第16回 太陽のレストラン
『ベーカリー ル・シエル』は特別注文を承っている。その内の1つが、パン屋の近くにある洋食店『太陽のレストラン』だ。
その日、後藤はマスク姿で登場した。目はうるうると涙目になっていて、声もがらがらに枯れている。ようするに風邪だ。
「すいません・・・ご迷惑をおかけして・・・」
一応いくつかのパンを作ったが、立っているのも辛いらしい。見かねた由良が別室で寝ているように命令し、散々渋っていたがようやく休むことにしたらしい。別室で後藤はまるで死んでいるかのように眠っていた。
だから、電話が鳴ったことにも気づかなかったらしい。
「え?配達ですか?」
「そう。『太陽のレストラン』っていう洋食店にバゲットを卸してるんだけど、いつもは店長が配達するか、向こうが取りに来るかのどっちかだったの。今回はこっちが配達するはずだったみたいで・・・・・」
由良が困ったように軍手をはめる。たぶんその洋食店に卸す予定のバゲットを手に持った。
後藤のあの様子では今日の配達は無理だろう。由良は厨房にいなければならないので行くことができない。だったら、
「私が行ってきましょうか」
「え?いいの?」
「はい。場所もわかりますから」
頭の中で洋食店へのルートを思い浮かべる。結構遠いかなと思ったが、由良が車を貸してくれると言うので、ありがたく厚意を受け取ることにした。
◇
車を走らせること10分。『太陽のレストラン』へ到着した。駐車場が狭く、何度か切り返しを繰り返して車をバックさせる。注文用のパンを大事に手に持ち、私は店内へと向かう。
(普通に表から入っていいって言ってたよね)
由良に言われたことを思い出しながら店のドアを開ける。
「いらっしゃいませー」
女性の甲高い声が聞こえ、お客さんじゃないので戸惑う。店員は私が両手いっぱいにパンを持っていることを不思議そうに見ていたが、営業スマイルだけは崩さなかった。
「何名様ですか」
「あ、えと・・・『ベーカリー ル・シエル』ですけど、ご注文していただいたパンのお届けに・・・・」
「ああ!ありがとうございます。こちらへいいですか」
すぐに理解してくれたらしく、店員は私を厨房へと案内する。他店の厨房なんて初めてだ。私は緊張しながら奥へと進む。
それにしても、綺麗な店だ。木のぬくもりを感じられ、証明が抑えられているぶん、外とは違う落ち着いた雰囲気を味わうことができる。店のあちこちに置かれている雑貨もまたかわいく。この雰囲気に合っている。
厨房の前を通ると、1人の店員とすれ違った。私と同じくらいの青年だ。無表情でじっと見られたので、所在のなさを感じてしまった。
「すみません。お待たせしました」
話を聞いたらしい男が厨房から出てくる。たぶん店長だろう。まるで熊のようだと私は思った。
「今日は後藤さんはどうされました?」
「店長は風邪をひいてしまったので私が代わりに来ました」
「風邪ですかー・・・お大事にと伝えておいてください」
私が了承すると、熊の店長はにっと笑って代金を払う。おつりなく受け取り、私は領収書を渡した。
「いつもありがとうございます。次は来週の火曜日ですよね」
「いや・・・そのことなんですけど・・・」
「―――?」
なにか言いにくそうに熊の店長はもごもごと口を動かす。私が真正面からきょとんとして見つめると、露骨に視線をそらされた。しかし、意を決したのか、すぐにきりっとした表情で私を見た。
「急な話で申し訳ないんですが、1ヵ月後に店を閉めることにしたんです」
「えっ?なんでですか!?」
「この不景気で店の経営が悪化しまして・・・・もう続けることが難しいと判断したんです。そちらになんの相談もなく決めてしまい、申し訳ないと思ってます。私からも後藤さんに言いますが、それとなくこのことを伝えておいてもらえませんか」
「は、はい―――」
そうとしか言うことができなかった。
今は不景気で、どの飲食店も経営に影響が出ているだろう。その中でも今までどおり続けることができる店もあれば、この洋食店のように閉店を余儀なくされる店もあるのだろう。実際に目の当たりにして、初めてそれを実感した。
「あの・・・」
去り際、私は店長を振り返った。
「もしよかったら、今からここで食事してもいいですか?」
私の問いかけに、熊の店長はにっこりと微笑んで頷いた。
メニューにはおいしそうな料理が並んでいる。1つ1つ確かめて、私は自分の好物のオムライスを注文することにした。
オーダーをするとき、てっきり最初に迎えてくれた女の店員が来てくれると思ったのだが、来たのは厨房ですれ違った青年だった。しかし、愛想がないというか、表情が乏しい。かわいい顔立ちをしているが、まるで笑わないなと私は思った。
「お待たせいたしました」
運ばれてきたオムライスは、黄色い半熟の卵に、おいしそうなデミグラスソース。見ているだけでよだれが出できそうだった。私はこういうとろとろの卵に弱い。
「いただきます」
1人でそう呟き、一口目を口に入れる。見た目どおり、とにかくおいしいオムライスが口いっぱいに広がった。特に、デミグラスソースの味が最高だ。これだけで舐めたくなる。お昼ごはんを食べた後だというのに、私の手は止まらなかった。
(おいしい・・・こんなにおいしいのに・・・・・)
辞めるなんてもったいない―――なんて言えるわけがなかった。詳しい事情は知らないが、あの熊のような店長が真剣に悩んで決めた苦渋の決断だったのだろう。それを私が口を出す権利はどこにもない。だから、余計に寂しい。
「どうですか?お味は」
いつのまにか傍に店長が立っていて、私を見ていた。私はうっすらと浮かんだ涙をごまかすかのように笑った。
「おいしいです。とても。ごちそうさまでした」
こういう温かいレストランが近くにあったらなという願望を抱いて書いてみました。
いや、実際あるのかもしれないですけど。