第23回 バイト募集
武藤がいなくなる――それを実感したのは、バイト先の壁に『アルバイト募集』のチラシを見てからだった。それには、土日祝日、給料、具体的なバイト開始日まで書かれていて、武藤の代わりであることがよくわかった。
武藤が出発するのは、3月の上旬。私がバイトに入っている日だった。由良から聞いた話によると、行き先はアメリカのカリフォルニア州。そこの州立大学に1年間留学するそうだ。
(だから、単語帳とか英語の本とか見てたんだ・・・英語が得意なのも納得)
時々日曜日に休んで、英語の試験を受けていたことは知っていた。だけど、まさか留学するつもりだったなんて全く考えてもなかった。
「おはよーございます」
武藤が裏口から入ってきたのがわかった。今日は土曜日なのだから、来ることはわかっていたが、チラシを見ていた分、その声に驚いてしまった。ちょうど入ってきた武藤と目が合うと、挙動不審にそらしてしまった。
「あ、募集の紙貼ったんだ」
私の横まで来て武藤が呟く。
「朝来たら貼ってあったよ」
「いい人が入ってくるといいな」
「そうだね」
次に入ってくる人のことなんて考えられなかった。今は武藤がいなくなることで頭がいっぱいだった。
◇
その日のバイトはそんなに忙しくなかった。いまいち気持ちの乗っていなかった私でさえ、なにも失敗することなく午前を終えることができた。
そんなとき、2人のお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませー」
何気なく見ると珍しいことに、男2人組みのお客さんだった。このパン屋の客は8割以上女性だが、時々男性が来てもこんなに若い人たちは少ない。だから、思わず見てしまったが、すぐに違和感を覚えるようになった。
(あれーあの人って)
「宮崎さんだ。ひさしぶり!」
「小塚君?なんでここに?」
秋に通った車校で出会った武藤の友達だ。その縁で何度か話したこともあったが、まさかこのパン屋に来るとは思わなかった。
「や、ヒマだったから来たんだ。あいつが留学する前にバイトしてるとこ見て冷やかしてやろうと思ってさ」
あいつとは武藤のことだ。今武藤は厨房でばんじゅう(パンを入れるコンテナ)の掃除をしている。
「待ってて。今ちょっと中で掃除してるから。もう少しで終わると思う」
「オッケ。じゃあ待つか」
そう言って、小塚が隣にいる男を見たので、私は初めてその人物をまじまじと見つめた。よく見ると、どこかで見たことがあるような顔だ。顔立ちは整っているが、特に特徴もなく、失礼だがいたって普通という言葉がよく似合う。表情が乏しいというのだろうか――
(どこかで見たことがあるような・・・)
そう思ったとき、厨房から武藤が出てきた。小塚たちを見て一瞬固まった後、驚きと笑顔が入り混じった表情になる。
「えっ!お前ら、なんでいんだよ!?」
「よーっす。ちょっくらヒマだったからー」
小塚が片手を上げて笑う。その隣にいる男は特に表情を出さない。
「さっきまで神山とラーメン食いに行ってたんだけど、近いからここ来てみよーかーってことになって。スマイルばりばりの武藤君を冷やかしに」
「帰れ」
「まぁまぁ。そう言わずに」
冗談を言い合っているが、彼らはとても仲がいいことは傍から見てもわかる。正直羨ましいなぁと感じてしまった。
ふと、神山と呼ばれた表情の乏しい男が店の壁をじっと見た。
「ねぇ、これって武藤の代わりのバイト募集?」
貼ってあったチラシを見て訊ねる。武藤がそれに気づいてこくんと頷いた。
「そう。できれば誰か入ってほしいんだけど」
「ふーん。じゃあ、おれやってもいい?」
「あっ!!」
その声を出したのは私だった。こんなときに場違いかと思ったが、ようやく思い出したのだ。神山という男をどこで見たかということを。
「レストランだ!『太陽のレストラン』!そこでバイトやってませんでした・・・?」
「うん。もう閉店になったけどやってた」
『太陽のレストラン』はここのバゲットを卸している洋食店だ。しかし、最近の不景気で店を続けることが困難になり、年末に閉店してしまった。私も2度行ったことがあり、1度目に神山を見かけたことがある。そういえば、2度目は見かけなかった気がする。
神山がバイトをしたいということを後藤に話すと、彼は喜んで了承してくれた。しかも、話を聞いていると、どうやら神山のことを知っているらしいのだ。
「『太陽のレストラン』へはよく行きましたしね。それに――」
そう後藤が言いかけたとき、厨房に神山と武藤が入ってきた。
「直樹君、お久しぶりです!」
「お久しぶりです。後藤さん」
2人は丁寧に挨拶を交わす。確かに知り合いのようだ。レストランへバゲットを届けに行ったときにでも知り合ったのだろうか。
「猛君から話は聞きました。もちろん大歓迎です。むしろこちらからお願いしたいくらいです」
「ありがとうございます。いいバイト先を探してたんですけど、なかなか見つからなかったんです。今日ここへ来てよかったです」
「そう言ってもらえて嬉しいです。でも、出発ぎりぎりまでは猛君にお願いしてあるので、それからでもいいですか?」
「はい」
そんなやり取りが厨房で行われている間、武藤は小塚と一緒に喋っていた。
「おおーカレーぱんだ。でも、カレーぱんってくどいんだよな」
小塚がトレーを持ち、傍に武藤が立つ。
「それパン粉まぶして焼いてあるだけ。別にくどくなんないよ」
「へー・・・じゃ買おっかな」
無意識に2人を見ていると、ふいに振り返った武藤と目が合った。なぜかどきっとする。武藤は黙ってこっちに歩み寄ってきた。
「神山はいい奴だよ。おれもこれで安心して行ける」
「あ、うん。そうだね。こっちは大丈夫だから」
私は無理に笑ってその場をやり過ごした。
◇
―――おかしい。こんなのっておかしい。
武藤のことを考えると、胸がぎゅーっと締めつけられるように苦しくなる。緊張する。
行ってほしくなかった。武藤が留学することを、心から祝福できなかった。どうしてなのかわからない。いや、わかりたくなかった。もしわかってしまったら、もっと苦しくなるってわかってるから――
(あーもう!つらい・・・)
どうして。矛盾した気持ちを抱いてしまっている自分が、とても嫌で、悲しかった。
神山直樹君です。ようやく登場させることができました。