第20回 由良さんの心(1)
パン屋の正月休みが明け、私にとって今年最初のバイトの日、雪が降った。昨夜の天気予報から雪が降ることは知っていたが、実際に積もった雪を見るのは久しぶりだった。実家の三重も別に寒い地方ではない。降ることはあっても積もることはあまりなかった。だから、カーテンを開けて驚いた。
「うわぁ・・・きれー!」
そんなふうに感動するのは、私か子どもたちくらいなものだろう。橋の上でのスリップや生活上での不便さなんてこれっぽっちも考えない。
「今日は歩いていこ」
浮かれ気分でバイトへ向かった。
浮かれていたのは私だけだった。行く途中、坂道でスリップしている車を見てしまった。他にも悪戦苦闘している自転車の高校生や、積もった雪のせいでタイヤが回らない車など・・・・・それは由良の車だった。
「由良さん、おはようございます。そうだ。あけましておめでとうございます」
のんきに明るく挨拶をしたが、車から出てきた由良はとてもテンションが低かった。
「おはよう・・・」
「どうしたんですか?なんかテンション低くないですか」
「むしろなんでゆきちゃんはそんなに高いのよ・・・」
まるで口から魂を出しているかのような表情の由良と一緒に、私たちは店内に入った。
「あけましておめでとうございます」
早速後藤の登場で、心の準備ができていなかった私は心臓が跳ね上がってしまう。だけど、大丈夫だ。思っていたよりも動揺しない。
「あけましておめでとうございます」
私がそう言うと、後藤は嬉しそうに笑った。結局、あの後どうなったのかはわからないが、心配することはないだろう。後藤の嬉しそうな顔を見ればそれがよくわかる。
「あれ・・・由良さん、どうかしました?」
「実は―――近いうち、ここに藤田さんが来るんですよ・・・」
藤田さん?名前を聞いても誰かわからないが、後藤はわかったようだ。由良とは反対に明るい声を出す。
「本当ですか!?」
「はい・・・こないだばったり本屋で会っちゃって・・・ここで働いてること知ったら『じゃあ今度行きます』って話になって――」
ずーんと地の底まで沈んでいく由良。私はそろそろ会話に加わってもいいかなとおずおずと声を出した。
「あのー・・・誰ですか?その藤田さんって・・・」
由良が沈みきって答えようとしないので、代わりに後藤が答える。
「僕と由良さんは同じホテルで働いてたんですけど、由良さんと同じ年に入った方が藤田さんなんです。僕にとっては先輩ですね」
「へー・・・」
「偉大な職人でした。その実力は広く知れ渡っていて、前回のべーかりー・ワールドカップで日本代表に選ばれるのではないかと言われていたくらいです」
(ベーカリー・ワールドカップ?)
3年に1度フランスで開催されるベーカリーのワールドカップ。各国から優秀なパン職人が出場し、技術、芸術などを競う・・・・・という大会であることを後で私は知った。とにかく、その代表に選ばれる可能性があるということは、よっぽどすごい人だということだ。
そんなすごい人が来るというのに、なぜ由良は嫌そうにしているのだろうか。同期だから、昔なにかあったのかもしれない。
◇
外の雪が激しくなり、さらに積もっていく。雪のせいで客足は少ない。冬なのにとてもヒマだった。だから、パンの補充をしたり、トングを綺麗に拭いたりしたが、すぐにやることがなくなり、ヒマだから武藤に頭突きしてみた。
「って!なにすん・・・!」
「ヒマ!」
「んなこと言う前に手動かせや」
そう言う武藤もヒマすぎて、とうとうイスに座ってしまった。しかも、テスト勉強なのか単語帳まで持ってきている。バイト中だからいけないことなのだが、それくらいお客さんが来ない。
と、そのときだ。カランとドアのベルが鳴り、お客さんが入ってきたのがわかった。
「いらっしゃいませ!」
私たちはすぐにスイッチを切り替える。お客さんは男性だった。黒いコートに紺色のマフラーのせいで顔はよく見えないが、なんとなく若い印象を持つ。
男性はきょろきょろと辺りを見渡し、トレーを持たずにレジまでやって来た。
「お勧めのパンってなんですか」
たまにこういう質問が来る。最初に聞かれたときはわからなくて後藤に聞いたら、「全部お勧めです」とにこやかに答えられた。それはわかっているが、そのままお客さんに伝えてもなんの解決策にもなっていない。
ちょうどその場にいた由良が、「迷ったら食ぱんだって言えばいいよ」と言ったので、そのまま伝えた。
「食ぱんですか・・・」
「他にも、クロワッサンなどは人気ありますよ」
「あー・・・」
間延びしたような反応と共に、男性が私をじっと見てきた。っていうか、私の裏にある厨房を見てきた。
「えっと・・・」
「すいません。由良さんってここで働いますよね?あと、ゴッチ・・・後藤さんも」
「あ!藤田さん!」
男性の声が聞こえたのかはわからないが、奥から出てきた後藤は明るく挨拶をした。この人がさっき言ってた藤田さんらしい。
「ゴッチ、久しぶり。元気だったか?」
「おかげさまで。藤田さんはどうですか」
「フランスでパンの修行をしてきた。近々こっちで自分の店を出すつもりなんだ」
「そのときはぜひ伺わせてください!どこに――」
そんな会話が繰り広げられる。私は邪魔をしないように厨房へ行くと、その奥のさらに奥で小さくなっている由良を発見した。
「由良さん!?」
「しー!私のことは見なかったことにして!旅にでも出たと思って!」
「どうしたんですか。藤田さんとなんかあったんですか」
単刀直入に聞くと、由良は顔をしかめてうずくまる。ますます気になるが、本人が話したがらないので仕方がない。
「とりあえず戻りますね」
私がそう言って踵を返す直前、背後に気配を感じた。振り返ると、なんとマフラーを取っている藤田の姿があった。
「足立――!」
由良の苗字を呟き、私の向こうでうずくまる由良をただじっと見ていた。
ベーカリー・ワールドカップは本当に存在します。
もう芸術の域で、すごいとしかいいようがないですよ!