【1】
鳥のさえずる声が聞こえていた。
カーテンの隙間からは、春の優しい光が射し込み、朝が来たことを教えてくれている。
時計の針は六時前――。
高校生になったばかりの月雲公太郎にとっては、しかし、今はまだまだ睡眠の時間である。
あと一時間は眠りの中。
そのはずだったが――。
『起きろ、公太郎! おい、公太郎!』
声が聞こえた。切羽詰ったような緊張感のある声。
だが、公太郎は布団にくるまったまま、微動だにしない。
『起きろってば、こら!』
(あ……ん? 何だ?)
「うるさいよ、コジロー」
煩わしそうに云い、寝返りを打とうとする。
だが、何故か体が動かない。
(な? 金縛り?)
体がまるで上から何かに押さえつけられているように、動かすことが出来なかった。
「や、ヤバイ、金縛りだ、コジロー!」
思わず叫び声を上げる。
その声に答えたのは――。
「コジローじゃないよ」
(え? この声?)
聞き憶えのある声。
はっ、として、目を開ける。
至近距離で顔があった。
整った可愛らしい目鼻立ちの少女の顔。
「ま、真澄?」
公太郎は間の抜けた声を出した。
吉祥寺真澄。
公太郎の幼馴染。
近所の和菓子屋「金柑堂」のひとり娘。
長いさらさらの髪が眩しい清純派の美少女である。
その清純派であるはずの真澄が、あろうことかベッドに寝ていた公太郎に馬乗りになって、にっこりと微笑していたのだ。
いい香りが漂ってくるのは、最近、凝っていると話していたプチ高級品のシャンプーのせいだろうか。
「お、お、おまえ、何を……?」
公太郎は、ごくり、と唾を飲み込んだ。
「おはよう、公太郎」
しかし、彼女はあっけらかん、としたものだった。
その笑顔も普段、学校で見る笑顔と何も変わらない。
制服姿であった。
どうやら登校前に公太郎の家に寄ったと云うことだろうけれど、何故、馬乗りなのかがわからない。
「そろそろ起きた方がいいよ」
真澄の顔と公太郎の顔の距離、わずか十センチ。
さすがに公太郎は顔を赤くして、目を逸らした。
「バ、バカ、何でおまえがぼくの上に、う、馬乗りになってるんだ?」
「ん? 由布子さんに、起こして来てって頼まれたんだよ」
由布子――月雲由布子は、公太郎の十歳年上の姉である。
「人を起こすのに、どうして馬乗りなんだよ?」
「由布子さんがね、こうすると公太郎が喜ぶからって――。いつもこうやって起こしてもらってるんでしょ?」
(なるほど、そう云うことか……)
合点がいった。
「んな訳ないだろ! 担がれてるんだよ!」
担がれてる? と、真澄が首を傾げて見せる。
彼女が無意識に見せる極上の可愛い子ちゃんポーズだった。
その仕種に、公太郎の胸が、どきん、と高鳴った。
だが、当の本人はそんなことには、まったく気づいてもいない。
「あは、そうか。そんな気はしてたんだけどね。やられちゃったか」
てへへ、と照れたように笑う。
「そ、そ、そんな気がしてたんなら、実践するな!」
公太郎は首まで真っ赤にして、抗議する。
「ん~、でもさ、ちょっとやってみたかったんだよね。公太郎がどんな反応をするか興味あったし」
真澄、今度は妖しく、ふふふ、と笑った。
小悪魔っぽい笑顔、である。
「でも予想通りの反応だね。あ~あ」
と、少しだけ残念そうな表情。
(な、なんで残念そうなんだ、こいつ?)
彼女は、よっこらしょ、とベッドから降りると、制服のスカートの裾を直しながら公太郎の勉強机に目をやった。
「おはよ、コジロー。きみは早起きなんだね」
勉強机の隅に置かれた木箱。籾殻を敷き詰められた中にちょこんと座っているのは、一匹のゴールデンハムスター。金熊カラー。
「それにしても、きみと私を間違えるなんて公太郎もひどいよね」
指先でコジローの頭を撫でる。
(間違えた、って訳じゃないんだけどもな)
のそのそとベッドから出ながら、公太郎は内心で呟いた。
「あ、起きた? じゃ、ご飯食べよう、公太郎」
「ご飯って、おまえ、家で食べて来なかったのか?」
「食べてきたけど、由布子さんが、食べてけ、って云うからご相伴に預かろうかと……」
「朝から二食分、食べるのかよ?」
「育ち盛りだからね。さ、行こう」
と、公太郎の手をとろうとする。それも恋人つなぎで――。
(な、なんで、その手の繋ぎ方なんだよ?)
真澄の手をさりげなく――と、公太郎は思っていたが、多少は邪険な仕種で――振り払うとかれは少しだけ頬を赤らめて、ぷいと横を向いた。
「ひとりで先に行ってろ。ぼくは顔を洗ってから行くから」
「ああ、そうか」と、真澄。
また残念そうな顔をするが、すぐににっこりと笑顔を見せる。
「わかった。じゃ、先に行って待ってるね」
真澄は可愛らしく敬礼のポーズをすると、公太郎の部屋を出て行った。
公太郎は、ため息をひとつ。
「ああ、驚いた。何で、あいつ、突然、家に寄ったりしたんだ?」
『そりゃ、おまえに会いに来たんだろうさ。モテモテじゃねーか、え?』
その声に公太郎は、机の上のハムスターを睨みつけた。
「遊ばれてるだけだろ、これは……。ったく、あいつは無邪気過ぎだ」
『そうか? 邪気だらけだと思うけどな』
と、コジローは面白そうに答えた。
ハムスターとの会話。公太郎には慣れ親しんだことであったが、真澄にはもちろんそれは聞こえていない。
だから彼女は、公太郎が寝ぼけてコジローと自分を間違えた、と思ったのだろう。
『まあ、おれとしちゃ朝から真澄を拝めたから、いい気分だけどな』
「何で、ハムスターのおまえが真澄に色目を使うんだよ?」
パジャマを脱ぎ捨てながら、不審そうに公太郎が訊ねた。
『そりゃおまえと通じ合ってるからだろ? おれの色目はおまえの色目。
――だから、おれが真澄の胸の谷間に、こう、ちょこんと収まりたいって気持ちも、おまえの気持ちなんだぜ、相棒』
公太郎は黙ってコジローに「でこぴん」を見舞うのだった。