【3】
襖を開けると十二畳の和室。
十人くらいは座れそうな大きな座卓の上座に、祖父・辰之助は座っていた。
剣術道場の師範ということもあり和服姿である。
家宝だと云う日本刀と木刀が鎮座する床の間を背にして、難しい顔をして座っている辰之助は、そうして見ると立派な武道家にしか見えない。
とても孫娘に裸エプロンを要求するようには見えないのだが……。
そして先ほど過激に公太郎を起こしに来た真澄も、座卓の脇にちょこんと正座している。
「あ、公太郎、やっほ~、こっち、こっち」
公太郎が居間に入って来たのを見て、手を振る。
「いや、真澄、いくらでかい家と云っても、そんなことしなくてもちゃんとわかるから」
「でも私、小さい頃、よくこの家で道に迷っちゃったからさ」
確かに小さい頃の真澄が家の中で迷っているのは公太郎の記憶にもあった。
生まれた時からこの家に住んでいる公太郎にとってはそうでもないにしても、普通の子供ならば道に迷っても仕方ないのかも知れない。
月雲の屋敷はそれほどの豪邸であった。
祖父の辰之助が剣術道場を営んでいる関係で月雲家の屋敷は、千坪近い敷地に道場と母屋、離れ、さらに広々とした坪庭に馬小屋と云う立派な佇まいの、神坐町のこの地区では知らない人もいない大きな屋敷であった。元々が旧家なのである。
それもこれも『獣憑き』の筋だからだよ、と公太郎がまだ幼かった頃に祖父の辰之助が云っていたことを思い出す。
ご先祖様はその『獣憑き』の力で領主様のお役に立ち、広い屋敷を拝領したのだから、と。
(『獣憑き』ねえ……。ついぞ現実世界で役に立つことなんてなさそうだけどもな)
そう思いながら、ちらりと部屋の隅に目をやる。
そこにある窓から、いつものように辰之助の『憑き物』である馬の赤蔵が部屋に首を突っ込んで、そこに置いてある飼い葉桶から朝食をむさぼっていた。
そもそも公太郎は『獣憑き』が何なのかを正確に知っている訳ではない。
ただ月雲家の直系の者には十歳前後になると、自然と何かの動物が憑くのである。
その動物はどこからともなくやって来ていつの間にかそこにいると云うものであって、誰かがどこかから連れて来た訳でもない。
あくまでも突然、そこに現れ、そしてまるで昔からそこにいたかのように生活に溶け込むのだった。
それはそれでどこか妖かしめいた存在であったが、かと云って特に不可思議な力を使うこともない。
ただ『憑き物』と云われる動物たち自体が人間のような意志を持っていること、また公太郎とコジローのように『憑き主』と呼ばれる人間たちと『憑き物』たちがお互い会話を交わすことが出来ること、以外には――。
だから月雲家は、表向き三人家族ではあるが、それぞれに憑いている『憑き物』たちも入れれば六人家族のようなものであった。
(もっとも、それほど和やかな家庭とは云えないけども)
公太郎は赤蔵に目をやった。そしてポケットのコジローに――。
(馬と蛇とハムスターだもんな。和やかな家庭にはならないだろう。ってか、接点はないよなぁ)
それでもその『獣憑き』と云う特異な家系のおかげでこの広い家に住めるようになったご先祖様なのだから、それはそれで昔は役に立ったのだろうし、かつてはその力でこの土地一帯の平穏を守っていた、と、家系誌に記されているのも事実ではあった。
しかし、現代ではさすがにそれが重宝されるとは思えないし、むしろ気味悪がられるだろうと云うことで、少なくとも家族以外にこの話をするのは月雲家では禁忌であった。
「おはよう、じいちゃん、赤蔵」
公太郎は上座に座っている辰之助に声をかけた。
「公太郎か。おはよう。どうじゃ、高校生活は?」
「特に中学の時と変わらないよ。同級生もみんな一緒だしね」
田舎町に唯一の高校である。中学の同級生は真澄も含めてほとんど、同じ神坐高校に進学していた。
「あ、そう云えば誕生日おめでとう」
「うむ。おまえも憶えておったのか? じゃ、どうして裸エプロンじゃないんじゃな?」
「……ぼくもかよ?」
「私も云われちゃったんだよ。先に云ってくれれば用意して来たのにね」と、真澄。
(え? 真澄も? ってか、用意して来た、っておまえ……)
「じゃが、まあ、おまえたちはまだ未成年だし仕方ないかのう?」
「うん、そうだね、おじいちゃん。成人したら私もがんばるね」
何故かガッツポーズの真澄。
「おお、そうか。じゃ、長生きせんとな」
辰之助は答えると、かっかっか、と笑う。
(いや、未成年とか関係ないだろ! ってか、人様の娘に何てことを云ってるんだ、このじじい)
「ともかく、まあ、座れ、公太郎。……それでおまえは由布子のアレを見たか? しかし、まあ、いい女に育ったもんじゃ。おまえたちの両親にも見せたかった」
そう云って涙ぐむ。
(見たら、卒倒するわ! ぼくは別の意味で泣きそうだよ)
そこへ由布子が襖を開けて朝食を運んで来る。
「あ、お手伝いします」
真澄が立ち上がりかけると、由布子が首を振った。
「大丈夫よ、真澄ちゃん。これは私の見せ場、いえ、仕事だから」
「はあ? 見せ場?」
少し首を傾げながら真澄は座り直した。
由布子が、うん、と頷き、徐に座卓に食事を並べ始めた。
茶碗や皿を座卓に並べようとすると、由布子は自然と前屈みになる。
それも、故意なのか偶然なのか、やり過ぎなくらいに前屈みになる。
必然的に、エプロンの隙間からいろいろと見えそうになるやら、こぼれそうになるやら。
慌てて公太郎は目を逸らした。
(見せ場って、これかよ?)
逸らした視線の先では辰之助が涎を垂らさんばかりの至福の表情で、そんな由布子を眺めている。
このエロじじい。
「あら、じいちゃん、どうしたの? 私のエプロンに何かついてる?」
不思議そうな顔で辰之助を見る由布子。
(いや、気づいているだろ? わざとやってるだろ、由布子!)
「うむ、うむ。いやのう、おまえがいい女に育って良かったと思ってな。おまえたちの両親にそんなおまえの姿を見せられなかったと思ったら、涙が出てきて」
わざとらしく、鼻をすする。
(涎は拭かなくて良いのか?)
「まあ、おじいちゃんったら。私まで悲しくなってきちゃうじゃない」
由布子も悲しげな顔を見せる。
こちらも、わざとらしく、鼻をすすって見せる。
(下着エプロン姿で云われてもな……)
「なんか、湿っぽくなっちゃたわね。さあ、ご飯、ご飯」
(ちっとも、湿っぽくなんかなんないよ!)
「何だか、あったかい家庭だよね、公太郎の家は」
真澄までもらい泣きしている。
「いや、おまえも少しおかしいぞ。この状況は、あったかい家庭、とか云うのと違うぞ、真澄」
「え? どうして?」
「そうよ、せっかくの家族愛のシーンに水を差さないでよ、公太郎」
由布子が被せて来る。
どうやら、この家ではこれが常識と思わなければならないらしい。真澄も昔から我が家に馴染んでいたから、同じ感性を持ってしまったようだが将来が思いやられる。
(ぼくだけは、絶対に染まらないぞ)
公太郎は、密かに決心した。
「それじゃ、いただきましょう」
「いただきま~す」
全員が声を揃える。そこだけは、家族シーンらしかった。