【2】
「おはよう」
パジャマから制服に着替えた公太郎が台所の引き戸を開けると、朝餉の良い香りが鼻腔をくすぐった。条件反射的に腹の虫が鳴る。
だが、台所に一歩足を踏み入れた途端、公太郎は凍りついた。
「な、な……」
「おっ? 起きてきたか、チビすけ」
姉、由布子が味噌汁の味見をしていた。
「お、おい、ゆ、由布子!」
「お姉様、とお呼び!」
公太郎、その言葉をスルー。いや、スルーせざるを得なかった。
公太郎と十歳違い、つまり二十六歳の姉、月雲由布子。
美人である。腰まで届きそうなさらさらのロングヘア。前髪の一房だけを銀髪に染めているのが、少々、アバンギャルドな雰囲気ではある。
すらりとした長身と、細いけれどもメリハリの効いた抜群のプロポーションを誇る由布子は、今をときめく売れっ子モデルを職業にしているのだった。
そんな彼女が、あろうことか黒いレースの下着一枚にエプロン、というあり得ない恰好で台所に立って朝食の支度をしていたのである。
「どうした、チビすけ?」
怪訝そうに首を傾げる。それから思い当たったように頷いた。
「ああ、この恰好か? 似合う? さすがにこの季節だと少し寒いけど……」
公太郎の方へ向き直りポーズを決める。
決してそんな目的で作られた訳ではないエプロンは、かろうじて由布子の身体を隠してはいたが、それはあまりにも危なっかしい、と云わざるを得ない。
しかし、彼女はそんなことはまったく気にする様子もなかった。
「どうよ? 姉を見直した?」
別のモデルポーズ。
その首元をマフラーのように飾っているのは、由布子の『憑き物』である白蛇の「乙姫」。公太郎にハムスターのコジローが憑いているように、由布子にはこの白蛇が憑いているのである。
白蛇・乙姫はまるで由布子のポーズに合わせるかのように、身をくねらせて紅い舌をちろちろと出している。
「な、なんて恰好してるんだよ?」
公太郎は頬を紅潮させて、目を逸らす。
「あれ? どうしたんだよ、赤くなって。かわゆす~♪ さては生意気にも、美し過ぎる姉に欲情したか、青少年」
「あほ! 青少年だとわかってるんなら、んな恰好するな! ましてや朝から台所でって、どんだけ露出狂だよ!」
「え~? これでも青少年に気はつかってるじゃん。ほら、パンツはいてるし。本当は裸エプロンにしようかと思ってたんだからね」
思ってたんだからね、じゃないだろう、と公太郎は内心でツッコミを入れる。
「そういうのは、気をつかってるって云わないだろ? ってか、何でそんな恰好してるんだよ? マジに病気か? それとも仕事で何かあったのか?」
「別に何もないわよ。……さては、あんた、今日が何の日か忘れてるな?」
(何の日? 何かあったっけ?)
公太郎、腕を組んで考え込む。
その様子に由布子は、やれやれ、と云うように首を振る。それに合わせて乙姫も鎌首を左右に振って見せる。
「この親不孝者。今日は、じいちゃんの誕生日でしょ?」
「いや、じいちゃんは、親、じゃないし。……じいちゃんの誕生日? ああ、そういえば今日で八十歳だっけか」
「そうよ。思い出した?」
「思い出した。……けど、その恰好との関連がわからない」
「それがね、実はじいちゃんに誕生日のプレゼントは何がいいか聞いたらさ、私の裸エプロンが見たいって云うんで、まあそれで済むなら安上がりだな、と思って。ただ、あんたもいるから、さすがに裸はまずいと思ってパンツエプロン」
両手を腰に当てて、ドヤ顔。
(そこで、ドヤ顔かよ?)
自分は何でこんな馬鹿な家族を持ったんだろう。実の孫娘に対して、誕生日プレゼントに裸エプロンを要求するじじいと素直にそれに答える孫娘。それが自分の身内だと思うと、情けない、と公太郎は暗い気持ちになる。
しかしそんな公太郎の思いなどにはまったく気づくこともなく、由布子が喜々として続ける。
「――ってことで、あんたもじいちゃんに朝の挨拶と誕生日のお祝いを云ってきなさい、チビすけ公太郎」
「チビすけって云うな!」
(何で朝からこんなに疲れなきゃならないんだろう)
うなだれた様子で居間への襖を開ける。
『同情するぜ、相棒』
胸ポケットでコジローが小声で囁いた。