「拒食症になりたい」世の中
幼い頃、「結衣ちゃんは痩せてるね」とよく言われた。私には姉が2人いて、よく比べられていた。姉は2人とも、都内で有名な私立中学校に行き、歴代で生徒会長を務めた。美人生徒会長という肩書きで、2人とも校内の冊子に載った。両親はそれを喜び、姉たちをよく褒めた。一方私は私立中学校に落ちた。荒れ果てた公立の中学校に通い、生徒会長に選ばれることもなかった。
「栄美ちゃんは可愛いね、麗ちゃんは美人だね、結衣ちゃんは痩せてるね」
幼い頃、他人から私たち三姉妹によく向けられた言葉だ。姉2人は端正な顔を褒められたが、私は一度もなかった。その代わり、痩せているということを褒められた。美しくなく、頭も悪い私の唯一の取り柄は、痩せていることだと思った。両親は私が美しくなくて頭も悪いことを責めなかったが、無言の圧力があるように感じたし、両親が責めなくても他人から比較され暗に責められていると思った。
新しいクラスになって身体測定をすると、必ず担任から呼ばれた。心配そうな顔で「食欲はあるの?」などと聞かれるのだが、それは優越感に浸れる時間だった。私の唯一の長所を褒められているようで。
高校も大して有名でない学校にしか行けず、姉たちには引け目を感じるばかりだった。中学校も荒れていたが、高校は酷いものだった。言うならば、成績の悪い生徒の掃き溜めだ。そしてその掃き溜めに集まった生徒たちは、成績が悪いという諦めと開き直りを持ち、ある意味自由に生きていた。授業は授業にならず、何処かであからさまないじめが起きていても先生が構うことはなかった。先生たちも、生徒に対して諦めと開き直りを持っていたのだ。それに加えて、恐怖心も。私はいじめのターゲットにならないよう、中学生の頃のようにひっそりと生活した。
「中谷ちゃ〜ん」
それは突然だった。ねっとりとした甘い女の声が、私を呼んだ。嫌な予感しかしなかった。振り向くと、学校を牛耳っているグループの三河寧々がいた。ケバケバしい化粧はその美しい顔を汚さず、むしろ引き立てていた。彼女は、自分の美しさを知っている。
「ちょっとさ、金貸してよ、困ってるんだ」
「え、えっと、でも、私…」
「でもじゃねぇよ、早く出せよ」
三河寧々とそれを取り巻く女たちが私の体を押さえつけた。私は体中を弄られ、財布を引き抜かれた。三河寧々はそれを手にすると、中身を確認した。
「たったこれだけなの〜?良いバイト紹介してやるからさ、お前もちゃんと稼げよ」
女たちの笑い声が聞こえる。三河寧々は、私の財布からお札を全部取った。その日から、私の地獄の日々が始まった。三河寧々の金魚の糞数匹が、放課後私を待っていた。無理矢理繁華街に連れていかれ、髪の毛が薄くなった男に会わされた。男は私をホテルに導き、私の体中を舐め回した。全ての動作が痛みを伴い、私は泣いた。事が終わって、男は2万円手渡した。
「お姉ちゃん、病的に痩せてて気持ち悪いよ、もうちょっと食べな」
男はそう言って部屋を出た。私がホテルを出ると、金魚の糞が待っていた。泣いている私を笑いながら、2万円を奪い取った。それから毎日、地獄は続いた。
知らない男と寝てお金を受け取り、受け渡す。そういった行為を繰り返すうち、私は今までにないような欲求を感じるようになった。食べたい、食べたい、食べたい。どの男も、私の体を見て気持ち悪いと言った。私の唯一の取り柄は、私の中だけのものだった。男からもらう金額を誤魔化すと酷い暴力に遭ったので、少ない小遣いを全て食費に回すことにした。お腹がぱんぱんになるまで食べると、満足感が全身を満たす。と、同時に、罪悪感を残すのだった。唯一の取り柄を否定された悲しみ。それでも、どんなに否定されても、私の中では取り柄のままだった。
―太るのが怖い。
罪悪感の方が勝って、私はトイレに行った。全てを吐き出せば良いと思った。手を突っ込んでもなかなか吐けなかったが、何回かやっているうちに簡単に吐けるようになった。胃液が出るまで吐き続けると、罪悪感が綺麗に消えた。
高校を卒業するまでに、ターゲットは他の子になったようだ。私は男と無理矢理寝らされることがなくなった。だけど、吐き癖はなくならなかったし、酷くなる一方だった。数ヶ月食欲がなくなることがあれば、数ヶ月無性に食べたくなることもあった。そういう時期は繰り返し来て、食欲がないことに安心し、吐いたことに安心した。
相変わらず姉たちと違ってパッとしない大学に進学した。大学は、高校と違って落ち着いた場所だった。荒れているというよりも、悪ふざけをする生徒がいるという印象だ。私は胸を撫で下ろしながら、ひっそりと生活した。
そんなとき、授業で後ろの席になった男の子が話しかけてきた。冴えない印象の男の子だったが、話すと優しい人柄が分かった。その授業のたびに話しかけてきて、彼は連絡先を聞いてきた。私は今までにない経験に違和感を覚えながらも、ちょっと嬉しかった。異性に好意を抱いているというのはこういった感覚なのか、と思った。彼は私のことが好きだと言った。私はその告白に頷いた。いろんな場所に2人きりで行くのは楽しかった。
「結衣って、したことある?」
「え?」
突然言われた日は驚いた。それが何を指しているのかを理解したとき、赤面した。何と答えるのが正解なのか分からなかったから、何も言わずに頷いた。「そっか」とだけ彼は言って、その日は彼の家に連れていかれた。前触れもなく覆い被さってきた彼の手つきは、高校生の頃経験した男たちとの手つきとは違った。痛いけれど痛くなくって、私は涙を流した。泣いている私を気遣いながら、私たちは繋がった。
そのうち彼と同棲するようになり、彼の両親にも挨拶した。私は実家に連れていくのが気まずくて、それを避けた。同棲し始めた頃、彼は私に太った方が良いよ、と言っていた。結衣は食欲が少ないみたいだけど、頑張って食べた方が良いと言った。私は彼の言葉を受け入れることができず、あまり食べずに過ごした。3カ月ほど経って、食べたい時期がやってきた。彼にバレたらまずいと思い、夜中にたくさんの食糧を詰め込んだ。そしてトイレに駆け込んだ。食べて吐く、を繰り返していたとき、不意に彼が言った。
「ねぇ、拒食症って知ってる?」
私はドキッとした。私は拒食症じゃない。
「たぶん結衣、拒食症だよ、食べなかったり食べて吐いたりを繰り返して、病院に行った方が良いよ、結衣、心配になるくらい痩せすぎてるよ」
私は俯いた。彼も、あの男たちと同じように私の唯一の長所を否定するのか。彼も、あの男たちと同じように私の体を気持ち悪いと言うのか。悲しさと同時に、よく分からない感情が込み上げてきた。
その日の夜、彼が寝息を立てる隣でスマホを見ていた。「拒食症」と打つと、トップに「心の病を抱えるあなたへ」というサイトが出た。クリックすると、拒食症の定義がそこにあった。BMIを基準にしていること、肥満恐怖があること、体型への認識が一般的ではないこと。BMIが13の私は、最重度の拒食症だと書かれていた。「拒食症」と「過食嘔吐」を繰り返すのもあり得る話だと書かれていた。私は立ち上がって、風呂場へ向かった。1枚ずつ服を脱ぎ、鏡の前に立つ。いつもの私が写っているはずなのに、何故か病的に見えた。私はきっと痩せすぎているんだ、太った方が良いんだ、病気なんだ、と思った。急いでスマホを取りにいき、裸のまま検索する。「拒食症 治し方」と打とうとして、「拒食症 な」と打ったときに検索候補が出た。その候補に目を疑った。「拒食症 なりたい」。
私は幼い頃を思い返した。痩せていることしか褒められなかったこと。姉たちと比べられてきたこと。痩せていることは私の唯一の長所だと思ってきたこと。きっと、それが認識を歪めたんだ。私は両親を、姉たちを、姉たちと比べた人たちを恨んだ。私はきっと痩せすぎているんだ、太った方が良いんだ、病気なんだ。私は苦しんできた。いつも痩せたいと思ってきた。食欲がないことは良いことだったし、食べたいという欲求は悪だった。でも、食べたものを全て吐き出すのは正義だった。それが、それが、それが。正しくなかったんだ。歪んだ認識だったんだ。両親のせいで。姉たちのせいで。比べた人たちのせいで。人並みに食欲が欲しかった。吐かないでもいられる毎日が欲しかった。正常な認識が欲しかった。痩せていない自分への、肯定感が欲しかった。私は病気なんだ。苦しかった。ずっと、ずっと。
私はずっと苦しい思いをしてきたのに、なぜ拒食症になりたいと言う人間が存在するのだろう。なぜ病気になりたいと願うのだろう。私には理解できない。適切な認識のままでいたら良いじゃないか。適切な体重を保てば良いじゃないか。たぶん、世の中が狂っているのだと思った。
私は服を着て、彼を起こした。
「ねぇ、私が太っても好きなままでいてくれる?太った方が良いと思う?」
彼は目を擦りながら優しく言った。
「もちろんだよ、結衣はもうちょっと、太った方が良い、その方が俺は好きだな」
そう言ってキスをして、彼はまた目を閉じた。
私は冷蔵庫に向かった。中に入っている食糧を漁り、全てを口にした。冷蔵庫の外にある菓子も漁った。手当たり次第口にした後で、私は床に座った。私は痩せすぎているし、太った方が良いし、病気を治さなければならない。彼だって、太った私が好きだと言った。そう考えていると、不意によぎった。
―太るのが怖い。
途端に罪悪感に襲われ、私はトイレに向かった。胃液が出るまで何度も何度も吐き、醜い顔は涙と鼻水と涎でもっと醜くなった。胃液が出始めると、次は違った罪悪感が芽生え始めた。病気を治さなければいけないのに、太らなきゃいけないのに、と。
私は手と顔を洗うためにトイレを出た。そこには彼が立っていた。見上げると、彼は泣いていた。私はもっと泣いて、その場に崩れ落ちた。
「明日病院に行こう、俺着いてくから」
彼の声が遠くからした。私は泣き声を上げて、いろいろな罪悪感を思った。