【三章】美味しい瞬間2
ーーーどうして僕をみかぎらないんだろう・・・・・・
思考の奥底へと沈殿している間に、塀を飛び越えアルレルトが目の前に現れた。
さあおいでと言わんばかりに両腕を広げて此方を待ち受けている。
ガンと横面を叩かれたような痛みと心の底から例えようのない熱い奔流に飲み込まれた。
分かった気がした。
人の子である僕を、愛が何かを知らない幼子を、彼は見捨てることはないのだと。
彼の前では、子供でいれる。
化け物と罵られ、畏れられることなく、ただの人の情を向けるべき無知で無邪気な子供として。
でも、それは僕が「人」であればの話だ。この皮を剥いでしまえば、化け物である己を唾棄すべき存在として見るのだろう。
ーーーそんな目で見られるのは嫌だなあ・・・・・・
力を抜いて、それでも揺るぎない力でもって、アルレルトに抱きついた。
何故か反撃とばかりに、乱暴に髪の毛を掻き乱されて閉口したが、嫌な気持ちでは無い。
アルレルトの気持ちが変わってしまう前に急いで森へと向かった。
折角孤児院から出たのだ。
絶対あの花々を見て、少しでも心の慰めとして欲しかった。
目的地に到着するとアルレルトは、大きく口を開けて一面に広がるその花の美しさに見惚れていた。紅潮する頬に目がキラキラと輝き、口元は笑みを形作っている。
喜色の広がる様は見ていて心地好い。
「正解」を選べたのだと、知らず入っていた肩の力を抜いた。
「凄いなぁ・・・・・・。坊、ここまで連れて来てくれて、ありがとう」
本心からととれる感謝の言葉に、歓びがじわじわと内を侵食していく。甘美ともいえる言葉に脳が揺さぶられ、もう暫くそれに浸っていたいという欲に負けて言葉を強請った。
「ーーー気に入った?」
「もちろん!!」
クラリ・・・
酩酊感を無防備にも享受した。
脳に痺れが走り、酩酊感と合わさって癖になりそうな快楽を得る。
「良かった」と笑い返そうとして、油断し切っていた幼子の身体が何者かによってねじ伏せられた。首筋に生臭い息を感じた直後には、そこに深く牙が食い込み切断された。
鼻面で頭部を投げ飛ばされ、残された胴体にのしかかる黒狗が愉快気に肉を貪っている様を空中から目撃する。
忌々しいことに、殺し損ねた奴が居たらしい。
アルレルトとの一時を邪魔されて怒りがふつふつと湧き上がる。
人に変化していても、それは本体ではない。
胴体と首が切り離されても痛くも痒くも無い。だからと言って、敵からの攻撃を甘んじて受け入れる程、愚かでも弱者でも、ましてや酔狂でもなかった。
捻り潰してやろうか、それとも己と同じ目に合わせてやるか・・・さぁ、どう殺されるのがお前の望みだ。
忍ばせていた牙を剥き出しにしようとして、視界の端でアルレルトが地に伏せているのを捉えた。ごそごそと身じろいでいることから、大きな怪我は無いようだ。
彼の安全を確認している間に、頭がドンッと地面に着地した。何度かバウンドして花に埋もれる。
アルレルトが此方に近寄る気配がして、咄嗟に死人を演じた。
怒りの感情のまま、惨い姿に変えてやろうと企んでいた頭が急速に冷える。
ダメだ。
アルレルトに化け物と怯えられたら・・・、想像するだに目の前が暗くなる。
化け物と拒絶される未来を思うと己の保身が勝ってしまった。
それ故の演技であった。
「坊!!大丈夫ーーー・・・・・・」
慌てた様子の声音が瞬時に硬い性質に変化する。生首の状態になった幼子を視認すると、彼は足の力が抜けたのか、尻もちをついて後ずさった。
その顔面は、蒼白で息も荒い。
「あ・・・あぁ・・・っっ・・・・・・う、うぁ・・・」
信じられないものを見たといわんばかりに眼を見開いて、弱々しく言葉にもならない音階をこぼす彼は、ただのか弱い子供だった。
心の柔らかい部分を剥き出しにした彼を見て、罪悪感と庇護欲を掻き立てられた。
注がれる視線に歪んだ喜びの海に浸っていると黒狗の唸り声に彼の視線は、容易く外れてしまう。
そのことを少し残念に思いながら、この状況をどう脱却したものか、とタイミングを見計らう。
アルレルトは、飢えを凌ぐようにガツガツと己の体を貪っている獣の陋劣な姿を食い入るように見ていた。
その顔からさらに血の気が引き、彼の見事な白髪と同色になっていく。
我慢出来なかったのだろう、その場で蹲り、痙攣するように嘔吐した。
そうこうしているうちに、黒狗がアルレルトの存在に気が付く。
舌打ちしそうになるのを寸でで堪えた。
生意気にも牙をむき、唸り声を上げてアルレルトに向かって1歩、また1歩と踏み出していく。恐怖に陥ったアルレルトは、放心して逃げる素振りも無い。
保身に走っている場合では無い。
アルレルトを傷付けようとする輩は、皆殺しだ。
力を開放しようとしたその時、空気が変わった。
ザワリ・・・身体が総毛立つ。
「ーーーーお前を殺してやるっっっ!!」
アルレルトは憎々しげに叫ぶと、手から水で出来た剣を黒狗に突き刺した。
直立して攻撃に身悶える獣を見下ろす。彼の全身から、凄まじい怒気が発せられていた。
勇ましく立ち向かうその姿は、先程まで死に恐怖していた子供では無い。
幼子の反撃により、怒りで我を失った黒狗は尚も立ち上がる。
彼は恐れることなく、逆に不敵な笑みを浮かべた。
そして、彼の頭上ーー黒狗の周囲に水剣が顕現し、獣へと突き刺さる。
空中に浮かぶ数多の剣が獲物に向かって放たれる光景は圧巻だ。
敵の力を削がんとする冷静な判断力。更に言及するならば、アルレルトの繊細なコントロールと膨大な力に舌を巻く。
あの力はなんだ。
内から無尽蔵に漲り迸るあの得体の知れない力はーー・・・・・・っっ。
魔法というものがこの世に存在していることは知っている。
しかし、どうだろうか。
初めて出会った時と同じ、否、それ以上の波動は、やはり他の人間のそれとは明らかに異なる。
ーーーこの力はどちらかというと・・・・・・
剣の雨はいつの間にかやみ、アルレルトがゆっくりと地面に倒れた。
力が切れたわけではない。その証拠に飛びかかる獣へと水球を当てていく。しかし、黒狗の息の根を止めるには足りず、手負いの獣の勢いは更に加速する。
「ーーークソっ!!クソったれめ!!動け、動けよ!!!」
四肢に力の入らない彼の怒号、獣のような咆哮が、己の頭に轟き、自然と身体が動いていた。
「動けえええええええぇぇぇぇぇぇ!!!!」
心臓がキュウっと引き絞られ、チカチカと視界が弾け飛ぶ。
ーーー貴方に惹かれたのも、貴方に恐怖したのも、貴方から与えられる全てに歓びを感じたのも、全て必然であったのだ。
『だぁい、じょうぶ』
変化を解いて、黒狗を渾身の力で殴り飛ばした。
虫の息であった黒狗が絶命したのを確認して、アルレルトに微笑みかける。
本当の姿を見せるのに、もう抵抗は無かった。
『だあぃじょおぉぉぶぅ?』
本来の姿であると、発声が上手くいかず間延びした言葉になる。それを恥とは思うまい。
首を傾げてアルレルトの無事を問う。
相変わらず顔色は悪いが、意識はある。口元が引き攣ってはいるものの、無言で此方を見返していた。
暫し見つめ合い、あの赤に、アルレルトの赤にきらりと光が燈る。
「ーーー・・・坊・・・・・・?」
蚊の鳴くような小さく呟いたそれは、意味を持って確かに己の鼓膜を震わせた。
『ーーーー・・・・・・ァル』
「なんだよ、それ・・・・・・坊、坊なのかよ・・・っっ」
アルレルトの小さな手がなんの躊躇いもなく己の手に触れた。その手は、漏れ出た言葉と同様に震えていた。まるで、この小さな子供が今にも泣き出してしまうのではないかと思えてならなかった。
子供はよく泣くものだ。
だけど、アルレルトの涙は見たくないなぁ。
坊の記憶を参考に、力を抜いてアルレルトの背を労わるように一定のリズムに合わせて打つ。
坊の親は、よくこうして子をあやしていた。
早く笑って欲しい。
そっと背中を撫ぜていると彼の身体の強ばりが取れ、手の震えもおさまっていた。
「ごめん、ありがとう・・・坊。俺は大丈夫、大丈夫だから」
ぎこちなくも笑んだ彼にホッとした。
同時に緊張の糸が切れたのか、身体が空腹を訴える。辺りに響く重い腹音に、アルレルトは目を白黒させて己の体を注視し、数拍後、弾けるように笑い出した。
些か居心地悪く、誤魔化すように頬をかく。
この街に来てから、ろくに物を食べていない。
出店の男から貰った果物以来、魔物も魔獣ですら口に入れなかった。
仕方ないのだ。
それ程までにアルレルトに夢中だった。
アルレルトに勧められ、僕と食べる予定だったというクッキーを口に運ぶ。
先程の闘いで形も分からないほど無惨に砕けたそれを、感慨深く咀嚼した。
僕と食べる為に用意したのだと言う。
己にとっては腹の足しにもならない、血の滴るような肉でないと埋まらない。
ーー・・・埋まらないのに、何故だろうなぁ・・・。
次々と砕けたクッキーを口へ入れれば、アルレルトが嬉しそうに頷いた。
とぷんと聴こえないはずの音がした。
杯がたっぷりと水で満たされたような、湯に身体を浸らせたような・・・そんな不思議な心地が胸中を巡る。
あぁ・・・なんだっけ・・・
『もっと美味そうにたべんと幸せが逃げるぞ。食事ってのは、日常の幸福なんだからよ』
カチリとピースがはまる。
『おぃしい』
そうこれが、"美味しい"だ。
あぁ・・・ようやく意味が分かった。
これが"美味しい"だ。
「・・・・・・美味しかったなら・・・・・・良かった、よ・・・」
眠たいのか目を擦りながら、アルレルトが胴体に身を寄せる。
最後にむにゃむにゃと呟いて寝入ってしまった。
無防備なその姿に相好が崩れる。
ようやく己は、欠けたものを手に入れた。
おやすみアルレルト、己の王。




