【三章】食べるという意味
結局、フォルスがこの家に舞い込んで来たというのに、取り逃してしまった。
雑に変化したせいか、途中で正体がバレてしまったのが大きな原因だ。
それならばと、甚振るつもりで崖まで追い込んでみれば、さっさとその身を崖下に投じたのだから恐れ入る。
生きている事もあるまいと集落へ戻り、残しておいた餓鬼に牙をさす。
軟らかな肉の感触、ぶつりと噛み切れる筋肉も未発達で軟らかい。血液もさらさらとしてするりと喉に流れ込む。飲み心地よく甘露と価するに相応しいそれに、夢中でしゃぶりついた。
当時、どうしてそう考えたのか理由は判然としない。しかし、戯れに取り込もうと思い付いた瞬間には、それを実行に移していた。
女の時には強烈な自我の目覚めを招いたそれは、凪いだ湖面のように沈黙を返すのみ。何の変化もありはしなかった。
戯れだ。
大概、どんな事でも初めての経験というものは、新鮮なものだ。女の時はまさにそれで、敢えて言うなら『特別』だったのだ。
餓鬼を身の内に取り込んだ所で、影響など受けるはずがないと一つ頷く。
腹を満たし終えると、人に化けることなく山を越えた。
川の流れに沿って進み、幾つかの町を過ぎる。流石に人がいる所では、身を隠して闇夜を駆けた。
行く先に目的は無い。
たらふく人間を食べたからか、空腹を感じることもない。
気分良く跳躍して大きな門扉を越え、窓からもれる灯りに興奮した。
灯りの数だけ、人間がいるのだ。
ここはどうやら、今までの町や村よりも広大で、多くの人が住み着いているようだった。
夜明けを待って、子供の姿に化けて街を散策する。
態々、子供の姿に成りすましたのには、理由がある。
あの女に変化して練り歩くには、あまりにも人の数が多い。試してみたら予想の通り、見目に騙された人間が大漁に釣れること釣れること。
人垣ができる程の有り様に嫌気がさし、子の姿で移動した方が早いと判断したのだ。
しかし、子供というのは、こんなにも狭い視界で生きているものなのか。
屋台通りは多くの人間が行き交い、そこかしこで客引きの声があがる。
100を超えるか超えないかの背丈では、大人の膝から大腿程しかない。視界にあるのは足ばかりで、物理的に溺れそうになる。
「坊主、大丈夫か?」
人混みに踏み潰されそうな幼子を見かねたのか、男に両脇を抱えられ、屋台裏へと避難させられた。
ぶらりぶらりと小さな足が宙に揺れる。
男は移動を終えると「あてててて」と苦痛の声を上げて腰を抑えた。
本来であれば、男に抱えられる重さではない。姿を変えるとその姿にみあった重さになるのだが、それでも男にとっては十分腰にくるものだったらしい。
歳は40くらいだろうか、でっぷりとした腹は今にもはち切れんばかりで、実際に腰を伸ばした瞬間、服のボタンが弾け飛び、此方の額に着地した。
歳なりに刻んだ皺が、相好を崩すことでより深まる。
腕も脂肪だけでなく、筋肉にしっかりと覆われていて、食べ応えがありそうだ。ところが、腕にも足にも至る所に男らしく体毛が蔓延っていて食欲が失せた。
人間の体毛は細い。
歯に挟まりやすいので、あまり好きでは無かった。間違えて食べてしまった時には、喉がちくちくと痒く、直ぐに吐き出してしまう程であった。
「お使いか?小さいのに偉いなあ。でも朝の時間は出入りが激しいからな、もうちょっと人が捌けるまで、ここで待ってな」
勝手に勘違いしている男は、うんともすんとも返さない幼子を特に気にすることも無く、「サービスだ」と熟れた無花果を幾つか差し出した。面倒だったので素直に受け取り、口に含む。
咀嚼するが周りの皮が邪魔してこの口では中々飲み込めない。
無言で悪戦苦闘していると、男がカカカと笑いだした。
「なんだあ、食べたことないのか無花果。ーーほら、これで食えるだろ」
男が無花果の皮を剥いて寄越す。
子供の歯でも軟らかく噛む事ができる果肉は、中身が真っ赤で、まるで鮮血のようだ。
「はは、美味しいか?」
美味いかと聞かれると、どうか分からなかった。
男の様子から恐らく不味いものではないのだろうと無難に頷いておく。
「か〜っなんだよ、もっと美味そうに食べんと幸せが逃げるぞ。食事ってのは、日常の幸福なんだからよ。ほら、腹減ってんならこれも、あとこれも、持って帰っていいぞ」
一方的に捲し立て、どさどさと無花果だけでなく、店頭に並ぶ果物を押し付けてくる。
要らないと返そうとするも、タイミング良く客が来て、男は此方に背中を向けてしまった。
お節介な男だと嘆息して、そのまま声を掛けることなく人の流れに身を任せた。
両腕に溢れる程の果物を持ち歩いていると、直ぐに「これ使いな」と見知らぬ女に捕まり紙袋を渡された。
・・・この地域は、お人好しの集まりらしい。
これ以上は付き合っていられない。
さっさと人目のない所まで避難すると姿を解き、屋根上へと跳躍する。
一際高い建物ーー、恐らく集合住宅だろうそこに腰を下ろし、涼やかな風を感じながら果物を一つ口に運ぶ。
しゃくしゃくと尖った牙で噛み潰し嚥下する。
植物由来の甘味に物足りなさがつのった。
高所から眺めるこの世界は、光輝いて見えた。
眼下を人々が行き交い、遠くまで見渡せる青い海からは、潮の香りが微かに届く。海の色が反射したような空には、穏やかに雲が泳ぎ、頭上に鎮座する太陽がこの街を明るく照らしている。
ヒラリと風に煽られて、眼下の洗濯物が揺れた。
真逆、まさに真逆の世界に驚愕するしかない。
太陽の光も通さない鬱蒼とした森林は、ジメジメと陰気で空気も重く、清浄さに欠けていた。魔物や魔獣ばかりの住処で根を張るのは、毒を持った草木だ。
生まれ故郷は、生きるにはあまりにも過酷な土地だった。
どうして今更、そんなことに気付くのか。
どうして、燦然と輝く光を眩しく感じるのか。
輝きから逃れるように、頭上に手を翳す。
命を狩ることしかできない獣の振り上げた手は、血が固まったドス黒い色をしていた。




