山だ。店長=後藤だと思っている私は厨房から後藤が出てきたのかと思ったが、そうではない。神山は店のお客さんに向かって言っているらしい。大柄で熊のような人だ。
(あれ・・・この人どっかで・・・)
最近こんなことばかりだ。でも、決してすぐには思い出せないのが私の記憶力のないところだ。
「直樹、久しぶり。元気でやってるか」
その声でようやく思い出した。彼は『太陽のレストラン』の店長だ。最後に会ったのは閉店する年末だったから、約半年ぶりになる。
「元気です。店長こそお元気でしたか」
「元気だよ。久しぶりに実家に戻ってゆっくりしてるからね。今日はこっちに用があったからたまたま寄ってみたんだよ」
そのとき、熊の店長が初めて私を見た。
「あ、お久しぶりです。『太陽のレストラン』で店長をやってました―――・・・」
「覚えてます。えぇぇっと・・・・」
「小暮といいます。年末は来店してくださってありがとうございました」
彫りの深い顔がにっこりと微笑む。私はあのときのオムライスの味を思い出した。言えないことだが、また食べたい。
「年末って?もしかして何回かレストランに来たことあるの?」
不思議そうな表情で神山が尋ねる。私はうんと頷いた。
「武藤君と一緒に行ったんだ」
「武藤と?そういやおれがバイトのない日に1回来たって言ってたなー・・・」
「たぶんそれだと思うよ」
そういえば、武藤自身も『太陽のレストラン』を激ウマだと言っていたので、何度か来店していたのだろう。友達がバイトをしているなんて一言も言わなかったが。
「後藤さんはいるかい?ちょっと挨拶したいんだが」
「はい。ちょっと待っててください」
小暮の言葉に応じて、神山が厨房へと入っていく。
「小暮さん!こんにちは!」
しばらくして厨房から後藤が出てきた。その表情は久しぶりに友人と会う喜びがにじみ出ている。
「後藤さん、お久しぶりです。お変わりありませんか」
「ええ、こちらは。小暮さんこそお元気そうでなによりです」
2人は握手をして再会を喜び合う。
「東京へ来たついでにここへ寄らせていただきました」
「ゆっくりとご覧ください。どれもお勧めですよ」
トレーとトングを手に取り、小暮は店内を見渡す。そして、あるものに気がついた。
「これは――」
「ラスクです。メイプルバターの」
まるでわかっていたかのように後藤が語る。それを私は不思議に思った。
「このあいだ夢を見たんです。そうしたらこのラスクが出てきて、どうしてもメイプルバターで作ってみたくなったんです。あのときの味を再現できるかもしれないと思ったんですけど、やっぱり難しいですね」
(なんの話なんだろ?)
いまいち先の見えない話だが、小暮には通じているらしい。しばらくラスクを見ていたが、メイプル味を2つ手に取った。
「1つは自分用に。もう1つは家内に食べてもらおうと思います」
「・・・・・ありがとうございます」
そのときのやり取りの補足を神山がしてくれた。
「小暮店長の奥さんってじつはラスクを作ることが好きだったんだ。メイプルバターのラスクが特においしくて、バイトのおれたちにもよく作ってきてくれた。でも奥さんが死んじゃってからは店長もラスクを食べなくなって・・・」
「そうなんだ・・・」
「だから今日久しぶりにこのラスク見て懐かしく思った」
それから、『太陽のレストラン』が奥さんと2人でやっていたこと、1人になってからも寂しさを我慢してやってきたことを知った。あのレストランは2人の宝物だったらしいことも。
(閉店しようって決めたときは、どんなにつらかったんだろう・・・・)
「実は、東京で新たに就活をしてるんです。今日はショッピングモールのレストランへ面接に行きました」
「へぇ・・・キッチンでまた活躍されるんですね」
「こんなおじさん、どこも雇ってくれないでしょうが、試しに受けてみようと思ってます。決まったらぜひ食べに来てくださいね」
「もちろん伺います」
後藤が微笑むと、小暮も笑った。それは決して寂しい表情ではなかった。
ラスクはとてもおいしいです!
個人的にはガーリックがオススメ。