【二章】壊れる幸福2
男は頼りない足取りで寝室を出て、そのまま家を後にした。
笠もささずに長の家へと向かう。
早く報告して、化け物を狩る必要があった。
じわじわと雨で服が濡れ、体にへばりつく。水を吸った服の重さか、男の足取りもつられて重くなる。
あの家に既に化け物の姿はなく、いつまたどこぞの家を襲うとも分からない状況に、心細さは強まった。
またいたいけな幼子が死ぬのか。
愛すべき隣人が死ぬのか。
今度は、護らなければならない。
焦燥と恐怖、そして仇を取りたいという義侠心とが降っては湧いて、男を翻弄する。荒れ狂う海原のような心情でさえ、男にはまだ微かな余裕が残っていた。
加護により、分かる事実。
ーーーー死ぬ場所はここではないーーーー
だから動けた、行動できた、目的をもつことができた。
山神の加護は、男を裏切ったことがない。
その経験を支えに動いた。支えがなければ、いつ何時化け物に殺されるか分からぬ状況で恐慌に陥っていたことだろう。
荒れる呼吸を整えることも、長の自宅扉をノックすることもなく、乱暴な動作で開けるなり、たたらを踏んで上がり込む。
寝室も居間も全て一部屋に納め、必要最低限の家具しかない簡素な家は変わりがない。
初めて家に上がった時は、長だというのに質素な生活になんとも言えない苦さを味わったものだ。
狭い部屋で長を見つけることは容易であった。
椅子に座りこむ姿は、いつにも増して小柄な印象を男に与える。
背を向けていることから、その顔は見えない。しかし、いつにない男の無礼な行動に、彼は怒るでもなく、身動ぐこともない。
興奮が引いて、鈍っていた感覚が正常に働き始め、室内にこもる血と腐臭が男を苛み、とうとう力なく床に崩れおちた。
振動が伝わり、長の身体が椅子から滑り落ち、鞠のように転がって、その目が男とかちあう。
男は声にならない悲鳴を上げた。
「~~~~~~~~~っっ!!!」
長は、死んでいた。
顎を外され、もぎ取られた四肢は腹や口、下半身に突き刺さっている。骨ばった体の、ありとあらゆる場所から血を垂れ流し、陰部は排泄物にまみれ、蝿がたかっていた。
涙を流した悲壮な姿に意識を持ったまま、甚振られたと分かる。
まるで芋虫のような姿は、威厳も、人としての尊厳も、何もかもを踏み付けて、たかだか『人如き』と男を嘲笑っているようだ。
人間をまるで玩具のように甚振り、悪巫山戯にしても度を超えている有様に、言葉も無くす。人間の矜恃を易々と踏み躙る外道たるやり口は、正しく鬼畜の所行であった。
胃には何も無いのに嘔気は強く、飲み込もうとしても迫り上がる。誤魔化しきれずに胃液を吐いた。
こんなに受け入れ難かった現実は、無い。
男は走った。
頼れる相手を見つけ、泣いて助けを請いたかった。
既に事は男の手に余り、方々へ飛び火している。
集落の掟なり雑事は全て長が担っていた。その長が死んでしまえば、男達を指揮する者が居らず、集落としての機能を果たす事が出来ないも同義であった。
無我夢中で目についた家に入って助けを求める。だが、そこの住民も等しく無残な死に様を晒していた。
男は怯えた。
意味が分からなかった。
何故、ここにも死者がいるのか。
混乱の中でも、人に会いたくて、会いたくて、怖気づいても次の家に上がり込む。
この時点で、化け物に出会うかもしれないという可能性は、頭の中から消え去っていた。
何度も希望と、ソレを打ちのめす絶望を味わって、終着点として辿り着いたのは、友人の家であった。
「まさか」、「もしや」と意味もなく言葉を呟き、逃げたがる気持ちを奮い起こして家の扉を開く。
「ーーああ!良かった、お前に会いたかったんだ!!」
求めていた人の声に、ありえない状況にもかかわらず身体から力が抜けた。
友人の声は掠れ、どこか慌てているようだが、聞きなれたものである。
親しい者の亡骸を見続けて、この短時間で男の感覚は麻痺していた。
まだ、友人は死んでいない、と安堵するのは仕方がなかった。
「突然来てすまん。俺も、お前の安全を、か、確認したかったんだ・・・」
友人は床に座り込み、どこか憔悴した顔をこちらに向けた。友人の瞳は動揺しているのか、男に顔を向けながらも、ぐるぐると室内をめぐっている。
嫌な予感に男はたじろいだ。
友人の傍らには、あの女が血を吐いて倒れている。
男は血の気が引くのを感じ、受け入れ難いことに眩暈と頭痛に襲われる。
この集落の異変は、この女から始まっていた。
ならば・・・、女が死ねば、悪夢から醒めるだろうか。
あれほど疎ましく、恐怖していた存在が呆気なく倒れ伏しているというのに、警鐘は鳴り止まない。
どころかいっそう酷く男を追い詰め、頭が割れるような錯覚を抱く。
「助けてくれ!!俺の妻が・・・っっ!!め、飯を食っていたら突然、血を吐いて・・・!!い、息をしていないんだ!!どうすればいい!!早く医者を・・・っっ、案内してくれ!」
友人は取り乱して女の肩をゆすぶる。
女の顔は白く、艶めかしい唇も血の気を失っていた。唇から一筋の血が流れ、死体になっても美しいその姿に、男はもう耐えられなかった。
警鐘と友人の存在に、男は薄々気がついていた。
友人の有り得ない言葉の意味を。
悪夢はまだ、続くのだと―――――・・・・・・・・・
「俺が!町に行って医者を呼んでくる!!お前は!!!彼女のそばを離れるな!!!」
友人の生死も確認することなく、男は走った。
ーーー町とは、反対の方向へ。
逃げたのだ。
友人から、化け物から、死体溢れる古里から。
友人は、町と反対に逃げる男を疑問に思うでもなく「おぉい、待ってくれ。俺も連れて行ってくれ」とある意味で暢気な言葉を掛けながら追いかけてくる。
だが、その言葉を額面通りに受け取るには、男は既に色々な経験を積みすぎていた。引き留める言葉は、ただただ男にとって地獄へと引きずり込む罠でしかない。
「俺の友は!!この集落でただ一人の医者だった!お前は一体、誰だ!!」
男の叫びに、応える声は無い。
あんなにも大切にしていた女をただ1人、床に投げ捨てて男を追う友人は、友人ではない何か、だ。
床に倒れる女を見て、男は直感した。
友人の姿をした化け物が女であり、集落の住民を食い殺した犯人であると。
どういう摩訶不思議な術を使ったのかは分からないが、友人の皮を被った化け物に追いかけられている。
集落中を見て回って、気づいたことがあった。
住民たちは、ほとんどが寝ているような穏やかな表情で死んでいた。
しかし、長のように独り身の者は、恐怖の表情を浮かべていた。
点と点が一つの線に繋がる。
家庭があるテーブルには、全て茶器が出ていた。そこに住む住民の数に一つ足された分だけ。
恐らく、化け物は客人として家に上がり込み、持ち込んだ薬かなにかで住民を眠らせ食ったのだ。そして、笑えないことに独り身に対しては遊びで殺している。
食べた痕がなかった。
食欲と快楽を満たして、男を残した人間以外を殺し終えて、次の餌場へ行こうと企んだのであろう。
男が最も気を許している友人に成り代わり、男に町を案内させようとしたのだ。
ゾッとした。
それ程の知恵ある化け物が、男を追いかけているという事実に。
男は走った。
泣きながら、嗚咽をもらしながら、恐怖で小便をまき散らせながら、身体が限界を超えてもなお、走り続けた。
「おぉい」と化け物の声が、幻聴か、現実か、聞こえる度に、男は力を振り絞った。どこの道をどう走ったのかも分からないまま、木々が鬱蒼とする獣道を駆けて雨の中、でこぼこした道とも言えぬ場所の草を掻き分け、時に足元を滑らせる。
荒い息は耳障りで、心臓は拍動と首を絞めているような痛みを訴えかけてくる。
しかし、男は足を止めることができない。
ーーーまだだ、まだ、奴は諦めていない・・・・・・
化け物の姿も、声も、既に見も聞こえもしないが、背後から存在をひしひしと感じる。
だというのに、林を抜けて前に向かう足は、歩みを止めた。
男の眼前には、きり開かれた光景が広がっている。
崖っぷちに立たされて、それでも逃げる算段を立てようと下をのぞき込む。崖下数百m先に河川があり、その流れは激しく、何物も飲み込む自然の力に男は項垂れた。
絶望の淵に立たっていた。
「お、い、お置いて、いがないでぇ・・・・・・」
調子が外れた声に背後を振り返り、木々に挟まれ佇む化け物に男は息をのむ。
髪は所々抜け落ち、顔面の皮膚はボロボロに剥げて肉が丸見えとなっている。体のあちこちが人としてあり得ない方向に捻じ曲がり、こうして男の前に立っていることさえ、不思議に感じられた。
友人だった者の痛ましいあり様に、目を離すことができない。
ドロリと濁った瞳は、深い闇をたたえ男を絡めとる。
男は不思議でならなかった。
化け物に追い詰められ、何故、まだ自分自身が生きているのか。
いつからそうだったのか、気付くと既に雨は上がっていた。雲の隙間から夕陽が差し込み、化け物の影が伸びる。
その影は、獣を型どっていた。
背後は断崖絶壁であろうとも、思わずジリジリと後退する。
男の姿もまた、化け物とは比べるまでもないが酷い有様であった。ただ我武者羅に走り抜けたせいで、服は破れて申し訳程度に体に張り付いているのみだ。どこを切ったか、打ち付けたか、あらゆる箇所に血が滲んでいた。だが、興奮冷めやらぬ緊張を含んだ空気に、痛みも膜に覆われたように遠かった。
緊張の糸がピンと張り、束の間、双方身じろぐこともせず、ただ立ち尽くしていた。
化け物がこの集落へやって来て、人を食い殺した。先手は並べて化け物であり、遅れて男が行動する。後手も後手、只人である男に出来ることなぞ、高が知れている。
だからこそ、開き直って相手の出方を窺った。
突如として、化け物の口から鋭い爪と毛で覆われた手が現れた。 両の手は左右の口端を掴み力の限り引きちぎる。
「・・・・・・・・・っっ」
瞠目して言葉も出ず、理解する間もなく時のみが男を残して残酷に進んでいく。
友人の皮を放り捨て、化け物は真の姿を現した。
瞳孔が開ききり、血走った目がギョロギョロと忙しなく動きまわる。上半身は皺まみれの赤猿だというのに、下半身は獅子という2つの動物を奇妙に掛け合わせた姿。
人に化けていたとはいえ、あまりの巨体に男は口元が引き攣るのを感じていた。
視線は男と近いが、獅子の胴体は2mを優に超えている。
男の頭と同じくらいある前足で一振されれば、男の首は直ぐに跳ね飛ぶだろう。
ボサボサに好き勝手伸びた毛は赤茶色で、思わず男は懐に手を伸ばした。あの親子の死体付近に落ちていた毛に見間違うことはなく、胸中に殺意が再燃する。
いっそ殺されるならば、一矢報いてからと拳を振りかざしてーーーー・・・・・・
力なく腕を下ろした。
『あ゛ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ』
男の様を見て猿が笑う。身の毛もよだつような狂喜に満ちた笑い声が辺りに響く。
男は無言で地を蹴り、空へとその身を委ねた。
ハッとした猿の顔がその後に口惜しそうに言を紡ぐ。
『喰い゛た゛か゛った゛な゛ぁー・・・』
心胆寒からしめる言葉は、生きる道を選択した男の心を蝕み、闇へと落として行った。