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6 薔薇の繁み

 庭園入り口の桜の開花も終わり、爽やかな風が新緑の芽吹く若木を揺らす頃。

 二人は薔薇の蕾がつき始めたフェローガーデンをのんびりと散歩しながら、音楽棟へ向かっていた。


「きみにはメンデルスゾーンは難しすぎるよ」

 ヘンリーは申し訳なさそうにちょっと眉をあげ、微笑んで真実を告げた。フランクはその率直で失礼な言い様を大して気にもとめず笑い飛ばし、きらきらと瞳を輝かして傍らの長身の後輩をふり仰ぐ。

「僕にしてみればさ、きらきら星も、メンデルスゾーンも難易度はそう変わらないと思うんだよ!」

「きみは時々、怖ろしく無謀なことをさらりと言ってのけるんだね」

 ヘンリーはクスクスと笑いながら肩をすくめた。

「第一楽章だけでも、無理かなぁ?」

「もともと協奏曲だし、練習するにしてもね――。でも、どうしてこの曲がそんなに弾きたいの?」

 不思議そうに自分を見つめ返した、光を透かして鮮やかに浮かびあがる神秘的な青紫の瞳に、フランクは照れたような、そのくせどこか誇らしげな笑みを浮かべて応えた。


「弟がね、この曲が好きだっていうんだ」

「弟さん?」

「うん、今、七つなんだけれどね、あ、きみの弟と同い年だよ!」

「妹だよ。四月に八つになったのは」

 怪訝な顔をするフランクに、ヘンリーはふっと瞼を伏せて下を向く。

「それでね、弟の好きなその曲を弾いて驚かせてやりたいんだよ!」

 フランクは一瞬途切れた会話を繋ぎ合わせるように、明るく喋り始めた。この年齢の離れた弟が、いかに可愛くて、賢くて、優しくて、自分のことをとても慕ってくれているか、ということを。留まることのない弟自慢に、ヘンリーも笑みを絶やさず付き合った。時折、羨ましそうな顔をしながら。


「そういうことなら、教えてあげるよ。きみが大学へ行く頃には、頑張り次第で弾けるようになるよ、きっと」

「ありがとう!」


 大学――。随分と気が長い話だと思いながらも、フランクは嬉しそうにお礼を言う。



「あれ、」

 ヘンリーがふと足を止め、鮮やかな新葉に覆われた薔薇の繁みを指差した。その先には見慣れた制服の脚が横たわっている。少し離れた場所に、黒い革靴が片方、転がっていた。


「眠っているのかな」

 呟いたヘンリーを押し退けるようにして、フランクはその脚の主に駆けよった。

「トニー……」

 意識の混濁している様子のトニーの頬をピシャピシャと叩きながら、何度も繰り返してその名を呼ぶ。

「ヘンリー、先生を――、いやダメだ、先輩を、ラザフォード先輩を呼んできて! 早く! 先輩は音楽棟にいるから! 僕が、倒れたからって!」

「きみが?」

 眉を寄せて訊き返し、歩み寄ろうとしたヘンリーに、

「来ちゃダメだ!」

 フランクは背後のトニーを隠すように両手を広げる。

「先生にも先輩にも、僕の様子がおかしいからって言うんだよ!」

 フランクはもう一度念を押す。ヘンリーはわけのわからないままふくれっ面をして、それでも頷いて駆けだしていく。



 彼がアーネストと一緒に戻ってきた時には、フランクは繁みに隠れるように置かれているベンチにトニーを寝かせ、その足元の地面に膝をついて彼の手を握り、懸命に話しかけているようだった。


「フランク」

 呼びかけたアーネストの声に、びくりとフランクの肩が跳ねる。

「ラザフォード先輩……」


 いつもにこやかに笑っているフランクの、悔しそうに涙を溜めて唇を噛みしめしている姿に、ヘンリーは驚いて目を瞠った。


「きみは先に戻っていて」

 フランクは、すぐにアーネストからヘンリーに視線を移して、静かな口調で言った。

「早く。それから僕の指導チューターに、フランクは体調が悪くて欠席しますって伝えてもらえる?」

 怪訝そうに顔を傾げ一歩踏みだしたヘンリーに、フランクは射るような厳しい視線を向ける。

「きみはこっちに来ちゃダメだ!」

「ヘンリー」

 アーネストは優しくヘンリーの髪を撫でて、そっとその頭を抱きしめ耳元で囁いた。

「さぁ、言われた通りにして。このことは誰にも言っちゃダメだよ」

 顔を上げたヘンリ―の肩をぽんと叩いて、有無を言わせぬ視線で促している。ヘンリーは憮然とした表情を見せたけれど、黙って頷いて駆けだしていった。



 遠ざかっていくその背中をほっとしたように見送ると、フランクは緊張の糸が切れた様子でボロボロと泣きだしていた。アーネストはその肩をそっと支えるように抱いてやる。


「この臭い……」

 横たわるトニーのもつれた金髪をおもむろにかき上げて顔を寄せたアーネストは、鼻を衝く草臭い独特の香りに眉をひそめる。

「言わないであげて下さい」

 フランクが涙でぐしゃぐしゃの顔を乱暴に制服の袖で拭きながら呟いた。

「もうごまかしきれないよ。放校うんぬん以前に彼の身体がボロボロになってしまう」

 アーネストは心配そうに顔をしかめ、トニーの死人のように冷たく青白い頬にそっと触れる。

「どれくらい摂取させられたんだろうね? 意識はまったくないの?」

「言わないでって」

 フランクは絞りだすような声で繰り返す。

「お父さまが、がっかりされるから、言わないでくれって」

「命の方が大事だろう!」

 吐き捨てるようにアーネストは呟いた。

「マーレイの奴、絶対に許さないよ。僕の寮の子を食い物にして、こんな惨い目に遭わせるなんて……」

 白い拳をぎゅっと握りしめ、奥歯を噛みしめて(くう)を睨みつけていたアーネストは、意識を切り替えるように深く息をついた。


「とにかく病院へ運ぼう。フランク、心配は無用だよ。学校にはバレないように僕の身内に頼むから。庭師のベドウィックさんを呼んできて。彼をここから運びださないとね」

 頷いたフランクは、長いローブの裾で丁寧に顔全体を拭き、ついでに鼻をかんだ。

「フランク!」

 思わず噴きだしたアーネストは、ポケットからハンカチを取りだしフランクに差しだした。

「ほら」

「先輩のハンカチなんて、もったいなさすぎて使えませんよ!」

「いいよ、それ、あげるから」

 アーネストはクスクスと笑いながら、その手にハンカチを握らせる。

「チーズを包むのとは別に、もう一枚くらいあってもいいだろ? さぁ、行って」


 アーネストの毅然とした視線にしっかりと頷き返し、フランクもまた、小さな蕾を揺らす茂みの向こうに駆けだしていった。





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