【二章】この服は心の優しい者にしか視えない
結局、夕方近くまで続けたが、俺の作った水鞭は打ち付けた時にかかる飛沫の量が減ったぐらいの向上しかなかった。
越えることも、潜り抜けることも出来ず、自分の不甲斐なさに落ち込んだ。
なんだか、今日は落ち込んでばかりだ。
そもそも、気持ちが上がらなくて無理に巫山戯ていた節もある。
「・・・・・・明日もまた来るね」
濡れた状態で意気消沈しながら別れの挨拶をすると、珍しく呼び止められる。ウル爺は、両手に幾つかの服を抱えていた。
「そのままだと流石のお前でも風邪をひくだろう、着替えて行け。それと、帰りは私が送ろう」
俺は感動した。
昼間に優しさがないなんて思ってごめんね、ウル爺!!
流石に夕方となると風が涼しく、濡れ鼠と化した俺にとっては、鳥肌を立てるほどに寒さを感じていた。
正直、帰るのも億劫なくらいだった。
どう考えても大人用の服だが、お礼を言って早速着替える。
着られたら良いのだ。
寒くなければ、それで良いのだ。
裾や袖を何回も折った姿は、服に着られていて滑稽に映るだろう。
ウル爺は、俺を見て口元を引くつかせていた。
今回ばかりは許してあげよう、存分に笑うがよい。
簡単な俺は、服だけで気持ちが少し上向きになった。
ウル爺の横を歩きながら、彼を見上げる。
まだ俺では届かない距離で世界を眺めている、その視線の高さが羨ましかった。
浮かび上がる筋肉と歳を重ねた肌には、幾つも傷がついていて、表面はぼこぼこだ。
本当にどういった人生を送っていれば、こんなに傷だらけになるというのか。
敢えて考えないようにしていたけれど、魔法についての造詣が深いというのに、この田舎町で牧場を運営しているのは何故だろう。
ウル爺には不思議が一杯あるけれど、それを不仕付けに聞くのは憚られた。
せっかく、俺のことを彼の内に入れてもらったというのに、根掘り葉掘り知ろうとするのは愚策だろう。
ふと、視界の横、ぶらぶらと体の動きにあわせて揺れる手が気になって、握ってみた。
ゴツゴツと骨ばり、たこが潰れて硬い手は、俺よりも何倍も大きくて何処かほっとするような温もりがあった。
俺の突然の行動に驚いたのか、ぴくりと緊張したように一瞬、手に力が入った。
だが、直ぐに力が抜けて、振りほどく素振りもない。
俺の好きなようにさせてくれるようだ。
それに甘えてウル爺の手をにぎにぎと握って、たまにじろじろと観察する。
大人と手を繋ぐなんて、あんまり経験に無い。どのくらい大きいか比べたりしたくなるのは、男の性だ。
内心で言い訳を重ねつつも、一通り観察し尽くして満足した俺は、それでも手を外すでもなく、繋いだまま歩いた。
夕陽に照らされた世界は、どこか温もりと胸にせまる切なさに溢れていて、刹那、この世界に居るはずの自分を捨てた両親を探したくなった。
マリーナも、皆も、こんな気持ちを抱いたことがあるのだろうか。
「あらあら、仲良しねえ。アルちゃん、気を付けて帰るのよ~」
いつも通る道に、見慣れた人が居ることは当然で、道に水をまいて仕事の片付けをしている花屋の店主へ手を振って応えた。
普段であれば、指摘されれば直ぐにでも手を外しただろう。
だけど、今だけはそうしたくなかった。
「お、珍しい組み合わせだなあ。ベルナードさん、あんまりコイツを虐めないでやってくれよ。あと、余りで良けりゃ、これ貰ってくれ。また明日な、アル坊!」
葉野菜を俺とウル爺の分、押し付けるように渡されて、心優しくも不器用な主人に「ありがとう!またね」と苦笑を返した。
その後も、道行く人に呼び止められては、一言二言、言葉を交わしていく。
「大したものだな。お前が何時もこちらへ来るのに時間がかかるのも頷ける」
感心しているようにも取れるし、皮肉にも聞き取れる言葉に、ウル爺の感情は隠されていて読み解けない。
夕陽に溶け込んだような髪が眩しくて目を細める。
きっと、俺の髪も夕日に照らされて同じようになっているのだろう。
世界と同化してしまえば、救われるのだろうか。
「―――・・・・・・院長のお陰だと思うよ、皆がああして気にかけてくれるのは」
ーーー俺だけだったら、見向きもされなかったよーーー
その言葉は、口に出さずに歩き続けた。
そうして口を噤む俺を見て、思い当たる点があるのか、ウル爺は「そうだな」と首肯した。
「・・・・・・」
俺はまたちょっとだけ落ち込んで、視線を落とした。
本当のことでも、第三者から言われると流石に自分が情けない。
皆からちやほやされるのは、院長の後ろ盾のお陰だ。それを鬱陶しがったとしても、院長の顔に泥を塗ることができず、無駄に愛想を振り撒く自分に嫌気がさしていた。
「最初は、アイツの紹介からだったろうさ。だが、その後のことについては、アイツは何も口出ししていない筈だ。アレは本来、人を縛ることが好きではないからな」
淡々と語るその声からは、やはり感情が読めなくて、何を伝えようとしてくれているのかと低く嗄れた声に耳を澄ます。
「お前が今、こうして私や街の奴らと友好的な関係を持っていられるのも、お前自身の力ではないのか。お前がそうしたいと望んでいるからだろう」
ウル爺のキラキラと光る金が俺を射抜く。その眼は、己を欺くことを許さないと言わんばかりに力強く、真正面から俺を捕らえた。
その目の力に思わず、一生隠していこうと誓った秘密を零した。
「ーーー本当に・・・俺、なのかな。・・・・・・たまに、分からなくなるんだ、自分が」
意味のある言葉として音が自身の耳に聞こえた後、何を言ってしまったのか悟る。
隣に佇む男は、胡乱気に眉を顰めた。
この男は、白黒ハッキリさせたがる所がある。
無意識に発した言葉の言い訳を考えようとして、彼からの厳しい追求に誤魔化すこともできそうに無いだろうと、結局は諦めの笑みをはく。
ウル爺は、「俺が望んでいる」と言ったけれど、それは本当に俺の願望なのだろうか。
薄々感じていた『私』の存在に、俺と『私』の区別をつけることができないでいた。
どうして俺の中に『私』がいるんだろう。
『私』って誰のことだろうか。
俺は、何者なんだろうか。
自分の中に眠る他者の存在に不快感が生まれるよりも先に困惑した。ふとした瞬間に顔を出す『私』の感情は、俺の心を波立たせるに十分だった。
縋るようにウル爺を見ると、俺の瞳に映る感情に彼自身、面食らっているようだった。
「俺は、唯のアルレルトの筈なのに、たまに知らない人の気持ちが湧き上がってくるんだ。俺・・・おれは、本当は『私』なんじゃないかな」
ここ最近、俺の心に巣くう不安を我慢することが出来ず、助けを求めるように気持ちが口をついて出た。
決壊したように涙がボタボタと流れ落ちて、コントロールがきかない。
意味が分からないことを喚いているのは、理解していた。
訳の分からない存在に、ちっぽけな自分が呑み込まれてしまうかもしれないという恐怖が付き纏う。
ちっぽけな俺は、『俺』であるという証明をできない。
「・・・・・・私は、お前のことをよく知らない。出会って間もないから、当然だ」
淡々と事実を述べる。
事務的な確認作業がウル爺らしくて泣いているのに、噴き出しそうになった。
「だが、出会ってから今日までで分かることもある。お前は、酷く巫山戯た奴だ」
「遊んでいたかと思うと真面目に訓練に取り組んでいる。お前は酷く自由気ままで、笑顔を浮かべているかと思えば毒を吐く。本性を中々掴ませない、そんな捻くれた奴だ。そのクセ、人との距離のとり方に神経質で子供らしさが一切ない。有り体に言うと可愛らしくない」
歯に衣着せぬ物言いは、俺の心にすっと入り込む。
この人はずっと俺をそんな風に見ていたのか。
辛口過ぎる評価の強さに負けてしまいそうになる。でも、そんな無様な姿を晒したくなくて、両足に力を入れて立ち続けた。
「唯一、お前を褒めるとしたら、家族想いな所だ。その想いがある限り、きっと道を踏み外さない。お前がお前であれるのだと思う。お前自身の始まりは何処だ、アルレルト。余計な感情に目を向けず、成すべき事をなせ」
人差し指で胸を突かれる。
ドクンと心臓が反応を返して、俺に温もりを教えてくれた家族が思い浮かんだ。
院長は、いつも穏やかに笑って俺達に接してくれる。特別な愛をくれない代わりに、平等に俺達を愛して、誠実に向き合ってくれた。
エレナは嬉しい時も、悲しい時も、楽しい時も、辛い時も、どんな時だって俺に甘えて、全力で信頼をよせてくれた。
ネルは勉強や読書をしていても、俺が遊びに誘うとなんだかんだ文句を言いながらも断らない。仲間、友人、兄弟みたいな距離感で対等な存在だ。
マリーナの綻んだ笑顔を大切にしたいと思う。沢山の辛い思いをして、俺だけを信頼する彼女を見放すことは出来ない。
ディックがいるから、俺は安心して好き勝手できる。彼は見た目に反して心優しく、どんな時でも俺たちを見守ってくれる。
ララも、ミミも、ランドも、カイトも、孤児院にいる皆を俺は好きで、好きで仕方なかった。
俺の心に温かい気持ちをくれる家族を大切にしたい、守りたいと思った。
ーーだから、俺は『俺』になれた。
最初から分かっていたことだ。
この感情を持っているのは『私』ではなく確かに俺だ。
それに気づけた時、狭まっていた視界が突然クリアになった気がした。
それでも俺が迷子のままになってしまうと危惧しているような、試すような目線をウル爺が向けていた。
眉間の皺が新記録の5本に突破していると、どうでもいいことを発見したと同時に、心配をかけたことに罪悪感を抱く。
この気持ちを忘れさえしなければ、俺は俺であれるから。
もう大丈夫だという気持ちを込めて、繋いだ手を1度握り返して、そっと離した。
「はは・・・ウル爺の言う通り・・・、先ずは魔法の訓練に集中しなきゃね」
目元に残る涙を乱暴に拭った。強がってみせたわりに少し声が震えていて、格好つかないなぁと苦い笑いが溢れた。
しかし、俺の言葉に安堵して珍しくウル爺が柔らかく笑うものだから、そんな顔も出来るのかと目が奪われる。
「・・・とっとと帰るぞ。日が暮れる」
夕陽は既に地平線から顔半分を隠していた。夕陽が落ちて、夜がやってくる。
月のない暗い夜でも、俺はきっと歩ける。
大事な家族が傍にいれば。
深呼吸して夜の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。しんと胸を冷たく包む香り、その中に嗅ぎなれないものが混じる。
そうこれはーーーー・・・・・・
「ーーー・・・加齢臭・・・・・・・・・」
袖に鼻を寄せて臭いを確認していたら、ウル爺に殴り倒された。
意識が遠のく直後、目の前に怒髪天を衝く形相のウル爺がいたことは確かだ。
その後、気付いたら自分のベッドで朝を迎えていて、ベッドで横になるまでの記憶が無くて恐怖した。
妙に後頭部がズキズキと痛みを発していたが、きっと気のせいだ。
気のせいに違いない。
それと俺が目下の悩みであった服問題については、「もう着られなくなったから」と街の人が沢山の子供服を寄附してくれたので、平穏無事に解決されたのであった。
因みに、寝付きにくい夜には、必ず鬼のような形相のウル爺に追いかけられる夢を見るようになった。
彼はまた1つ俺にトラウマを植え付けたのである(やっぱり気のせいじゃ無かった)。