【五章】世界に静寂を2
暖炉の中でパチパチと軽快な音を立てて燃える薪、雪と冷風から守られた室内は、外気が無いだけで遥かに温かい。椅子に掛けられた衣服、絶妙なバランスで積まれた本、テーブルには使用済みの食器が片付けられることなく放置されている。家主の生活感が溢れる部屋は、お世辞にも綺麗とは言えない。
雑多に物が置かれた室内だが、埃が落ちていないだけまだましなのかもしれない。
否、遥かにましだ。
ここ暫くは、屋根のある場所で寝泊まりも出来ずにいたのだから、暖を取ることさえ記憶に久しい。
暖炉の前へと男の手によって誘われ、綺麗な布を敷いた床へと座り暖を取った。
熱の孕んだ空気が鼻腔を通り抜け、冷えた身体が弛緩していく。思い起こされたように、役割を疎かにしていた血液が悴んだ指先まで巡っていく。
ーーなんて暖かいのだろう。
此処には、人の温もりがあった。
感極まってしまいそうになる感情を抑えて、男から渡されたホットミルクに口をつける。控えめな甘さが口内に広がり、するすると喉を通る。身体の芯から温まり、赤みを帯びた指先で我が子の頬を撫でさする。
しかし、雪のような冷たさが指先に返ってくるのみ。
慌ててホットミルクを冷まして、布切れに染み込ませると赤ん坊の口へと運んだ。
「さ、お飲み。美味しいミルクだよ・・・」
布から垂れるミルクが小さな口内に落ちる。だが、反応の無いまま、瞬く間に口の端からミルクの筋ができる。
「あぁ、ごめんね、ごめんね。ちょっと量が多かったねぇ」
汚れた顔を優しく拭い、「ごっくんしましょうね」と縦に抱き上げて背中をぽんぽんと叩く。我が子の様子を横目にして、飲み込まれなかったミルクが私の肩に流れ落ちる感触に動きを止めた。
「・・・・・・・・・」
言葉が出なかった。
「・・・・・・・・・うっ、・・・・・・あぁぁ・・・っ」
目から流れ落ちるものが、我が子の背を濡らす。その小さな身体に顔を埋めると腐った肉の臭いが鼻につき、余計に涙が溢れた。
もう手遅れだと理解していながら、心臓の鼓動を求めて耳を寄せてしまう。とくりとも動かぬ胸に引きづられ、私の心が冷えていく。
『無駄無駄、分かってたことでしょう?』と何処からか私を嘲る声が聴こえる。
その人物はこの部屋の主でも、孤児院の女でもなく、私自身の声だった。
薪のパチパチと爆ぜる音に私の嗚咽が混じる。
苦しい。
『ほぉら、誰も助けてくれなかったから』
苦しい。
『ーー赤ちゃん、死んじゃったね』
胸が苦しい。
どうして。
何故、助けてくれないの?私のことは良いから、この子だけでも、何故、何故助けてくれなかったの。
ーー何故、助けてあげられなかったのだろう。
夫と共に新天地を目指す道中、野盗に襲われ命からがら生き延びた。それでも、乳飲み子を抱えての一人旅には無理があった。
だからこそ、聖女の存在が私の希望になっていたのだ。きっと私の身の上話を耳にしたら、この子共々温かく迎え入れてくれるだろう。優しい言葉を沢山かけてくれ、神の御業で救いをもたらしてくれるだろう。
そんな甘い妄想にとらわれて、こんな遠くまで来てしまった。
この子の為に、私は何が出来ただろうか。
何も出来なかった。
何も出来なかったから、私は惨めに蹲っているのだ。
生きるだけなら、とっとと身を売ってしまえば良かったのだ。愛する我が子を救う為だ、と痛みも胸に広がる苦味も全て飲み込めば良かったのに、それが出来なかった。
出来ていれば、少しでもこの子は生きたかもしれない。
ーーでも、出来なかった・・・っっ!!
噛み締めた口から血が一筋、流れ落ちた。
夫を裏切る行為も、自分自身を傷付けることも、恐ろしかった。
外道の身へと堕ちることと、甘い期待に縋ること、どちらを選ぶか考える余地も無かった。
だが、結果は御覧の有様。
身の潔白は守れても、一体何の為に守ってきたのかも分からない。
ある意味、私は自身の身を守る為に外道に堕ちたも同然なのだ。
子の為を思うなら、私はこの子の盾にならないといけなかったのに・・・。
どんな身に堕ちてもーー。
この子のお母さんは、私だけだったのに。
「うぅ、うぅぅぅ・・・・・・っ」
唸り声を上げ震える私の肩に家主の手が添えられる。ハッとして男に顔を向けると、思いの外近い距離にあった顔に驚き目を伏せる。
「いいんです。悲しい時は、辛い時は、声を抑えなくていいんです」
労わるように背中を優しく行き来する手の温もりに促され、どっと涙が頬を伝う。
まるで私の罪も、何もかもが許された気がした。
ぐちゃぐちゃに湧き上がる感情に名前を付けることが出来ない。大きな奔流に振り回され、助けを求めるように声を出していた。
「うっ、うぇ、うわあぁぁぁぁぁぁっっ!!!」
引き連れる胸が苦しくて、息が吸えない。目頭が熱く、熱が全身に広がっていく。鼻水と涙の混じった液体が床を汚しても、男は注意するでもなくただ傍に居てくれた。
「ひっ、ふぅっ、うぅ・・・、な、なん、何で・・・っっ!」
しゃっくりあげながら、熱で纏まらぬ思考を、気持ちをそのまま口に出していた。
「うん?」
首を傾げる男の裾を掴む。
「何で・・・っっ!!」
ーー何故、貴方はもっと早くに私達を助けてくれなかったの。
口にしてから後悔、そして自身に対する激しい怒りが込み上げる。みっともない八つ当たり、身勝手な不平不満、厚顔無恥にもほどがある。
恥で全身が朱に染る。
情けない。
己の存在が、情けなさすぎた。
男の裾から手を離そうとして、逆に掴み取られた。
浮浪者如きが好き勝手言い過ぎた。
殴られる、そう思い衝撃に備えて目を閉じた。ところが、いくら待っても危惧した現実は訪れなかった。
恐る恐る視界を開けると、男が両の手で私の手を握り涙を流していた。
「・・・ぁ・・・・・・」
驚きに口を噤む。
頬から滑り落ちる雫の美しさに魅入っていた。乾燥した唇がゆっくりと開かれる。薄赤の縁取り、その奥にある赤い舌に視線が集中する。
「辛かったことでしょう」
朴訥な物言いは、何故か神父を相手している気分にさせた。
私は無理矢理視線を逸らした。
貴方に何が分かるというのか。
ぬくぬくとした部屋で、この冬を送る貴方達には分からない。喉の乾きを潤す為に、口が怪我することも承知で積もった雪を口にしたことがあるのか。
ぽっと私の心に火が上がる。
「寂しかったことでしょう」
ええ寂しかった。
どうしょうもなく孤独だった。
私の傍には何時も夫が居たのに、彼の温もりが無いだけで無性に心細かった。日に日に痩せ細る子を抱いて、積もる焦燥が私の思考をバラバラにしていく。底のない穴に落ちていくような、体の芯が頼りないあの感覚、見えない底の恐ろしさを貴方は知っているの?
火が私の中でより大きく、勢いをもって立ち上がる。
それは既に炎となって私の身体中を燃え尽くしていった。
「憎かったことでしょう」
そうよ!!
私は・・・・・・っっ
この世界が・・・!!
この身を襲う理不尽が!!
「・・・・・・憎いゎ・・・」
口から出た言葉は、まるで修羅の如く禍々しい。
床に爪を立てることで、身体から迸る怒気を抑えようとした。きっと、今の私は醜い顔をしている。理不尽な世界に対する憎悪で人としての理性を保っていた私に罅が入る。
「憐れな人よーー、私は、貴女の味方です」
ーーー今思えば、あれは甘美な毒だった。
「貴女は何も間違えていない。精一杯、子のためにやりきりました。」
私を肯定する甘い言葉が耳朶を打つ。
紛れもない赦しが、ただ嬉しくも疎ましい。
「貴女は怒っていいんです。それは正当な貴女の権利ですから、怒ってください」
怒りの焔が身を焦がす。
苦しい、苦しい、苦しいーーー・・・
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああぁぁぁぁぁぁ!!!!」
焔を吐き出さねば、自分自身を溶かしてしまう。
我慢できずに挙げた叫び声のなんて聞き苦しいことか!
「可哀想に・・・。貴女がこうして悲しみの雄叫びを挙げているのに、聖女様は別の誰かを救った気でいるのでしょうね」
その言葉に思わず彼を凝視する。
信じられなかった。
ーーー何故・・・・・・
「何故、こんなに苦しんでいる貴女が救われないのか」
私の考えを先に読み取り、「そうでしょう?」と同意を求める。
「ーー〜〜・・・・・・っっ!」
どうしてこの人は、分かるのだろう。
「貴女の気持ち、とても分かりますよ。私もまた貴女と同じでしたから。苦しむ人間を、子を、民を救えずして何が聖女なのか。結局の所、聖女も民衆に対してそれらしいアピールをしているだけに過ぎない。聖域は、幻に過ぎないのです」
「そんな、それじゃあ・・・っっ」
それでは、私のように絶望へと叩き落とされる人間は消えないではないか。
訴える私に男は首肯して応えた。
「悲しいことに、聖女はお飾りの存在です」
では、「聖女」の偶像を心のよすがに、私はこんな遠い所まで来たのか。
愛しい子に辛い思いをさせてまで?
聖女さえ居なければ、希望さえ無ければ、別の道を見い出せたはずだ。
これでは、ただの愚か者だ。
「ーーーだから、聖女の本性を暴かねばなりません。二度と、貴女のような仔羊が惑わされぬように」
「協力、してくれますか?」
その提案を拒絶することが出来ようか。
こくりと頷いた私に、彼は眩い笑顔を浮かべた。優しい手つきで私の腕から赤子を取り上げ「雪がやんだら、この子をちゃんと埋葬してあげましょう」と窓の向こう、雪降る夜空を見上げた。
「〜〜〜はい・・・っっ!!」
神でも聖女でもない。
彼こそが私の、私達の救いなのだ。




