【五章】転機
連日続いた雨もあがり、空を占領する厚い雲の切れ間から陽の光が地上へ差し草露に反射する。生温い風が大地を行き交う度に草や木の葉も呼応して身を震わせた。
雨に濡れそぼった草原を一人の子供が羊の群れを引連れ闊歩する。その様子を天空から二羽の烏と鳩が見守っていた。
雨を含んだ独特の土の香り、歩む度に雨水が跳ね子供の足下を汚していく。草地からは身を潜めていた虫が飛び出しては、戯れに羊達の餌食となるか踏み潰されるかして命の灯火を消していった。
久し振りの自由を手に入れた羊達が一頭、一頭と思い思いの場所で立ち止まりほどなくして一群は瓦解した。
それを気にした風もなく羊の様子を見守る子供の傍に烏と鳩が降り立つ。
漆黒に艷めく羽を払い、烏は長い嘴で羽繕いを始めた。
「ニケ、ミール・・・よく俺の場所が分かったな」
ニケと呼ばれた烏は「カア」と一声素っ気無い返答をしてから顔を伸ばして羽を繕う。反して、鳩は自身の名を呼ばれて嬉しそうに「くぅくぅ」と鳴いて子供の肩に留まった。
緩く喉を鳴らしながら頭を子供の頬に擦り付ける。信頼を示す行動に子供はこそばゆいと身を捩るものの笑ってされるがままとなっていた。
暫くして笑いもおさまり、一頻り触れ合ってから子供が大きく伸びをする。準備運動を終えて日課となったランニングを行うべく走り出した。走りながら遠くへ行き過ぎた羊を追いかけ、なるべく他の羊の近くへと戻していく。
子供に倣ってニケもミールも羊を追ってその背に着地し、のんびりと揺れを楽しんでいた。
「・・・・・・はぁっ、・・・はぁっっ!」
荒い息を吐き、全身に汗をかきながらも歯を食いしばって足を動かし続ける。苦痛に歪む顔が幼さを削ぎ、苦しみぬく行為が彼にとっての罰のようにも見える。
呻き、喘ぎ、少しでも空気を取り入れようと顔を逸らす。
子供の体力が尽きるまで繰り返されたものの、最後には地面に倒れた。荒い呼吸と共に胸が激しく上下する。
「うぇっ・・・はっ・・・はぁ・・・おえっおえぇぇ・・・」
地面に蹲り口から胃液が吐き出される。ややあって幾分か持ち直した子供は頭を擡げる。子供の前に影が落ちた。
「メェ・・・メェェェ」
一頭の羊が子供を見下ろし、鼻面を寄せる。小さな声で鳴き、臭いを確認すると子供の髪を噛み出した。
「ぐぅおおおおおおおお!?!?!?痛ったっ!!痛ったああぁぁ!?」
羊の横面を叩いて距離をとると髪を押さえて地面を転がり回る。
「アホかっ!痛いわ!!絶対禿げた!!!禿げたぞこれ!?」
痛みに悶えていた子供の近くにいつの間にか老爺が歩み寄る。しかし、子供に一瞥をくれただけで叩かれた羊に怪我がないか確認し、羊を他の場所へと引き離した。
「馬鹿が、食い扶持に傷をつけるな」
「酷いよウル爺、俺の心配もしてよ。痛いよ〜、俺禿げてない?まだ生えてる?また生えてくる?」
幼子へ向けるにはあまりにも無情な態度だ。だが、子供はそれを気にした素振りもなくどちらかと言えば自身の頭部の安否を優先している。
老爺は溜息を落とし、渋々ながら頭を突き出す子供の頭部を見やった。
「泥だらけで地肌もよく見えんぞ」
「・・・あー、・・・ほんとだ」
指摘を受けてようやく雨上がりの地面を転がり回ったことに気が付いた子供は、泥だらけの体を見て肩を落とした。頭から足先まで泥で汚れ、髪に至っては元の色さえ識別出来ない有様になっている。
「・・・・・・やってみろ」
老爺は唐突にそう切り出した。“何を”示しているのか、それ以上の説明もなくむっつりと口を閉じる。しかし、子供はそれだけで言わんとすることを理解し、両手を眼前に広げた。
「おいでませ、ドM製造機!!」
子供が叫ぶ。突き出した掌から何かを呼び出そうとでもしたのか、小さな手を凝視するばかりで何もおきない。辺りに虚しく羊の声が鳴りわたる。
「・・・何だ?そのドM製造機とやらは」
間を置いて老爺が訊ねるも子供は耳を押さえて顔を逸らした。
「ちぇー、水鞭出ないな〜〜。おかしいなー、いけると思ったんだけどなー、変だなー、あーあ」
残念がっているわりに一本調子で声を伸ばす。茶化しているのは、誰の目にも明らかだ。
「・・・・・・ほぅ」
老爺は目を細めて片手を上げた。すると、空中に水球が浮かぶ。そして、瞬く間に体長六m程の鯱へと姿を変えた。水というのに姿形はハッキリとしており、その図体を通して老爺が透けて見える。鯱は老爺へ心得たとばかりに首肯した。
子供は突然現れた鯱の姿に驚き固まっていたが、鯱が子供に向き直り鋭い歯を剥き出しにしたところでその場から逃げ出した。
力強く走り出した子供の面持ちが疲労から恐怖へと変貌する。
「ねえ!?何で追いかけてくるの!!??」
鯱は悠々と空中を泳ぎ子供が振り返るに合わせて口を開閉させ遊んでいる。その度に顔を白くさせる子供を見ては、可笑しそうに歯を見せて笑っているようだった。
「お前を洗ってやろうと言うんだ、ありがたく思えよ」
老爺の方頬が意地悪く上がる。
「じゃあ最初の水球で良かったんじゃない?!」
子供の指摘に老爺は、赤銅色の髪をかきあげながら無言で顔を逸らした。
「わざとっっ!!」
叫んだと同時に鯱が子供を一飲みする。
鯱の体内で空気を求めて藻掻き続けるが、最後には口から大量の空気を吐き出した。幾百もの水泡が鯱の体内を抜けて外の空気と混ざり合う。
目的を果たした鯱は、空中で大きく飛び跳ねると水の塊として地面へ派手な音を立てて弾けた。水の呪縛から解放された子供は、飲み込んだ水を吐き出してふらふらと頭を上げる。次第に焦点も合い、眼前に立つ老爺を睨めつけた。
老爺もまた、山吹色の視線を相手へ注ぐ。数拍後、ぽつりと呟いた。
「綺麗になったな」
怒りの表情を浮かべていた子供もこの言葉には脱力する。
「水責めにあったのは人生二度目だよ・・・、最低で、最高の気分だ」
そう言って肌にまとわりつく服の裾を搾る。皮肉を多分に含んだ言葉も何処吹く風と聞き流し老爺が手招きした。
「それは良かったな。目も覚めただろう、朝飯にするぞ」
「・・・先に着替えても?水に滴るいい男でも、この恰好じゃ可愛い女の子も誘えやしない。あ、ここには女の子いなかったや、筋肉だらけだ・・・・・・ツラい」
一人で落ち込む子供がある意味で見ていられなくなり、老爺が手で顔をおさえる。どちらかというと、酷い頭痛をおぼえているようだった。
「冒険者からろくなこと学んでないなお前は・・・」
「ろくなことも何も、愚の集まりって言ってたのはウル爺じゃんか」
だから教育に良いわけが無いと言外に告げて泥の取れた白髪の水をきる。
「・・・・・・・・・帰ったらどうだ、お前の場所に」
子供は動きを止めた。
「ここに居てもつまらんだろう。帰れば友人らと一緒にいられるのじゃないか?」
静かに首を振る。
その顔は俯き、何を考えているのか分からない。
「・・・ダメだ。皆に酷いことしちゃう」
老爺が膝を着く。
引き寄せられるかのように子供へ手を伸ばしーー・・・止まった。空中で静止した手は、暫く彷徨い諦めて元あった場所へと戻る。
「どんなことだ」
子供が叫ぶ。
「・・・・・・とにかく酷いこと!!ここには冒険者達も来るし、ウル爺もいるし・・・っっ」
ようやく、一つの救いがここにあるのだと言わんばかりに子供が顔を上げた。
子供は笑っていた。
「ウル爺なら出来るだろ!俺を・・・、俺を殺せるだろっっ!?」
笑いながら、泣いていた。
「ーー選んだ・・・のか」
老爺にある言葉が回顧される。
『アルレルト、お前は魔物と人、どちらの味方なんだ』
子供は首を振った。
赤子がむずがるような仕草で彼は否定した。
「違う!違う・・・っ!!嫌だ、絶対に嫌なんだ・・・・・・っっ」
右肩を掴む手がわなわなと震える。
「ーー声・・・、声がする・・・。嫌な声だ、俺嫌だよ、負けたくなんかない・・・・・・。こんなの俺の意思じゃない!!」
まるで今にも暴走してしまいそうだと、それがただただ怖いのだと全身で表していた。
「みんなといたい!・・・・・・いたいよぉ」
それは切実な、子供の本心であった。
だが、もう叶わない夢だと顔をふせる。
それでも尚、救いがあるのであれば縋りたくなるのが人の性なのだ。
「助けて・・・、ウル爺」
本当に小さな、囁く程の声音だ。耳を澄まさねば拾うこともかなわなかっただろうその言葉を老爺は確かに耳にとらえた。
躊躇いは一瞬、しかし、決めてしまえば呆気なく彼は子供を抱きしめた。
「ーー当たり前だ、馬鹿たれ」




