女のプライド
すべての人の内面には、男性的な面と女性的な面が内在していると思う。
男性的な属性としては男性的なプライドが、女性的な属性としては女性的なプライドがある。
プライドとは、自分自身についての定義である。
男性は外向的で、価値は外部に感覚される。
女性は内向的で、価値は内部に感覚される。
つまり、男性の人生にとって最も面白いのは、社会的地位が出世していくことである。しかし、自他の何者についても本当に肯定したり愛したりすることはないから、決して満足には至らず苦しみが残る。完全な理想を求め続けて、必ずそこに届かないまま死を迎える。
一方で、女性の人生にとって最も面白いのは、夫を愛し子を愛するなどして、自分を広げていくことである。それは、個人としての自分自身の喪失をも意味するが、自我の死とともに完全な満足がもたらされる。女性は、恋愛によって救われ、恋愛によって満たされる。
よって、男性は、個人的な満足などどうでもいいと思っている。女性は、客観的な事実などどうでもいいと思っている。よって、男性と女性とは別の生物であり、互いに分かり合える可能性は存在しない。しかし、男性は自分を飾る女性を必要としているし、女性は自分を求める男性を必要としている。
男性にとっての理想的な徳とは、外敵を噛み殺す果てに自らも噛み殺される勇気である。
女性にとっての理想的な徳とは、子孫に分け与える先に自らが食い殺される慈悲である。
現代人は中性的だ。
自己犠牲的な勇気なんてはやらないし、ただ穏やかな慈悲もまたはやらない。
つまり、男性的でも女性的でもない。
しかし人は、男性的でもあり女性的でもあることもできる。
男性は、現実の社会について問題意識を持つ。否定する。憎悪することが男性の価値である。
女性は、自らを愛し、人々を愛する。肯定する。エネルギーを産み出すところに価値がある。
男性は、女性にとっては道具のようなものだ。
女性は、男性にとっては食事のようなものだ。
物質的には、男性が主人で女性が奴隷のようにも見える。女性は物質的に弱いからである。
精神的には、女性が主人で男性が奴隷のようにも見える。男性は精神的に弱いからである。
〜〜
私は、倫理主義を愛してきたつもりだった。
私は、その世界で特別な位に立っているつもりだった。
しかしよく見ると、私には世俗的な幸福への願望があって、幼くしてそれに隔てられた運命への限りない憎悪もまた内在していた。
私を特別にしたのはつまり、知性よりも憎悪だった。
私は私が見たものを真実だったと思っているが、だから、私はそれが世間に理解されることを諦めた。
人々の知的向上はありえても、人々すべてを苦しみしかない生涯に落とすことは、不可能でもあり無意味でもあるからだ。
それは、男性としての私が、一つの役割を果たし終えたことでもあった。
〜〜
女性には女性のプライドがある。
世間の女性の特徴とは何だろうか? 競争心と蔑みではないだろうか?
しかし女性の本質的な特性とは、満足と愛情である。
つまり、競争心または蔑みの心を持つ人々は、女性ではない。
正義感のない男性が劣位で不完全な生き物であるように、博愛のない女性は劣位で不完全な生き物である。
女性は恋愛によって初めから救われている。
女性の価値世界は内向的なものである。
女性は、外界を変えようとするのではなく、内界を変えて進化していく。
言わば、精神修養に生きる求道者なのだ。
よって、外からの評価を結局は受け入れない。
自分自身が美しいと信じる自分自身の性格に到達し、そのプライドを貫いて生きる。
女性は、誰に評価されることも求めてはいない。
自らの美しさを育て、自らの美しさを喜んで満足する。
それを評価する理解者はありえても、価値そのものは自らの定義である。
女性は、自己愛に生きるナルシストである。
ゆえに、果てしなく傲慢でもある。
男性は女性に教わるべきことが多い。
女性は男性に教わるべきことが多い。
しかし現代では、男性も女性も本来の徳を備えてはいない。
よって、現実の男性以上の男性を考え、現実の女性以上の女性を考えてこそ、互いに進歩することができる。
義も愛も失われた、物質的な迷いしかない世俗に対し、世俗以上の自らになりうる。
世界に何かを求めれば不満が生じる。
不可能を求めることなく、ベストを尽くして満足することも大切だ。
何に満足すべきだろうか?
愛情深い自らの心の美しさを喜び誇って満足すべきだ。
それは、女性的なプライドなのだろうと思った。