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1 出会い

 突然降り出した雨が、強く石畳を叩いた。

 立ち止まり、憎々しげに圧しかかる空を見やると、ヘンリーはちっと舌打ちしてまたカッカッと歩き始める。

 つい先程まで威勢よく響いていた靴音は雨に負け、雨水に交じり、ビチャビチャと情けない音を立てている。額に張りつく細い金の髪の先から、雫は大きな粒となって伏せた顔を伝い落ちる。雨脚は激しく、容赦ない。振りだしたばかりだというのに、彼はもうびっしょりと濡れそぼっていた。


「きみ!」

 背後からかけられた声に振り向きもせず、ヘンリーはスタスタと歩き続ける。

「きみ、一学年生だろ?」

 声の主は先回りして彼の手前に来ると、乗っていた自転車から下りて明るい口調で話しかけてきた。

「そんなに濡れて。雨宿りしていけよ。コーヒーを御馳走するよ」

 顔を上げた彼を見て、相手は驚いたように目を瞠った。その反応にヘンリーは怪訝そうに眉を寄せ、睨めつけ返す。彼と同じ制服を着たその少年は、睨まれて逆にほっとしたように微笑する。


「なんだ雨か。きみ、泣いているのかと思った」


 冗談じゃない!


 ヘンリーはそっぽを向くとさらに歩調を速め、視界を遮る雨粒を振り払うように、けぶる金髪をしなやかな指先で掻きあげる。


「ああ、ここだよ!」

 少年はいきなり片手でヘンリーの黒いローブの端をわし掴み、片手で自転車をすぐ横の建物の石塀にもたせかけると、有無をいわせぬ勢いで彼を掴むと緑色のドアの向こうへと放り込んでいた。


 カラ、カラーン、と勢いよくドアベルが鳴り響く。


「ジャック! ひどくやられちゃったよ!」

 明るい声で少年が叫ぶ。と、皺がれた野太い声がカウンターの奥から返ってきた。

「おう、坊主! 濡れネズミじゃないか!」


 声の主は重たそうな腹を揺すりながらカウンターを出て一度奥へ引っ込むと、手したタオルを少年に投げてよこした。

 すぐさま一枚はヘンリーの頭にばさりと被せられ、もう一枚で自分の烏の羽のように黒々とした髪を拭く。その間も、「コーヒーを淹れていい? 芯まで冷えちゃったよ」と、彼はテキパキと水滴の滴るローブと湿ったテールコートを脱ぎ、壁に打ち付けられた釘に引っかけている。

「ほら、きみも」

 ヘンリーは諦めたように息をついて、伸ばされた手に自分のローブを渡した。少年は手早くそれを壁にかけてくるりと振り向くと、晴れ渡る真夏の空のような青い目を輝かせて、右手を差しだした。


「僕はフランク・キングスリー。二学年生。よろしく」

 その手を握り返すこともなく、ヘンリーはしかめっ面で立ち尽くしている。

「――僕は、」

「うちの学校できみのことを知らない奴なんてモグリだよ、ハリー!」


 彼の無礼を気にする風もなく、フランクはもうするりとカウンターに入って勝手に湯を沸かし始めている。


「座って」

 訝しげに突っ立ったままのヘンリーに、彼はカウンターテーブルを軽くコンコンと叩いて促した。

「僕のコーヒーは美味しいよ。米国の友人に教わったんだ。彼、もう国に帰っちゃったんだけれどね。こっちに留学してくる時にさ、英国じゃ紅茶しか飲めないと思ってわざわざコーヒーの淹れ方の講習を受けてさ、スーツケースに着替えの代わりにコーヒー豆を詰めてやってきたんだ。空港(ヒースロー)に降り立ってびっくりだよ! なんたって、本国と同じコーヒーチェーンが目の前にあったんだからね! でも今日は彼に教わったのじゃなくて、別のにするよ、身体が温まるやつにね」

「僕はコーヒーは飲まないよ」


 不機嫌な顔のまま呟いたヘンリーの前に、コトリと、生クリームのたっぷりとのったカップが置かれる。

 相手の露骨な拒絶なんて一向に気に掛けることもなく、フランクは声高に喋りながら流し台に溜まっている洗い物を始めている。時々自分のカップに口をつけて咽喉を湿らせ、留まることなく喋べり続けている。


「ジャック、彼、可愛いだろ? うちの学校一番の美人さんだよ! でもねぇ、あんまりに可愛いいからさ、嫌がらせも目に余るほど!」

 本人を前にして噂話を始めるフランクに対して、さすがのヘンリーも怒りも露わにして青紫の瞳で睨めつける。

「本当に綺麗だよね、きみのその瞳! 朝焼けの空の色だね! 髪の毛は陽の光を束ねたみたいだし。太陽神アポロンを血迷わせたヒュアキントスもかくやって美貌だよね! まぁ、血迷っているのはアデル・マーレイだけどさ!」


 それを、あまりにもあっけらかんとケラケラ笑われ、ヘンリーは気がそがれてしまった。所在ないので、カップを持ちあげ口に運ぶ。


「でも彼はね、こう見えて合気道の達人なんだよ! なみいる敵を千切っては投げ、千切っては、」

「これ、コーヒーっていうよりもカクテルだろ? きみ、ここで何をしているの?」


 一口でヘンリーは顔をしかめていた。あまりにも馬鹿馬鹿しいではないか。立て板に水のごとく止まらないフランクの喋りを遮って、見ればわかる質問を彼はついに投げかけた。


「アルバイトだよ」

 予想通りの答えに、当然のごとくヘンリーは眉を潜めるてみせた。

「アルバイトは規則違反だ」


 自転車に乗るのも、下級生だけでパブに入るのも、ウイスキー入りのコーヒーを飲ませるのも――。


「うん。だから内緒だよ」

 フランクはにっこり笑って片目を瞑る。

「内緒って――。そんなのすぐにバレるだろ」

「こんな裏道の小汚いパブに、うちの学校の奴なんてこないよ。お客さんにはさ、ジャックのロンドンの孫が遊びにきてるって言ってるんだ。ほら、こんな感じでさ」


 フランクは可笑しそうに笑いながら、上品でポッシュなエリオット発音を、途中からロンドン下町訛り(コックニー)に切り替える。


「おい、俺の孫は女だぞ!」


 この店の主人、ジャックがげらげらと腹を揺すって笑いながら茶々を入れた。





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