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フォンテーネ

作者: 武田章利

町の通りはいつも薔薇の香りがしていた

それもピンク色の薔薇の香りがーー

海岸線から昇ってくる大きな太陽に照らされて

彼女のドレスは透けるように眩しく そして

その笑みはいつも喧騒の前触れのなかに消えていった

今日はいくつ売れるだろうか と 彼女は

カゴのなかのパンを整えながら歩く


僕はいつも クロワッサンとコッペパンをひとつずつ

彼女の手には硬貨をふたつ握らせて

お釣り分はその笑顔で と言って立ち去る

人混みのなかで小舟のように揺られながら

僕と彼女の距離はすぐに離れていく

たまにはゆっくり話がしたいと思っても

互いに何を喋ればいいだろう

将来の夢や好きな劇団の話をして

僕は元気をもらえるだろうか 


フォンテーネには娼婦の友達がいる

彼女は大きな夢を持っていて そのためには

パン売りの稼ぎでは少なすぎるという

夜の間中起きていて

昼間はいつもぼろぼろの体で歩いている

髪も肌も艶を失い

それでも決して大きな儲けではない

この町の城主は

女の一般的な稼ぎは月に二十五万くらいだと言う

彼女は丘の上の城に向かって唾を吐きかけ

「ゲームするなら城にこもってやれ」と叫ぶ

裏路地の闇医者によると

彼女はすでに 二回の堕胎をしているらしい


フォンテーネは実直だ

城主が娯楽にふけって

そのせいで自分たちの生活が苦しくなっても

笑顔でパンを売り続けている

一度 どこか行きたいところはないのかと聞くと

少し口ごもったあと 恥ずかしそうに「ローマ」と言った

「ローマのマリア様を見てみたい」と

ピンク色の太陽にも負けないくらいのきらきらとした目で言った

「もし空を飛べたらな」と

フォンテーネは静かにつぶやく

「それなら泥棒だってし放題だ」と言うと

彼女は寂しそうに瞼を落として

「泥棒をした友達は腕を切られて飢え死にしたわ」と言った


ある日冷たい雨が降り

フォンテーネは水浸しのパンとともに地面に倒れた

風邪と過労と医者は言ったが

薬を買うお金など 持っていなかった

ぼろぼろの狭い小屋で 雨漏りする屋根をうつろに眺め

ゆっくりと 彼女の時間が過ぎていく

何かがずっと囁き

痺れる手足に触れているかのようだった……

雨が上がると 

娼婦の友人がやってきて 薬を置いていった

フォンテーネは「もらえない」と言ったが

「早く治しな」とだけ言って 友人は出て行った

痩せこけた 灰色の背中だった


だが薬を飲んでも

体はいっこうに良くならない

友人は医者を呼び 再びフォンテーネは診てもらい

同じ薬をまたもらった

お金は全て 友人が払った

そうして日が過ぎ 医者は何度か彼女を訪ね

友人も看病を続けたが

フォンテーネは悪くなるばかり そしてある日

「もう薬はいらないわ」と言った

「死ぬ気かい」と友人が声を荒げると

フォンテーネは大きな喪失を見つめるように目を伏せて

「最初から 薬が駄目だったのね

 そんな無駄で あなたまで破滅させてしまった」

「あんたのせいじゃないよ この町には最初から

 夢なんてなかったんだ どこにも……そう どこにも

 あの 何も分かっちゃいない城主だけが

 ひとりで夢を見ている気になってんだ」

フォンテーネは泣いた

声を出さずに ただ涙だけ落として

ひっそりと泣いた

右手でシーツをぐっと握り

左手は自分の服の胸あたりを握ってーー

その時 ぱきん と 家の外で乾いた木の音がした

振り向くと 壁の隙間からまっすぐに光が差し込んでいて

土で汚れた床を柔らかく暖めている

フォンテーネも友人も 何も言わなかった

もう 言うべきことは 何もなかった


数日後 フォンテーネは歩くこともままならず

目はかすんで視界がぼやけ 指は何も持つことができなかったが

震える唇をゆっくり動かして

「朝焼けが見たい」と 友人に言った

「ああ 見に行こう

 二人で 見に行こう」

夜明け前に 犬も眠る静かな路地を

ふたつの痩せた体が寄り添いながら よろめきながら

ゆっくり……ゆっくりと 歩いていく

やっと町の高台に到着した時

二人を待っていたかのように海岸線から太陽が現れ

町を造る石の並びや 丘の上の城 それから

全ての空気と二人の過去が

ピンク色に照らされ ほのかに薔薇の香りを立てた


何かが 聴こえた フォンテーネの胸に何かが鳴り

その瞬間 彼女は友人から離れて直立した

両手を太陽に向けて伸ばし

震える顔の筋肉を必死に抑えながら笑顔を作って 言った

「あったのね ちゃんとこの町にも 夢があったのね

 ありがとう 本当に ありがとう……」

フォンテーネは泣いた 声を出して泣いた しかし

友人にはその声が 笑い声のように聞こえた

「きっと きっと 私の涙は止まらないわ

 いつまでもきっと 止まることはないわ」

フォンテーネは振り向き 友人に笑いかけると

太陽の光のなかへ溶けるように消えていった

友人は手を伸ばしたが宙を切り よろめいて倒れこむ

目を開けて振り返ると

高台の真ん中に大きな噴水が立っていた

透き通った水が次々と流れ出し

弾ける雫が光を反射して 琥珀色に輝いている

友人はほとんど聞こえないくらいの声で

フォンテーネの名前を呼んだ

もう一度 フォンテーネと言った

続けて何度も フォンテーネと唱えた

そして「私のなかのフォンテーネ」と言って

彼女は立ち上がる

世界が眩しかった 全てのものがきらきらと輝いていたが

彼女にはそれら全てを はっきりと見ることができた

今 全てのものに

彼女は触れていた

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