【四章】下界の女神
厚い雲に覆われ、月も姿を消した深更ーー町に住む人々も、深い眠りについていた。人々が寝静まった頃、夜行性の動物が巣穴から顔を出す。
町から外へと繋がる整地された道に、突如、草陰から狐が飛び出した。獣の鋭い爪は、追い掛けていた鼠の尻尾を捕らえ、逃げられずに地面でじたばたと鳴き喚く。
獲物を逃がしては捕まえるという悪戯を繰り返し、熱中していた狐は、自身のテリトリーから大きく逸脱し、人里近くまで降りて来ていた。
土や埃に塗れた薄汚れた鼠が「キーキー」と甲高い声を上げる。
やがて飽きたのか、はたまた腹が空いたのか、狐はおもむろに獲物の首に牙を立てた。
空気の萎むような震声を上げて、鼠は絶命した。
餌を胃袋に収め、狐は不意に動きを止める。尖った耳を動かし、周囲の音を拾う。狐がたまたま足を踏み入れた道上ーー目と鼻先にある屋敷から、人の動く気配がした。
だが、高台にある屋敷の窓からは、漏れる灯り一つなく、しんと静まり返っている。
警戒を解くことなく辺りの匂いを嗅ぎ、危険が無いことを確認すると狐は早々に草むらに身を投じた。
草を掻き分ける音が響く中、ふと屋敷の窓に明かりが灯る。
カーテンの引かれていない窓からは、小太りの男が書斎と思われる部屋で背中を向け、悪態をついていた。
「ーーーくそっ!なんてことだ!!」
男は早口で口汚く罵ると、手元にあった手紙を憎々し気に握り締めた。
手紙の送り主は、記載されていない。けれど、手紙に香り付けされたそれで、ある程度送り主の検討がついていた。
男がこうも焦り、取り乱しているのは送り主が判明したからでも、体調が優れないからでもない。彼によって握り潰された手紙の内容が原因であった。
彼の部下を通じて手元に届いた手紙は、暗号化されており解くのに予想外の時間を要した。
部下に任せても良かったのだが、暗号化する程の貴重な情報をまかり間違って漏洩されたのでは堪らない。
誰にも身咎められない深夜に細々と解読作業にあたり、今夜漸く全ての解読に至ったのだ。
怒りが治まらない。
男は感情のまま机を叩く。燭台に灯された蝋燭が揺れ、男の影が波打つ。蝋燭からは、獣の生臭いような嫌な香りが鼻につき、それが余計に男の怒りに火をくべた。
「ーー彼女を救けられなかった・・・っっ」
記憶の糸を辿る必要もなく、鮮やかな色と音でもって彼の脳裏に女の姿が浮かぶ。
甘やかな香り、輝く瞳は聡明さを湛え、彼女の声は子守唄のように誰の耳にも優しく届いた。華奢な体は必要な箇所に肉が付き、目に入れるだけで男の欲を煽る。
男と彼女が出会ったのは、オークション会場だった。知己である商人から「珍しいモノが手に入った 」と招待されたのが切っ掛けだ。
宝石、或いは骨董品か絵画か、気に入れば購入するつもりで男は会場へと足を踏み入れた。
仮面を着けた人々同様に、期待で胸を膨らませたが、低級な物が立ち並ぶばかりで、期待は呆気なく地に落ちた。
商人に文句の一つでも言ってやろうと、用意された席から立ち上がった矢先、司会者が「本日の目玉商品です!!」と声を張り上げた。商品の入れ替えで閉じていた舞台のカーテンが波のように引いていく。
そこに、女がいた。
特注の鳥籠の中、彼女は艶然と微笑み、周囲の視線を独占する。
女の出現に会場の空気が一変した。
誰も彼もが言葉に表せない美しさに息をのみ、ただ一心に女神を見つめた。
目を瞑ってしまえば天へと還るのではないかと、妄信に過ぎないそれを、本気で信じるくらいに彼女は美しかった。
静寂に包まれた会場で、彼女は物怖じすることなく滑らかに口を開く。
『ーーさぁ、お偉い方々。私を買ってくださる、私だけのご主人様はどなたかしら?』
瞬間、会場が爆発した。
老若男女問わず、鬼気迫る顔で彼女を手に入れようと声を張り上げる。混乱渦巻く会場で、女の「主人」たる権利を掴み取ったのが男であった。
家が傾く程の大金を失った代わりに、女を手に入れた。
周囲の羨望を受けながら、彼女を前にした時の胸のときめきは今も忘れられない。
金は幾らでも「甦る」。それを考えれば、痛くも痒くもなかった。
『まぁ、私のご主人様は、お金持ちなのね。とっても豊かでいらっしゃる』
『ーーああそうだ。だから何でも欲しい物は与えてやろう。お前が喜ぶなら、金に糸目はつけん』
この時は真実、そう思っていた。
女を宝石や上等な絹で着飾らせ、時に欲望のまま寝所を共にし、望む物を与え続けた。
ある時、女から屋敷の外へ出てみたいと強請られた。ささやかな望みだ。拒否する理由もない。
男は一も二もなく頷いた。
町へと女を連れ立って歩く。馬車を使えばいいものを、女が「それではつまらない」と可愛らしくごねたので、仕方なく徒歩を選択することとなった。
しかし、すれ違った人々が放心し、女に見蕩れる様を一瞥して、自尊心が急速に満たされていく。
白く輝く滑らかな肌は、手に吸い付くように柔らかい。腰まで伸びる髪は、陽光の下、様々な色に輝き人々の眼を楽しませた。老いを知らない彼女は気品溢れ、立ち居振る舞いは貴族を前にしても申し分ない。
宝玉のように深い色味をおびる瞳は、吸い込まれそうになる程美しい。真赤な唇は、何度もしゃぶりつきたくなる甘さをはらんでいる。
艶容とした顔貌に微笑をたたえ、女神の如く慈愛に満ちた空気を身にまとう。彼女を前にすると、人々は自然に傅いてしまう。
美の女神ーーその化身に違いない女を前にして、正気を保っていられるはずが無い。
長く彼女との時間を共有した男も既にーー・・・・・・。
町の人々に囲まれた女が微笑み、口を開く。
『ねぇご主人様、この町を私の庭に。私の好きなようにさせてくれるかしら?例えばそうね、手慰みにここに居る人達を幾人か連れ帰っても構わない?』
他愛の無い話しをするように、彼女は自身を飾る宝石を求める時と同様の温度で無邪気に要望する。
男も女へと笑い返し、応えた。
『お前が喜ぶなら、私が許可しよう』
彼女の心に安寧を与えるのであれば、否やと言えようか。
それに、雑草を一だろうが十だろうが刈った所で、また生えてくるのだから好きに使えば良い。
『ーーでは、そうだな・・・。私に対する不敬罪ということにでもしておこう。ここに居る者達を捕らえろ』
逃げ惑う人々を部下が引っ立て、十人以上の老若男女を屋敷へと連れ帰った。
『うふふ、嬉しいわご主人様。この子達、私の好きなようにしていいのよね?』
喜びを全身で表現する女に愛おしさを感じながら、その細身を片腕に抱きしめる。
『あぁ、勿論だ』
そこからは、あまり記憶が定かでない。あいも変わらず淫欲と女に貢ぐ日々を繰り返していたと思う。
多分そうだ。恐らく、そうだったはずだ。
とにかく、領民のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。
手遅れだと気が付いたのは、執事から領地の収入が減っているという報告を受けた時だ。
『何故だ!アイツら税を支払っていないというのか!!』
激昂する男に対して、執事は冷静に説明を口にした。
『ーー支払いが出来る状態にない、と言うのが正しいところでしょう』
女によって領民が殺され、或いは働けない身体にされているのだと。
女は町に降りて以降、定期的に領民を連れ去っていた。戻ってくる者もいれば、戻らない者もいる。戻って来たとしても、気が触れているか身体に異常があるかして元の生活に戻ることも出来ず、路傍で死を待つばかりの木偶に成り下がる。
連れ去る頻度も一月に一度、多くて十数人を攫っていくものだから、領地に新しく根付いたり、赤子が産まれたりする人数を大きく上回り、必然的に領民の数は減少していった。
働き手が減少すれば、放置していても今まで入ってきていた税収も漸減する。
以降も執事の口から、女を恐れて領民が土地を放棄し他領へ移住していること、既にそれを不審に感じた他領の報告により、国の使者が此方へと向かっていることが告げられる。
『何故、もっと早くに報告をしないんだ!!』
使者が遣われるということは、それだけこの領地の有り様が目に余ったということだ。早く状況を把握していれば、打てる策は幾つもあったというのに。
男が責めても、執事は顔色一つ変えない。
『ーー私が進言申し上げた所で、貴方様はあの女性を切ることが出来ましたか?彼女は人を狂わす才気に溢れている・・・、使者に引っ立てられてしまった方が領民や貴方様にとっても良いことでしょう』
かっと頭に血が上り、執事を殴り飛ばす。暴力に慣れぬ男の児戯にも等しい拳を、執事は避けずにその身で受けた。
『ーー彼女が領民に対して何をしているか・・・、貴方様の目で確認してみてください』
執事が懐から鍵を取り出す。その鍵は、男が女の為に用意した部屋の鍵だった。
男がその鍵を乱暴に奪い取ると女の居るだろう部屋へと向かった。
急ぎ足で部屋の前に辿り着く。
扉越しに鳥の囀りのような明るく笑う声が聞こえた。執事が危ぶんでいたとは思えない程、明朗としている。
扉のノブを回すも、鍵がかけられていた。
その鍵をかけたのは執事だろう。
部屋には窓も無く、内側から鍵を外すことも出来ない。
つまり閉じ込めたのだ、彼女を。
音を立てずに鍵を開け、扉の隙間から中を覗く。
初めに、椅子に座って微笑む女が目に入った。
女は蠱惑的に微笑み、口元を羽扇で隠す。女の目線の先にある光景に男は固まった。
床に転がる老けた女性、その手と足は縄で頑丈に縛られている。
女性の身体には幾つか切り傷があり、床に点々と血が散っていた。女性の顔には恐怖が刻みつけられ、目をこれ以上ない程見開いて、女の前に立つ人間を凝視していた。眼前には、剣を取り落とせないように両手を縛り付けた若者ーー恐らくは二十歳も超えていないだろう青年が目隠しをつけて立っていた。
『うふふ、さぁ頑張って~、そのまま真っ直ぐよ』
女の声に従って青年が足を恐る恐る前へ進める。
『そうそう、そのまま真っ直ぐーー振り下ろしなさい』
目隠しをしている布が涙で濡れ、青年の頬を伝う。荒い息を整えることも出来ず、青年はカタカタと震える体を叱咤するように叫んだ。
『うわァァあああああぁぁぁぁぁぁっっ!!』
気力で振り上げた剣が、女性に向かって振り下ろされる。剣先は、重力をのせて女性の頭にめり込んだ。
『ん゛ーーーーーーーっっっ!!!』
猿轡をされた女性は痛みに声を漏らし、身体をびくびくと痙攣させる。女性の頭部から血が垂れ、床に染みをつくる。
女性の「叫び」を聞いた青年は「うわ、うわぁ」と哀れな悲鳴をあげる。剣から手を離せないまま、気が動転して後方へ退く。剣先が女性の頭蓋骨に嵌りこんでいるから、剣の動きに沿って女性の頭部も引っ張られる。
『ん゛ん゛ーーーーーっっ!?』
痛みに悶える女性にビクつき、青年は手を離すことも身動ぐことも出来ず、その場で静止した。
青年は肩で息をしながら、啜り泣いた。血と女性の粗相した匂いが部屋に立ち篭める。
『あーら、何を休んでいるの?ちゃんと殺してあげないと可哀想よぉ?ほら、この人を殺したらお家に帰してあげるから頑張りなさいな』
「家に帰す」その言葉を聞いた瞬間に青年の身体に、剣を持つ手に力が宿った。
『はぁ・・・はぁ・・・・・・っっ!』
青年は意を決して頭部に刺さったままの剣に力を込め、女性を串刺しにした。頭骨を突き破って顎に剣先が顔を出す。
ここまでされても女性は生きていた。呻くこともできず、無言で痛みを訴え、下半身から黄色い液が伝う。
青年も女性が生きていると感じたのか、何度も串刺しにする。
グジュッ!ガリュッ!
剣先を振り下ろす度に、血と中身がはね飛ぶ。
女性の痙攣が引き、人相も判別困難となった所で青年は漸く動きを止めた。
こと切れたのを確認して、女は満面の笑みで拍手する。ぱちぱちと乾いた音が部屋に鳴り響く。
『偉いわぁ!お疲れ様、よく頑張ったわねぇ』
女は立ち上がり、青年を背後から抱きしめた。青年はビクリと体を震わせたが、振り払うことなく女のなすがままとなっていた。
『貴方は立派な死刑執行人よ。ーーさぁ、貴方の功績をちゃぁんと確認してね』
女の細指が青年の目隠しにかかり、ゆっくりと外されていく。
青年の視界に光が差し、ボヤけた視界を慣らすように何度か瞬きして、視線を下に落としーーーー・・・・・・。
『ぇ・・・、かぁ・・・さん・・・・・・?』
弱々しい言葉は、囁きに近いにも関わらず部屋の外に居た男の耳にしっかりと届いた。
青年はその場にへたり込むと、脳味噌や目玉諸々が飛び散って粉々になっている頭部を「信じられない」と幼い顔で見つめ続ける。
女は彼の両肩に指を這わせ、耳元で囁いた。
『お母様を殺した今の気分はーーー如何が?』
青年の瞳が自身の手、剣、母の頭部に突き刺さって髪やら中身やらが張り付いた剣先を移動してーー我慢しきれずその場で吐いた。
『ーーぐぅ、お゛え゛ぇ゛・・・、げぇ、う゛ぇえ・・・・・・、はぁ・・・はぁ・・・うぅ゛』
くすくすと衣擦れのように静かに笑いを漏らす女を、それこそ信じられない気持ちで見つめた。
『あらやだ、汚いわねぇ・・・。お母様も汚れてしまうわよ。さ、お家にお帰りなさいな・・・。まぁ、帰ったとしてもだぁれも迎える人はいないけれどね。ふふ、あはははは』
女が立ち上がり、男の視界から消える。
青年は血溜まりと自身の吐瀉物の中で座り込み、幽鬼の如く青白い形相で「母さん」と何度も呟き続けた。
肉塊は返答する術を失い、彼の呼びかけだけが虚しく空気を震動させる。
暫く茫然としていた彼は、不意に狂声を上げた。固定された剣を引き抜いて、逡巡する間も無く己の首を掻き斬った。
首から血液が飛び出し、数泊後、青年は血の海で倒れた。
『やぁだ、自殺するなんて弱っちぃ子ねぇ・・・。でも、面白い余興にはなったかしら?ほら、この二人さっさと片付けなさい』
再び、視界に現れた女は女性と青年の死体を足で転がす。女の指示で使用人が死体を運び出す準備を始めた。
それをただ無感情に眺めていた女が出し抜けに顔を上げる。部屋の中をゆるりと見渡し、部屋の扉が開いてーーそこから男が覗き込んでいることに気が付くと、女は口元に人差し指を立て歪んだ笑みを浮かべた。
『ーーー~~~~~っっ!!』
男は我慢ならずに走り出す。
底知れぬものを感じさせる女が、残酷なまでの非人道的な女の奔放さが、恐ろしくてならなかった。
そしてあまりにもーーー・・・・・・
美しかった




