おばあちゃんクロニクル
緑の園芸ポールを杖代わりにし もんぺ姿で歩く
ずいぶんサイズが小さくなった おばあちゃん
畑に向かい ビールケースに座って 草むしり
顔に刻まれたしわが深い
おばあちゃんの最近のぼやきは 自分は元気なのに
年金から三万七千五百円も介護保険料引かれること
近所のケガしたおばあちゃんの話を聞いても
「まだ七十三か わけえのに」なんてつぶやいてる
大正二年五月一日
仁堀村戸津野に生まれたおばあちゃんは
たて子と名付けられた
昭和十年 二十二歳 行幸村富岡の小山碩夫と結婚
翌年 記誉が生まれ 昭和十三年フミが生まれる
体調を崩し 家に戻ってきた公子おばさんに
フミが膝の上で抱っこされ 可愛がられているのを
記誉は記憶している 公子おばさんは風邪と診断
後に肺結核と分かったのは亡くなる直前だった
昭和十五年公子おばさん 没
同年十二月フミ 没 二歳
そして昭和十九年碩夫 没 三十八歳
残されたのは 沙恵三十一歳 記誉八歳
そしてひいじいさん保三とひいばあさん麻佐
たて子がいつから沙恵と名乗るようになったのか
なぜ改名したのか定かではない
不幸続きのためか 家に入る時からだったのか
昭和二十年三月十三日深夜から十四日の未明にかけ
大阪港区では二百七十四機のB29が焼夷弾を投下
港区の東半分は焼き尽くされ
三宅のふみおばさんと質おじさんが身を寄せてくる
昭和二十年九月 枕崎台風がもたらした豪雨により
八日市の土手が切れ 吉井川氾濫
死者九十二名 浸水家屋一万四千七百九十八棟
我が家の土塀も崩れ 床上一メートルまで浸水
子どもの頃に 下半分ぼろぼろの土壁の訳を聞いた
水が引くまでの幾日か 六人が二階の二間に暮らし
その間に 一階の畳は流れ
牛が流されていくのを見ながら
階段で用を足す日々であったそうな
昭和二十一年 睦おじさん一家六人が
満州から引き揚げてくる
やんちゃ盛りの子どもたち四人
さらに豊おじさん夫婦も加わり総勢十四人
三膳からのご飯を平らげる子どもたちのために
おばあちゃんの奮闘が続く
蔵の中 庭木まで売り払い 庭一面かぼちゃ畑
残ったのは梅の木一本だけ
戸津野から 弟が戦死したので戻れと言われたが
ひいばあちゃん麻佐の 「記誉がかかり子」の一言で
その道も閉ざされた
昭和二十六年 親族がそれぞれ大阪へと戻る
昭和二十七年 ひいじいちゃん保三没
昭和三十六年 ひいばあちゃん麻佐没
母一人娘一人の暮らしになる
縁あって昭和三十七年記誉 月緒と結婚
十二月淳志誕生 これで本当のおばあちゃん五十歳
生後すぐ仕事に復帰した母に代わっての子育て
昭和四十年尚史誕生
昭和四十四年宏司誕生
やがておばあちゃんは心臓を患い
長年の農作業で曲がった腰をコルセットで覆い
孫の成長に合わせ 次第に小さくなっていく
昭和六十三年五月一日 淳志 紀子と結婚
昭和二十年に浸かった家をリフォーム
この家はおじいちゃんが生前歯医者を営み
待合室の受付小窓に 青ペンキに塗られた技工室
風呂 キッチンは無くて ビフォーアフター
ここから家族がさらに増え
平成五年長女沙紀誕生 平成十三年瑞希誕生
一家は九人になり 犬二匹 猫四匹
GW 遅咲きの八重桜をライトアップして
一畳台テーブル代わりのバーベキューには
親子四代がそろう
曾孫たちが桜の枝を揺らし 桜吹雪に歓声
微笑むおばあちゃんの顔
髪はきれいにカットされている
我が家で一番足しげく美容院へと通うおばあちゃんは
このとき 九十一を迎えていた
それから十四年
足の血管が細くなったと聞かされ手術
大腿骨が折れ 金属を入れたと聞き
知らぬ間に脳梗塞を患い
レビー小体型認知症と分かり
デイサービスに通い詰めるようになり
ショートステイを経験し
誤嚥性肺炎で生死をさまよい
特別養護老人ホーム「せとの夢」を終の棲家に
誰が誰だか分らなくなっても
背中を掻いてとせがみ おいしいと甘いもの平らげ
青葉茂れる櫻井の里のわたりの夕まぐれ と歌い
「先生になったんか」「姫路へ遠足に行ったなあ」と語り
最後まで「戸津野へ帰ろう」と呼び続け
心臓が止まるまで 荒い息で生への執着を見せつけた
百五年のたて子の生涯であった
看取ったのは紀子
この春、祖母を亡くしました。
105年という生涯は長かったのだと改めて思わされます。
ストラヴィンスキーの「春の祭典」が初演された1913年5月。
祖母が生まれています。
11月にはガンジーが南アフリカで反差別運動中に逮捕されています。
同じく元15代将軍徳川慶喜公が亡くなっています。
同い年には新美南吉、ヴィヴィアン・リー、アルベール・カミュ、ベンジャミン・ブリテン
我が家の大正が終わりました。