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イケメン(イケてないメンズ)がホスト部をつくりました。

作者: 大崎にあ

ついに来た。ついに来たのだ、この日が! 右も左も前も、辛うじて後ろだけは自分が一番後ろである為に違うのだが、それ以外の三方は女子、女子、女子! 豊満な胸をしたおっとり系少女から貧乳運動系少女まで選り取り見取り。

 そんな夢のようなハーレムを送る事を可能にしてくれるここは、女子高かと思うほど女子率の高い名門私立校、アールグレイスト・ダージリンズ高校。

 実際今現在俺以外男という男を確認していない。いや、確かに男一人というのは辛いものもあるかもしれないが……。でも俺は女子が多いこの環境を知ってあえて入学した。というのもここは女子の制服が可愛いせいか、はたまたただの偶然か、地元じゃ可愛い子が集うと有名なのだ。倍率が高くなかなか入るのは難しかったのだが俺は努力の末入学に成功した。そう、この中の可愛い誰かを我彼女にするために!

 中学校時代は正直暗黒世界で薔薇色に染まる事はなかった。中学校は女子に告白するのはもちろん関わるタイミングすらなかったために三年間彼女ができなかったのである。

 だから高校こそ彼女をつくる! という不純な動機で本校に入学したのだ。

 ところが実際は理想とは遥かに異なって現実はシビアだった。何せ女子はどうにも群れを作る。

 入学式を終え、教室に入ればシャンプーやら香水やら、女子の匂いが漂うほぼ女クラこと女子クラス。辛うじて俺がいるために混クラこと混合クラスではあるのだけど。紅一点ならぬ黒一点。ほんとにハーレムなのだけれど……。

 いざ話しかけようとするとみんな誰かとしゃべっていて実に話しかけづらい事この上ない。それでいてどこか避けられているような気がしなくもない。

 まさしく人はこれを蚊帳の外と呼ぶ。

 俺は仕方なく窓際の一番後ろという特等席に腰かけた。そうだ、この特等席こそが俺の座席であることが唯一の救いである。

 溜息を吐き、窓の外を見つめる。四角に枠どられた窓の向こうの世界では桜がひらりひらりと舞い、春の暖かな陽射しが微笑むように輝いている。

 俺の高校生活もあんな風に輝く、予定だ。

 そう思った矢先、俺の元に花弁が舞い落ちるが如く一人の少女が右隣の席に腰かける。それも一切他の女子と絡むことなく一人沈黙する。

 その少女は姫カットをした超絶美少女であった。美しくセミロング丈の絹糸のような黒髪、透けるような白い肌、大きく夜に浮かび上がる湖畔のような瞳、制服を少し乱したところが真面目すぎず程良い。

 是非ともこの子を彼女にしたい!

 そんな男としての欲望がビビビと脳を貫く。

 俺はごくりと生唾を呑み込み、遠慮がちに声をかける。

「あ、あの、俺、長谷翠っていいます。これからよ、よろしく」

 我ながら滑舌歯切れともに悪い。

 それでも少女はこちらを振り向いてくれた。真っ直ぐな瞳が俺をとらえる。

 しかしそこは普通ににこりと笑ってくれるのかと思いきや少女の美しい顔は歪み始め、とらえる瞳は鋭くなってゆく。

 これを世は睨まれているというのかもしれない。

 そして少女は口を開いた。

「は?」

 これが第一声である。

「えっとだから、長谷翠と」

「別に聞いてねえから。つか話しかけんなキモい」

 これが第二声である。

 俺はぽかんと口を開け、彼女を見つめると彼女は俺から視線を外し、再び一人の空間に戻って行った。

 その瞬間俺の中の何かが崩れ心が盛大にポキッと折れる音がした。

 え、ちょっと待って、俺初対面だよね? なんでこんなに嫌われてるの? ねえ?

「何、まだ何か用? ほんとキモいんだけど」

 俺がいつまでも視線を外さないことに苛立ちを覚えた彼女が再び毒を吐く。まるで俺に見られていると穢れるとでも言いたいが如く。

「あ、いえ、何も……」

 俺はさっと視線を外し、小さく呟いた。

 そして体内では心がボキボキと砕ける音がした。

 いきなり彼女探しは止めよう。初めにこう心が粉粉々になった時、話を聞いてくれる数少ない男友達を探そう。そのあと部活にできるなら入部して、徐々に女子との距離を縮めるとしよう。

 こうして俺の高校入学初っ端から出鼻を挫かれ心は破損し、挫折を味わったのだった。でもきっと俺の高校生活はこれからもっと明るく輝きだすだろう! ……と信じたい。


 ところが俺は第二の挫折を見た。男が一切見当たらないのだ。今日は入学式だけで午後からは部活見学という事で各々ばらけていた。当然どこにいるかなど想像もつかない。それどころか帰宅部志望は帰った可能性もある。

 しかし男子全員が後者というわけでない事に気が付いた。

 漸くこの絶望の淵に立たされた俺は偶然的にも一人の青年を見つけたのだから。それも何人かの女子が群がるイケメン君。

 身長は高く一七〇後半か。入学式早々ネクタイを緩め、耳にあいた数個のピアスがきらりと光る。世はこれをチャラ男という。辛うじて髪が生まれつきかそれとも染めたのか、薄い茶色であって金髪でないだけまだマシだと思う。

 まさか俺とは正反対そうな人間が第一発見者とは。すごくすごく話かけづらい。それも女子と仲良さげに話してるし。

 やはりこの世は顔か。

何処となく自暴自棄に陥り肩を落とすとイケメン君の方から俺の存在に気が付いたようだった。

「あれ、君もしかして数少ない男子のうちの一人?」

 俺が女に見えるか? などという悪態をつくことはしない。

 彼は軽い口調で話しかけてくる。すると彼に群がっていた女子の視線までもが俺に飛んできた。

「えっと、はい、そうです」

「そっか! 俺二組の大崎聡(さと)()

 そいつは女子を避けて俺に近づいてくる。そしてすっと手を伸ばしてきた。どうやら握手を求めているらしい。何だか見た目だけでなく心までイケメンな気がしてきた。

 聡哉の顔は少女漫画に出てくる少年のように爽やかで、さっき見つけた瞬間の印象とはだいぶ違った。見た目程そんなにチャラいわけでもないのかもしれない。戸惑いながらも手を握り、俺はぎこちなく笑う。

「俺、一組の長谷翠。よ、よろしく」

「早速なんだけど、翠はもう部活とか決めた?」

 聡哉は気さくな感じで話を進めた。

「え、あ、まだ」

「中学校何部だった?」

「一応テニス部だけど」

「テニスかー。俺サッカーだったんだけど、これだけ女子率高いとサッカー部ないんだよね。だから迷ってて」

 そこで一端言葉を切る。

「でもだからって新しいスポーツ始めようにも女子の中に男子一人で入ってくってなんか、アレじゃん?」

「わかるよ。俺もテニス部あるみたいだけどやっぱり入るにはちょっと……男子一人はキツい」

「だよな。じゃあさ、一緒に新しい部活俺達で作るってどう!?」

「え?」

 急な提案にぽかんと口を開ける。しかし聡哉は笑顔で構わず先を続けた。

「この学年後他に男子二人いるらしいから、そいつらも誘って四人でできる部活、作ろうぜ!」

「でも四人でできる部活ってある? 軽音とか? 俺楽譜読めないけど」

「それは二人見つけてからでいいじゃん。まずは二人を探そう」

 そう言って聡哉は走り出す。その表情は楽しそうでこれから始まる青春への期待を隠せずにいる無邪気な少年のそれだ。

「あ、待ってよ!」

 俺も後を追う。

「ほら早く! あ、女の子たち、またあとでね!」

 俺の方を振り返って急かしつつさり気なく先ほどまで会話していた群がる少女たちに手を振る。

 きっとこういう奴がモテるのだろう。


 一人目は案外あっさり見つかった。その少年はクッキング部の部室前でもじもじしていた。

 身長は一五〇後半か、やたらと小柄に見える。顔も女の子みたいに二重がくっきりとした可愛らしい造りをしている。もし女子用の制服(ワンピース型のコスプレじみたもの)を着用していたら男だと気が付かなかったかもしれない。

 そんな挙動不審の少年に聡哉は臆することなく話しかけた。

「ねえ君、俺達と新しい部活作る気ない?」

 ストレートな問いだった。すると少年はびくりと肩を震わせ、視線を彷徨わせた。それは何かに食われそうになって怯えた小動物の表情に似ている。

「ぼ、僕……です、か?」

「そう。俺二組の大崎聡哉っていうんだけど、もし入る部活決めてなかったら一緒にどう?」

「ぼぼ僕は、えっと……」

 はっきりしない口調である。そして視線もはっきりしない。彼の視線は俺達と「クッキング部」と書かれた扉、交互を行き来している。だけど俺達と視線がぶつかることはない。彼は一切目を見ようとはしなかった。

 これを俗にコミ障というのだろう。

「もしかしてクッキング部に入ろうとしてた?」

 聡哉もその揺れ動く視線に痺れを切らし、尋ねる。

「あ、いや、そんなことは……」

 本当に少年は目を見ることだけは避けているようだ。

「えっと……ぼぼ僕で、よけれ、ば」

 歯切れは悪いがとりあえず同意を得られたことに満足したようで聡哉は顔を綻ばせた。

「ほんと!? やった! 名前は?」

「よ、四組の、小林、圭斗、です」

「圭斗か、よろしく!」

「俺は一組の長谷翠、よろしくな」

 俺も二人の間に割って会話に混じると圭斗はペコッと頭を下げた。

「よ、よろしく、お願い、します」

 どもりと歯切れの悪さが際立つ声で言った。

「よし! あと一人探すか!」

 しかし聡哉はそんな圭斗の口調など気にすることもなくにかりと笑って歩き始める。俺も後に続く。圭斗は数秒間名残惜しそうにクッキング部の方を見ていたけれどすぐさま後を追ってきた。

 ところがどっこい。あと一人はしばらく見つからなかった。

 結局見つかったのは日が暮れ、空がオレンジ色に染まり始めたころだった。

 いかにも真面目君といった少年は眼鏡をかけ、制服をきっちりと着こなした模範的生徒であった。そのザ・真面目君はまるで門限を守るかの如く何食わぬ顔で帰ろうとしていた。そこを俺達が、というか聡哉が引き止めたのであった。

「お前どこにいたんだよ。探したぞ」

 聡哉が口を尖らせて言うと眼鏡君は眉根を寄せ、怪訝な表情で俺達を見つめてきた。

「ずっと図書室で読書してました。一体全体彼方達は何なんですか? 初対面とは思えないほど図々しい気がしますが」

 否定できない気はしている。それにしても何とも固い話し方なのだろう。それでいてハキハキしていて圭斗とはまるで正反対だ。

「俺達はこの学校の数少ない男子であり未来の君のお友達」

 聡哉のふざけた一言に眼鏡君は目を細め一層迷惑そうな顔をする。しかし聡哉は気にしない。

「ここにいる四人がこの学校での男子の人数らしい。先輩の代はいないんだって」

「はぁ。それで自分に何か用ですか?」

 心底迷惑且つどうでもよさそうな感じがひしひしと伝わってくる。

「そう、俺二組の大崎聡哉って言うんだけど」

「俺は一組の長谷翠」

 一応話の流れには乗ってみる。さすがにそこは圭斗も空気を読んだのか

「ぼぼぼ僕は、四組の、こ、小林圭斗って、いいま、す……」

 遠慮がちではあるが話に入ってくる。

「で、よければ俺達と一緒に部活やらないか? 今新しい部を立ち上げようと思ってるんだけど」

 別に乗る必要はなかったらしい。とりあえずスルーされ先を続ける。だが眼鏡君の表情は変わらない。ずっと眉間に皺を寄せ、怪訝な顔をしている。

「一体どの様な部活を検討中ですか?」

 全然興味はないのだろうけど一応は話を聞いてくれる気はあるらしい。ただあまりにもそれは鋭い質問であった。その質問は俺自身もしたいところだ。

「んーえっと、君名前は?」

「……三組の鈴上優雅です」

「優雅は何やりたい?」

 この短時間で気づいたのだけれど聡哉は会話が上手いと思う。この優雅という少年を探していた時も行く所行く所で女の子に話しかけては情報を集めていた。すごく会話術に長けているように思う。男子の人数を把握していたのも女子から聞いた情報なんだとか。

 けれど今目の前に立つ真面目君には通用しないようだ。

「決まっていないのですか。なら断ります。内容によっては考えてもいい所ですが、今の状況ではあまりにも無計画のように見受けられますので。そもそも学生たるもの一番は勉学なのですから無理に部活をする必要はないと思いますよ。部活はあくまで二の次ですから」

「おいおいそんなこと言うなよ。そんなんじゃ女の子にもモテないよ?」

 そこで初めて優雅は表情を変えた。頬を少し赤らめ、明らかに動揺している。

「べ、別にモテたいなんて思っていません! 確かに姉には彼女とか作るよう言われましたが自分は姉さえいれば、あ、いや、自分は別に興味ないので」

 何か中盤小声でよく聞き取れなかったけど何だか聞いちゃいけない言葉を聞いた気がした。

「あ、お姉さんいるんだ?」

「あ、まあ、はい……」

 何だろうこの感じ。これ以上踏み入ってはいけない気がする。

「でもやっぱお姉さんのためにも彼女がいる高校生活送りたくない? お姉さんきっと楽しみにしてると思うけどな」

「……そこまでおっしゃるのであれば部活の内容で決めます」

 あれ、さっきまで断固して断っていたのはどうした? と思いつつも

「翠はさ、何でこの学校にしたの?」

 急に話題を振られそんなもの胃に流れてしまった。

「え?」

 テンポが一瞬遅れる。

「えっと、俺はこの学校女子が、それも可愛い女子が多いと聞いて……」

 これは正直に言って良かったのだろうか。口にしてから我ながらすごく不純な動機だなと実感する。けれど聡哉は「ふーん」とだけ言って圭斗にも同じ問いを繰り返した。すると圭斗は俺なんかよりももっと素晴らしい答えを吐き出した。

「じじ実は、ぼ、僕が中学生の時中学校にむ、向かう途中、ここの、学校のせ、制服を着た人にひひひ一目惚れして、あ、会えたらいいな、なんて……」

 そんな漫画みたいな事があるのかと驚き詳しい事情を聞きたかったが聡哉はすでに眼鏡君に同じことを問うていた。

 すると優雅は治りかけていた赤面が再び再熱した。真っ赤に染まった頬はリンゴのようで告白前の女子みたいだ。

「いや、自分はその姉に無理矢理というか強制的に……」

 鈴上家はお姉さんの存在が絶対らしい。そんな気がする。どれだけ怖いお姉さんなのだろう。

「なるほど。ならやる部活は一つしかないだろ」

 聡哉が閃いたらしく声を張る。俺達三人の視線は聡哉に集まり、次なる言葉に待機した。

「その名もホスト部」

 聡哉の自信ありげな声が一面に響いた。

 しかしその言葉を理解するには三人とも数秒の時間を要した。それでも辛うじて数秒後には理解する。

 そして俺と優雅は口をぽかんと開け、圭斗は困惑した顔をする。

「おいおいちょっと待ってくれ」

「どうした、翠?」

「あのさ、俺、聡哉ほどのルックス持ち合わせてないし、酒とか未成年だから無理じゃね?」

「別に本当に酒を出すわけじゃないよ」

 ルックスは見事にスルーされた。

「ジュースとかちょっとしたお菓子で良いんだよ。後は指名されたら隣に座って話し聞いて甘く囁けばいいんだって」

 ずいぶん軽々しく言いますけど、そんな恥かしい事そう簡単にできませんからね、俺は。

「そんな如何わしい事この上ない、破廉恥な部活などできるわけがないでしょう!」

 破廉恥って……。

「何でだよ。別にエロい事するわけじゃねえし。やるとしてもキスぐらいだって」

「き、キスぅぅぅぅ!?」

 つい叫んでしまう。

 生まれてこの方一度たりともキスなんてした事ありませんけど十分破廉恥でしょー。

「何と破廉恥な! 交際前の男女がキスなど重力振り切ってるんじゃないですか、精神が!」

 おお、すごい言われ方。

「それでしたら自分は入部しません」

「ちょっと待てって! だってこれだったら多くの女子と関わる機会ができるんだぞ? そしたらお前はお姉さんの期待に応えられるかもしれないし、翠は彼女ができるかもしれない。圭斗はその一目惚れした相手を見つけられるかもしれない」

 そこで一端聡哉は言葉を切った。それから息を吸って続ける。

「俺も色んな女子と話して視野が広がる。みんなの入学した目的が叶えられるかもしれないんだぞ!?」

 確かに聡哉の言いたい事は分かる。ホスト部をやれば自然と女子との接点、出会いの機会は増える。ただそれはお客さんとして生徒がちゃんと来てくれたらの話だ。どこかの漫画よろしくイケメンことイケてるメンズが勢ぞろいならまだしも俺たちはイケメンでもイケてないメンズの方で、そんな客が来るとは到底思えない。辛うじて聡哉くらいか。

「ぼぼ僕は……」

 そこで圭斗が相変わらず困惑したような、でも少し何かを期待するような曖昧な表情で口を開いた。

「ぼ、僕はさん、成……かな」

 その言葉に俺と優雅は圭斗を振り返り、目を見開いた。

 こいつ自分の事分かってるんだろうか。そりゃ俺だって人の事言えた性質じゃないけどこんなコミ障が女子と話すのはもちろん甘く囁くなんてできるのか? まともに話しすらできない奴が。キスなんてもってのほか。

 そんな訝しがる俺たちの視線を受けながらも圭斗は恥かしそうに俯いて続けた。

「だ、だって、もももしかしたらぼ、僕のコミ障も、なな治るかも。じ、自分を変えるちゃ、チャンスかなって……」

「うん、圭斗の言う通りだよ。ポジティブ思考は大事だ」

 聡哉が嬉しそうに圭斗の肩を抱いた。圭斗も恥かしげにはにかむ。

「本気かよ?」

 俺は二人の正気を疑った。だけれど二人の意思は変わらないらしい。全く圭斗が賛成するとは意外だった。

「はぁ……。俺はキスなんかしないからな」

「全然大丈夫! そこは慣れ。でも今のってつまり入ってくれるって事だよな!?」

 慣れって……。さらっと爆弾発言投下したな。でもまあ結局ここで入らなかったらどこにも入らないんだろうし、というか入れないんだろうし、挑戦するのも悪くないか。

「う、うん」

 決心がついたわけではないけれどほんの少しやろうという気が起きた。

「やったね!」

聡哉は無邪気な子供みたいに嬉しそうに笑う。それから「優雅はどうする?」と言いたげに彼へと視線を向けた。

 ところが優雅は優雅で俺とは違って簡単に折れる気はないようだ。腕を組み、眉根を寄せる。

 それから右手の中指でくいっと眼鏡を押し上げ口を開く。

「自分は入りません。そんな如何わしい事は高校生の身分でする事ではありませんよ」

「じゃあ優雅は何部に入るんだよ?」

 聡哉は口を尖らせた。

「それは……」

「ほら、決まってないんだろ? どうせ他行っても女子部員だけだよ?」

 むしろそのハーレムを味わいたいなら止めないけど。

 聡哉が意地悪くつけたす。すると優雅は頬を赤らめ

「そ、そんなわけないじゃないですか! は、ハーレムだなんてっ!」

 声を荒げる。それでも何とか一息吸ってあくまで冷静に言う。

「いいです、自分は帰宅部にしますから。その方が勉強にも集中できますし」

「へえー。お前それでいいんだ? お前そんなんでお姉さんに言われたとおりこの学校入学した意味あるのかよ? お姉さんに彼女作れって言われたんだろ? お姉さんの期待裏切るのか?」

 いや別にそもそも期待しているわけではないと思うんですけどね。ただ作ったらっていう軽いノリだと思うんですけどね、俺的に。

 一体こんな口車に誰が釣られるのか。

「……わ、分かりました。あくまで姉の為、入部します」

 ……あ、そう。あっさり釣られましたね。

 俺、思ったんだけど、こいつ、シスコンことシスターコンプレックスじゃないか? 「姉」という言葉を出せば何でも言う事を聞いてくれそうな気がする。いやはたまたただの怖い姉なのか?

「ほんとか!? よっし! これでホスト部完成だ。今日はもう遅いから明日、そうだな……四階にある教室、一番奥のやつ。あそこほとんど使ってないらしいからそこに放課後集合!」

 情報の速さに驚きつつも聡哉のはつらつとした声に気圧される。

「絶対来いよ! 俺新規部活登録書持って行くから!」

 その無邪気さと爽やかさでできたような少年の笑みに一人は恥かしそうに微笑み、一人は眼鏡をくいっと押し上げ、俺は期待と不安の曖昧な表情を送った。


 翌日相変わらず何したわけでもないのに隣の女子に嫌われ、目があったかと思えば殺気立った目つきでガン飛ばされ俺は息の詰まる時間を過ごした。それでも放課後になるとほんの少しだけ心を躍らせて階段を登って行った。

 登ってゆくにつれ人気(ひとけ)は薄れ、四階に着いた時には誰ともすれ違う事はなかった。

 確かに一番奥どころか他の教室さえ使ってなさそうだ。

 歩み寄って何室なのかとプレートを見たけれどそこには何も書かれていなかった。ただ隣はどうやら家庭科室のようだった。でも昨日下にクッキング部があったのだからここは使われていないのだろう。一体何のために造られたんだか。

 なんて事を考えつつ名無しの教室の扉に手をかける。

 ガラッ――――

 静かにあけると、そこには静かな廊下とは裏腹に人声が多少飛び交っていた。

「お、翠遅いぞ!」

 聡哉が椅子から立ち上がり、俺を手招いた。

 別に道草食っていたわけではないがどうやら一番最後の到着だったらしい。

 教室内は既に机などの配置が変えられていた。

 奥にはどこから持って来たのか三人がけの黒いソファーと長机が置かれ、手前には学校用の椅子二脚と机が四つのワンセットが四つ配置されていた。これまたどこから入手してきたのかどれも机には黒い布が、椅子にはワイン色の布がかかっていて一瞬学校の机と椅子だと気がつかなかった。でもそれはどうしてもホストと言うよりは喫茶店の方が近い。

「やっぱり全部ソファーと長机にしたいよな。それももっと艶のある黒色で。あと天井も蛍光灯じゃなくてもっとお洒落なライトにしたいよな」

 俺が部屋を見渡しているのに気がついた聡哉が苦笑交じりに理想を語る。当然無理だろうが。

「いやむしろよく一つソファーと、それから布も手に入れたな」

「ああ、演劇部の子から使わなくなった小道具として貰って来た」

 既に友好関係があるという事か。元から同じ中学校から来た顔なじみかそれとも昨日知りあって来たか。

「それより早くお前もこれに名前書いてくれよ!」

 そう言って聡哉が俺に突きつけて来たのは部活登録用紙だった。もう三人は書き終わったらしく残るは俺だけらしい。

「お前が書いて部長副部長決めたらそれを生徒会に出す。そうすれば完了だ。ほら早く!」

 俺は紙を受け取りささっと近くの机の上でペンを走らせる。

「ほら、書いたぞ」

「おおー! さんきゅ! さて、部長はどうする?」

 聡哉のテンションはかなり高めらしく、一刻も早く部活を始めたいのが伝わって来た。まだ本格的な活動が想像つかない俺には少し理解し難い所があるが。でもこの流れは

「部長は聡哉でいいんじゃないか?」

 そう言うしかないだろう。

「ホスト部って考えたのも聡哉だし」

「え、ほんとに俺で良いの?」

 少し驚いた顔で三人を見回してくるがむしろ他に誰がいるというのだろう。

 俺達は無言で頷いた。

「そうなると副部長は翠かな」

「え、俺!?」

 予想外の指名に動揺する。けれどそんなのは完全無視。

「二人はどう思う?」

「いいと、思う」

「別に良いんじゃないですか」

 万場一致と言う事で。何故俺なのかと言う疑問と俺なんかに務まるのかという不安が渦を巻く。

「よし、じゃあそれも書くぞ」

 聡哉にその渦に巻き込まれる事はない。座り直すと迷いなくペンを走らせた。

 これでついにホスト部が成立する。生徒会室に持って行き、生徒会長のハンコさえ押されれば。

 これから輝かしい青春が始ま、る……? ん?

 そこで俺は違和感と言うより異変を感じ取った。何だか空気が、雰囲気が変わった気がする。その原因は――――。

 聡哉の肩が震えていた。

 そんなに嬉しいのか? 泣くほどに? いや、笑っている、のか?

「さと、や?」

 俺が声をかけると聡哉は一層肩を震わせ忍び笑いをする。クスクスと必死に声を殺す。だがついにそれは爆発した。忍び笑いは爆笑へと変わる。

 最初は俯いて笑っていたはずなのに弾けたように背中を逸らして激しく笑う。まるで狂ったかのように。

 俺達三人には何がツボだったのか一ミリも理解できず沈黙する。

 すると聡哉は目に浮かぶ涙を人差し指で拭い足を組んで座りなおした。そしてようやく口を開く。

「はは、お前ら馬鹿じゃねえの。ば・か・や・ろ・う! 馬鹿野郎!」

 それはオリンピック開催地が東京に決まった年に滝川クリステルがやった「お・も・て・な・し」のパクリだ。

 だが今は何のパクリであろうとどうでもいいのだ。それより何故俺達は今奴に罵られているのか。問題はそこだ。その理由が俺達三人に微塵も理解できない。できるわけがない。

「さ、聡哉、今なんて……?」

 聡哉の口調ははっきりとしていた。はっきりしすぎてむしろ自分の耳を疑いこんな間抜けな問いをぬかす。

「だから馬鹿じゃねえのって言ったの」

 しかし聡哉はただやはりはっきりと繰り返すだけだった。そして次に辛辣な言葉を並べる。

「お前らにホストなんかできるわけないだろ。何夢見てんの? 何が彼女だ何が一目惚れだ何がお姉さんの為だ。このヘタレ、コミ障、シスコン」

 は……? 頭が混乱する。誘ったのはそっちだろ?

「俺はさ、可愛い子が多いって言われるこの学校で何股かけられるか試す為に来たの。わかる? お前らとは訳が違う」

「ちょ、ちょっと待てよ。なら何で俺達を誘ったんだよ? やろうって言い始めたのはお前だろ? 何股かけられるかなんて一人ですればいい。なんでわざわざ……」

 混乱しながらも思ったことを素直に口にする。すると聡哉は鼻でせせら笑った。

「決まってるだろ。お前らはカッコよくもないし、内面もすごくいいってわけでもない。つまりモテない。そんな奴の傍に俺がいてみろ。際立つだろ。プラス俺とは正反対なお前らとつるむ事で女子からはフレンドリーな人として映る」

 三人して言葉を失って聡哉を呆然と見つめる。

「まあ? お前らみたいなブスメンでも役に立てるって事で。あとは部長の俺の言う事さえ聞いてればいいから。絶対人気の部にしてやるよ」

 部活登録書を玩ぶが如くぺらぺらと音をたててゆする。その姿は俺達さえも玩ばれているような感覚だ。

 ナルシシストにもほどがある。これが少女漫画によくありがちな一見爽やか系男子の裏の顔、すなわち本性だ。ただそんなわかりやすい二面性を持った奴が現実的に、それもこんな間近にいるとは思わなかった。

 優雅は眼鏡を押し上げ、地から這うような低い声で

「最低ですね」

 と呟く。だがそれは一言「黙れシスコン眼鏡」で跳ね返されてしまう。

 もう部活届けに名前を書いてしまった以上奪い取って破り捨て、部活結成自体を辞めるしかない。このままあの紙が聡哉の手元にある限り奴の思うつぼだ。

 そう思って俺が聡哉の手にある紙を睨み付けた、その時だった。

 ガラッ――――――

 扉が勢いよく横にスライドした。

 俺達の視線が一点に集中する。その集中した先に立っていたのは……

「お前らが噂のホスト部か」

 二人の女子生徒だった。そう、女子生徒なのだけれど、間違いなく女子生徒だ。二人とも。だけどストレートな黒髪を腰まで垂らした生徒は何故かズボンにネクタイという男子用の制服を着用していた。その後ろに隠れるようにいるおしとやかそうで茶色の猫っ毛が特徴のお嬢様っぽい生徒はちゃんと女子用を着用しているのに。

 早速来客だろうか。

 聡哉はすっと立ち上がり一瞬にして爽やか笑顔を作る。

「残念ながらまだ始まってないんだ。また改めて来てくれるかな? 君のような綺麗な子は大歓迎だからさ。もちろん後ろの可愛い子も待ってるよ」

猫被りな演技はわざとらしい。しかしその猫の皮は一瞬にして脱ぐことになる。

「別に善人ぶらなくて結構。少し前から話は外で聞いていたからな」

 彼女は黒髪を波打たせて教室に入ってきた。

 その瞬間思わず息を呑んだ。色白の整った顔は凛として、すらっと長い足は細く、まるでモデルが歩いているのかと思うほどに美しかった。

 そして後を追う茶色い髪の少女を見てもやはり目を見開いた。豊満な胸は歩くたびに上下に揺れ、黒髪少女を追う姿は幼子のよう。童顔が一層それを引き立てる。

 まるで正反対の二人はどこか歪で不釣合いで違和感を放ちながらも俗に言う美人系と可愛い系の最強のコントラストにも思えた。

 だが今はそんな事を言っている場合ではない。聡哉の表情に曇りが掛かり快晴から曇天に変わる。

「あ、そう。聞かれてたの。ならいいや。で、あんた誰?」

気だるげに口を開く。先ほどの演技はどこへやら。

「先輩への口の利き方をまず改めたらどうだ?」

 女性にしては少し低めの声と一六〇センチを優に超えた身長が言葉に圧をかける。けれども聡哉は臆するどころか譲ろうとしない。

「先輩なら名乗り方くらい知っているでしょう?」

「……まあいい。私は大空リク。本校生徒会長だ」

 おうっ! まさかの生徒会長様でしたッ! 何たる無礼。事を大きくしたくなければ素直に謝っとけ。

 と思ったのは俺だけのようで聡哉はただ「ふーん」と言っただけで特に詫びる様子はもちろん態度を改めるつもりもないらしい。

「で、そちらの人は?」

「こっちは私の一つ下の後輩、すなわちお前たちからしたら一つ上の先輩、本校生徒会副会長を務める七海ありすだ」

「あっそう。学校の生徒トップが二人も揃って何か用ですか?」

 聡哉は一層挑発をかけるかのような口調で問う。

「わざわざ部活届けを取りに来てくださったという訳ではないですよね」

「当然。何故私がわざわざそんなご足労をしなければならない?」

「じゃあなんすか?」

 もうこれ以上火花を飛ばすのは止めてほしい。この部室に火をつけて火事でも起こすつもりか。

「私が自らここに足を運んだのは他でもない。私もこの部に入部するためだ」

 リク会長の言葉に沈黙する。

 さすがの聡哉も言葉を見失い、鋭い視線を向けることさえ忘れ間抜け面を晒す。けれどすぐさま脳を回転させ、言葉を理解すると目を細め、腕を組んだ。

「はあ? あんた女だろ?」

 蔑む言い方はとても先輩に対する態度ではない。

「それがどうした。男だから女だからというのは男女差別に値するぞ」

「いやいや差別とかそういうことじゃなくて。ホスト部だよ? 男が女を楽しませる機関だ。ホステスじゃない。女のやる事じゃないだろ」

「そういう最初から決めつける先入観、止めた方がいいと思うぞ。それに私はお前より遥かに人気を取ることができる自信がある」

「はあ?」

 再び激しい火花が散る。正直俺達はちらちらと視線を合わせては冷や汗を垂らしていた。そして心の底から聡哉が譲るのを祈る。

 入学早々生徒会長に目をつけられるなんて御免だ。でもやっぱり聡哉は決して譲らない。

「俺があんたに負けるはずがない。どう頑張ってもあんたは男にはなれない。所詮女。お前に勝ち目なんかねえよ」

 あまりにも失礼な言葉が響いた。その言葉に鞭打つが如くその瞬間舌打ちが聞こえた。

 さすがに生徒会長もキレたのかと思われた。だが実際舌打ちを鳴らしたのはリク会長ではなかった。

「リク会長がお前ごときに負けるわけねえだろナルシストクズ野郎」

 小声で低く呟いたのはありす副会長の方であった。見た目のほんわかした優しいオーラを持った少女がいきなり毒を吐くのは肝が抜かれる。

 それは幻聴に思えた。いや実際幻聴だったのかもしれない。次の瞬間には

「もう喧嘩はよくないです。学年を超えて交流を深めるという意味でも一緒にやることは悪いことじゃないと思いますよぉ?」

 高めの舌ったらずの声で仲介に入ったのだ。まるで別人。今はまさしく見た目通り。アニメよろしくな萌え系少女がそこには存在した。さっきのはやはり幻聴、だろうか。

「ありすの言う通り。それに私が入れば生徒会で予算を組み、ホスト用衣装なども買えるよう手回しするぞ?」

 聡哉は考え込むように黙る。

「それでも私の入部を認めないなら結構。部活届けを受理しないまでだ」

「おい待てよ! それは卑怯だろ!」

 沈黙を破り聡哉は口から泡を飛ばして声を荒げる。それは虎が獲物に喰らいかかるかのような風景。だがリク会長は臆さずむしろ鼻でせせら笑う。

「卑怯なものか。権力とは使って何ぼだろ」

 予想以上に悪い会長かもしれない。

 だが不覚にもその堂々たる姿、凛と仁王立ちする姿が美しく見えるのは俺がMに目覚めたからか。いや、それは無いと信じたい。せめて節穴と言われたほうがましだ。

「ちっ。まじで最悪な女だな、あんた」

 ついに折れたのか引き下がるように吐き捨てる。

「ただし部長は俺だ。俺のルールは絶対だ」

「構わない。ありすも部員に入れておくぞ。きっと役に立ってくれるはずだ。料理に裁縫、なんでもこなすから困った時は彼女を頼るといい」

「あっそ」

 聡哉は最早やけくそになっている。

「よし。ではその部活届けを受け取ろう。部室はここでいいんだな」

 すっと伸びるリク会長の手にしぶしぶ部活届けが渡される。

「うん、確かに受け取った。また明日放課後ここに集合。今後の予定を立てる」

「おい部長は俺」

「では諸君、また明日」

 聡哉の言葉を遮り紙一枚手に颯爽と教室を後にする。

 その後をありす副会長が追う。ドアのところでぺこりと一礼をしてドアが閉められる。一時の幕が閉じられた。

 ぺこりと頭を下げる姿は女性らしく愛らしい。やはりさっきのは気のせいだったに違いない。そしてリク会長においては確かに男にはなれないかもしれないが既に十分漢であることを確信し、ここに宣言する。当然心の中で。声に出してこんなこと言おうものなら聡哉に睨み斬り殺されそうだ。

「……あの女気に入らねぇ」

 聡哉はドスンと椅子に腰かけ足を組んだ。

「いや、貴様の先輩に対する態度があまりにも不適切だったと自分は思いますがね」

 優雅が眼鏡をくいと押し上げ言う。もちろん俺も優雅の意見に賛成だった。

「うるせえ。絶対あんな女に負けねえ。退部させてやる」

 どうやら完全にライバル心を燃やし、先ほどまでの俺達に対する蔑みはどうでもよくなったらしい。もう意図的に俺達を引き立て役に使おうとはしないだろう。ただ自然とそうなることは元々見えていたことなのだけれど。

 とにかくもう今更やめますなんて言えないわけで。聡哉を敵に回すのも嫌なわけで。

 ここはおとなしく苦笑い。優雅は大きなため息。圭斗は……

「圭斗? 大丈夫か?」

 一人ぼーっとしている。

 俺の声に聡哉と優雅も圭斗に視線を向ける。すると圭斗は我を失い何かに操られ憑かれたように呟く。

「……あの人だ」

「え?」

 俺は眉間に皺を寄せる。

「僕が一目惚れした人……」

「……………」

 沈黙が四人をしばし支配する。やがてわずかな時を経て

「えー!?」

「はあー!?」

 俺の叫びと聡哉の怒りも交えた絶叫が重なり、優雅は口をあんぐりと開けた表情で沈黙は切り裂かれた。

「待て、どっちだ? その答えによってはお前も退部送りだぞ」

 聡哉が脅しまがいに喰いかかる。

 だがその脅しに怯えることもなく放心状態のまま圭斗は構わず口を開く。

「えっと」

 どうかこれ以上雰囲気を悪くするような回答は止めてくれ。俺は祈るばかりだ。

「ありす、副会長」

 ああ、良かった。いやでもあの人も気のせいでなければ聡哉を貶していたような……。

「……まあリクよりはましだ。リクと答えなかった以上俺にはどうでもいい。必ずあの女を返り討ちにして俺が一番人気を誇ってやる」

 もはや先輩を呼び捨てにしている。

 でももう間違いなくこれでホスト部は確立した。しばらくは聡哉に振り回されるだろう。

 俺は肩をすくめ、溜息をこぼす。

 こうして泥沼化したホスト部が始まったのだった。


 翌日の放課後、部室に行くとまたしても俺が一番最後の到着だった。リク会長もありす副会長も揃っている。

 俺が入ってきた瞬間真っ先に口を開いたのはリク会長であった。

「よし、全員そろったな」

「お前が仕切ってんじゃねえよ。それ俺の仕事だから」

 それに聡哉が野次を入れる。だがリク会長は無視。

「みんな今週の土曜日空いてるか?」

「だから」

「生徒会予算を昨日のうちに出しておいたからそれに合わせて服や出し物の調達に行こうと思うんだが」

 完全にリク会長のペースだ。恐るべきスルースキルを身に着けていらっしゃるようで。

 聡哉は苛立った様子で椅子に腰を下ろし、足を組んで頬杖をついた。けれどもそれさえもリク会長は一切無視だ。

「ぼぼ僕は、だ、大丈夫です……」

 圭斗が聡哉の方をちらちらと窺いながらもそう答えた。

「自分も空いていますが六時までには帰宅します」

 え、何、ここに小学生がいるんですけど。

「俺も、大丈夫です」

 優雅の発言を気に留めつつ同意する。

「よし、全員大丈夫なんだな?」

「俺まだ何も言ってねえけど」

「安心しろ。聡哉、お前に拒否権はない。例え今日の帰り道に怪我して歩けない状態になったとしてもお前には来る義務がある。何故ならお前は部長だからな。ほか部員は来て部長が来ないなんて話はありえないだろう」

「はあ? こんな時ばっか部長ってこと押されても困るんですけど」

 何かリク会長って聡哉以上に言葉が巧みな気がする。それでいて屈託のない笑顔が爽やかで悪気がなく実に神々しい。

「で、突っ込み忘れたが何故優雅は六時?」

 そうそう、よくぞリク会長聞いてくださいました。俺もそこが気になっていた。

「いえ、別にあなた方には関係ありませんから」

「ん? 家庭の事情か?」

「まあそんなところです」

「どうせお姉さんの事だろ」

 聡哉の鋭い指摘に優雅の肩がびくりと震えた。まさかの図星?

「べ、別にそんなんじゃありませんから!」

 そう優雅が頬を赤らめ、眼鏡を押し上げた、その時だった。

 コンコン――

 乾いたノックする音が響いた。さっそく客だろうか? いや、まだホスト部が確立されたことを知る者は数少ないはず……いや待てよ。聡哉の知り合いの子なら大抵知っているんじゃないか。どうせ既に売り込んでいるんだろうから。

 ところが実際会長が扉を開けるとそういった客ではないと一目で分かった。というのもそもそも本校の制服を着用していないのだ。

 オレンジっぽい茶色い髪はセミロング。ミニスカートはパンツが見えそうなくらいほんとにミニで、そこから伸びる太ももは白く色っぽい。

 一体どちら様だろうか?

「本校の生徒ではないようですね。どちら様ですか?」

 会長が尋ねる。するとその女性はにっこり笑って答えた。

「鈴上美奈です!」

 鈴上? どこかで聞いたことがあるぞ?

「み、美奈姉(ねえ)!」

 そうそう優雅、お前だ……って、えー!?

 一同一斉に優雅を振り返る。そして再び美奈と名乗る女性へ視線を戻す。

「優雅のお姉さんですか?」

「はい! あなたがリク会長かな? 優くんの日記通り男気全開って感じの人だね! 紳士みたい。あ、褒めてるんだからね? ふふ、うちの優くんをよろしくね!」

 いきなり馴れ馴れしく話しかけてくる彼女は何ともハイテンションというか明るい人だ。

 そして何よりも

「似てねえ」

 そう、似てないのだ。見た目も性格も。

 聡哉は二人を交互に見ながら呟く。

「えへへ、そうかな? 結構似てるところあるよ? ねえ、優くん?」

「やめろよ! てか勝手に人の部屋に入るな日記を読むな! 何しに来た!」

 優雅は耳まで赤くし、声を荒げた。この時ばかりは彼の特徴である敬語が崩れている。

「何って優くんがホスト部やるって言うからそれを見に?」

「いいからそういうのっ!」

「もー優くん冷たいぃ。家だともっと優しいじゃん。折角優くんの好きなおせんべい差し入れに持ってきたのにぃ」

 待って待って突っ込みどころ満載すぎないかこの姉弟。

「もういいから帰ってください」

「やーだぁ。もう優くんなんて知らない。リクちゃん、これ、みんなで食べて」

 そう言って実の弟を完全無視し、手提げ袋をリク会長に差し出した。

「これはご丁寧にすみません。ところで失礼ながらお姉さまおいくつですか?」

 リク会長は素直に差し入れを受け取り尋ねる。すると美奈は再びにっこりと笑って答えた。

「大学二年、ピッチピチのハタチです☆」

 語尾に星が付いているように聞こえたのは俺だけじゃないはずだ。

「成人しているんですね。実に可愛らしい方だ。優くんもこんなお姉さんを持ててさぞ誇りに思うだろう」

「やだリクちゃんったら、言葉が上手ね」

「……リク会長までその呼び方やめてください。それと全然誇りじゃありませんから」

 という割に声はそこまで苛立った様子はない。実はそんなに怒ってないんじゃないだろうか。

 だが怒っていようがいなかろうが会長と美奈さんには関係ないようだ。優雅は無視され二人の間で話は進んでゆく。

「そうだ、今から今後の詳しい活動について話合おうと思っていたところなんです。お姉さんも一緒にいかがですか? 弟の活動は気になるでしょう」

「ほんとに!? やったぁ! ぜひ!」

「ま、待ってくださいよ!」

 当然優雅が止めに入る。完全に俺と圭斗とありす副会長は蚊帳の外。聡哉においてはスマートフォンでツイッターを見ている。

「なんで姉も一緒なんですか!」

「いいじゃないか。可愛い子が多いと絵的にも栄えるぞ」

「別に栄える必要はないと思いますが」

「もういいじゃん。そんなに優くんは美奈の事が嫌いなの?」

 おっとまさかのここで彼女が彼氏に問うような質問が発射された。それもばっちり上目遣い。

 俺は初めて姉に上目遣いされる同級生を見た。

「……」

 優雅は頭から湯気が出そうなほど赤くなっている。そしてしどろもどろに

「べ、別に嫌いじゃない、けど……」

 と一言。

 やっぱりこいつシス……。

「嫌いじゃないならいいじゃん?」

「……もう勝手にしてください」

 なるほど。こりゃあ負けるよ。優雅がこの学校に入ってきたのも分かるような気がする。

「わーい! 優くん大好き!」

 そこで美奈は優雅に抱き着く。

「うわっ! やめろよっ!」

 とか言いつつそこまで嫌がっていない。

「仲がいい姉弟だな」

 会長は微笑ましいものを見る穏やかな目で二人を見守る。そして数秒後切り替えた。

「で、本題に入るがどんな活動をするつもりだ?」

 切り替わったリク会長は真面目な顔つきで尋ねる。さすがに空気を読んだ美奈さんも優雅から離れた。

 そしてようやくスマートフォンから顔を上げた聡哉が口を開く。

「どんなってそりゃあ本格ホスト目指すだろ」

「だが本当にアルコールを提供することはできない。だからまずその辺のメニュー設定から決めてもらわないと。部活である以上文化祭以外で生徒から本当にお金を受け取ることはできない」

 リク会長は難しい顔をして続けた。

「いかに低コストで月の部費内でやりくりするか。それによって衣装代も考えなければならない」

 それはなかなか難題そうに聞こえる。そもそも月の部費がいくらなのか全く見当もつかない。なのでメニューと言われてもぱっと思いつきそうにない。

「とりあえず本格的に近づけたいからノンアルコール、カクテルは確実メニューにしようぜ」

「いいえ、それはいかがなものかと」

 聡哉の気だるげに演じつつ楽しみなのを隠しきれていない声に優雅の鋭い声が即答する。優雅は眼鏡をくいと押し上げる。

「ノンアルコールとはあくまで〇・〇一%以下の飲み物を指しているのであって実際はほんの少し入っているんです。それを学生たるものが口にするなど自分にはできませんね」

「相変わらず優くんは固いなぁ。でもそれって確かに学校側も許してくれなさそうだね」

 何故か美奈さんも本気になって考えてくれている。

 そこで各々が考え始め、沈黙が落ちる。その沈黙を破ったのは

「あ、あの……」

 どもりのきいた圭斗の声だった。

 若干存在を消しかけていた圭斗が遠慮がちに口を開く。すると全員の視線が圭斗に集まった。

「ここ紅茶とか、どどどどうですか? おお女の子は好き、そうだし、も、モノによって効力がある、とか。ぼぼ僕、それに合わせてクッキーとかけ、ケーキとかつつつくれるし……あ、おお、オムライスでもいい、かも……」

 圭斗が自分の世界に没頭する。

 ここでようやく何となく圭斗がクッキング部の前に立っていた理由が分かった気がした。こいつは料理が好きなんだ。

 妙に一人納得していると圭斗がふっと我に返った。

「すすすみません! それじゃあまるでほ、ホストっていうより、き、喫茶っぽい、ですよね……」

 言ったことを後悔するように俯き肩を竦める圭斗であったがそれと裏腹にリク会長は叫んだ。

「それだ!」

「へ?」

「それいいよ! 一見喫茶っぽいけど私たちを指名することができる。そして食べてる間は傍にいて甘く囁けばいい。それもオムライスなんて萌えの王道じゃないか! あーんしたりケチャップで名前書いたり……」

 あのリク会長それ以上しゃべらないでください。キャラ崩壊です。まさか男気全開、漢の中の漢、それでいて生徒のトップに立つお方が「萌え」などという言葉を発するなんて、誰が想像できた? 少なくとも俺にはできなかったぞ。

「確かに紅茶が嫌いな人はあまりいないですね」

 ありす副会長が手を合わせて微笑む。その仕草といい声といい何だか眠くなる。

「他にもココアとか用意してもいいんじゃない? あとスパークリングとかあっても良さそう!」

 美奈さんも興奮気味に話す。

 もはや俺達より女子三人の方が話を盛り上げずんずん進んでいる気がする。でももちろん俺としては反対意見など持ち合わせていないどころか賛成なので全然構わない。これは確実に出会いのチャンスだ、なんて思っている。

「ということで今週の土曜日服やらその他もろもろ買いに行こう」

「あの、アロマとか教室に置くのも悪くないんじゃない、ですか?」

 優雅があくまで視線は女子三人に向けることなく割って入った。

「アロマ?」

 リク会長は鳩が豆鉄砲でも喰らったかのようなきょとんとした表情で復唱する。

「あ、いや、姉が時々部屋でアロマ焚いているので女性は好き、なのかと……」

「やだ優くん、だから前にアロマオイルプレゼントしてくれたの!?」

「べ、別にそんなんじゃ……」

「もーそういうとこ大好きだよ、優くん!」

 美奈さんが再び優雅に抱き着く。

「や、やめろよっ!」

 優雅は真っ赤な顔をして言わなければよかったと表情に刻む。けれど後悔してもすでに遅し。やはり彼は聡哉の言うようにシス……。

「なるほど。私は普段ファブリーズ派なので思いつきもしなかった。ありすもそういうの好きなのか?」

「え!?」

 急に話を振られ、一瞬遅れるありす副会長の頬は何故か赤みを帯びていて会長の視線を恥ずかしそうに受けている。

「あ、はい。私も時折部屋で焚きますよ」

「そうなのか。そういえば私はありすの家に行ったことはなかったな。今度お邪魔しよう」

「っ!」

 ありす副会長の顔がますます赤くなる。それは今にも湯だちそうだ。ついでに言葉さえも蒸発してしまったのか何も言えないらしい。これを世はテンパっているという。

 ああ、考えたくはないけれどこの人ってもしかして……。優雅と同様に俺の口では言葉にしてはいけない類な気がする。

 けれどありす副会長をそうした状況に追い込んだ当の本人は視線を別に移し話を再開する。

「というわけで今週の土曜一〇時に××駅に集合な。それでいいだろ、部長?」

「はぁ……。勝手に話進めやがって。ああ、もう勝手にしろ。だけど一分でも遅れたらただじゃ済まさねえから」

 ようやく聡哉も口を開きあからさまに不機嫌そうに言う。それでもどこか期待が含まれているのか微かに声は弾む。

「ぼぼ僕もりょりょ、料理、学んでおきます!」

「期待してるぞ、圭斗」

 リク会長が爽やかに笑う。

 これから本当の青春が始まるのだ。

 俺は期待に胸を膨らませ、土曜の事を脳内シミュレーションするのであった。


 土曜日の事である。

 俺は約束時間の十分前に××駅に着いた。するとそこには既に男女二人の姿があった。それはふんわり白いワンピースに身を包み愛らしく微笑むありす副会長が一人。もう一人は七分丈のチノパンにハイカットというおしゃれをキメつつ赤面する圭斗であった。

 遠目でそれを見た時はもう少し遅れたふりして二人きりにしようかと思ったけれど全くもってそんな気遣いは必要なさそうだった。何せ会話が弾んでいなさそうなのがはっきり分かったからだ。だから素直にそのまま近づいて行った。

「おはよう」

 何気ない感じで圭斗に挨拶すると彼の肩がびくんと震える。

「おおおおおおはよう、ござい、ます、みみ翠君」

 よっぽど緊張しているのかいつも以上に声は上ずりどもりが増してひどい。

「ありす副会長もおはようございます」

「翠君、おはよう」

 にっこりとほほ笑むありす副会長の顔はアニメに出てきそうなヒロインそのものだった。守ってあげたくなる愛らしい表情、鼻にかかった声、どれも男なら一瞬グラッと来てしまう。

 圭斗が一目惚れした気持ちも分からなくもない気がする。

「二人とも来るの早いですね」

「やだ、敬語使わなくてもいいよ。もっと気軽に話しかけて。ね、翠君?」

「っ!」

 ごめん圭斗。グラッとでは足りず思わずドキッとしてしまった。

「じゃ、じゃあお言葉に甘えて今後タメ口で……」

「既に固いよぉ! ふふっ。でも可愛い」

 俺まで圭斗と同じように赤面するのを自覚する。

「でもほんと今日楽しみだなぁ」

 彼女の頭の近くをふわふわと花が飛ぶ。

「楽しみ、ですか?」

 俺と圭斗が目を丸くしてありす先輩を見つめた。

 こんな俺達との買い物が楽しみだというのか。

「うん。だってぇ、リク会長の私服見られるし、リク会長と洋服見れるし、まるでデートみたいな? そもそもリク会長と休日を過ごせるなんてもう幸せで……はっ!」

 そこでありす副会長は口を噤む。その顔は俺達以上に真っ赤でまさしく乙女の表情。

「あーえっとね、なんでもないの。みんなでお出かけなんてわくわくするなあなんて思って……べ、別にリク会長が来るって言うから来たわけじゃないの!」

 リク会長が来なければ来る気なかったんですね! もうそれ以上しゃべらないでください。圭斗が憐れです。そしてドキッとした自分も惨めになりますから。

 圭斗は困ったような傷ついたような複雑な表情で微笑んだ。

 まあそうなりますよね。好きな相手が別な人を想っているというだけでも辛いというのにまさかゆ……いやなんでもないです。

 何とも言えない微妙な空気が俺達を包み込んだ頃、また一人、いや、二人やって来た。

「だからなんで着いて来るんだよ!」

「いいじゃん! 私も一緒に見たいの! 優くんとお買い物したいのぉ!」

 全体的に黒でまとめた眼鏡男子と何かのコスプレを連想させる赤チェックのミニスカートをはいた女子、それはアンバランスな鈴上姉弟である。

 相変わらず美奈さんは優雅の腕にべったりと絡みついている。優雅は言葉じりは強いもののその腕は無理に払おうとしない辺り実はそこまで嫌がっていないのかもしれない。

 それでいてはたから見るとカップルに見えなくもない。

「別に今日じゃなくてもいいじゃん。美奈姉は部員じゃないんだし」

「どうしてそうやって優くんは私を仲間はずれにするの?」

「おい何でそんな泣きそうな顔すんだよっ!」

「ほんとはたから見るとカップルの口喧嘩に聞こえるぞ」

 いよいよ人の目が集まって来たので軽く突っ込みを入れて止めに入る。

「すみません。姉がどうしても一緒に来るときかないもので」

いつもの敬語真面目キャラで眼鏡を押し上げる。

「とにかく美奈姉は帰れよ」

「なんで? 邪魔? そんなに私が嫌?」

「……もーそれ弟に使うセリフじゃないから。てかそんな可愛い顔されても……反則なんですけど」

 ん? 一文「。」が付いてから付け足された一言、今なんつった?

「もう折角来たんです。美奈さんも一緒に行きましょうよ」

 俺が突っ込みを入れる前にありす副会長がぱちんと手を合わせて微笑む。すると誰も反対できず、優雅も結局二酸化炭素の塊を吐き出して「仕方ないですね」と眼鏡を押し上げるばかりだ。

 そこにサングラスをかけたいかにもチャラそうな男が歩みよって来た。

「時間ぴったりってとこ? いやー五分前にはつく予定だったんだけどね、逆ナンにあって」

 あーそうですか。

 確かに近くを通る女子たちが「あの人カッコよくない?」と囁きながら去ってゆく。

 それは認めよう。逆ナンにあうのも分かる。そして俺達といるとなお引き立つことも認めよう。だがそれを分かった上で「俺モテます」アピールはイラッとする。

「ところで会長は?」

 俺はあえて話題を逸らした。

「そういえばリク会長だけがまだ来てませんね。既に一分四十二秒の遅刻です」

「優くん細かいよぉ! 女の子なんだから十分位の遅れは大目に見てあげようよ?」

「男であろうと女であろうと関係ありません。時間は守るべきです」

「もっともあいつは女じゃねえ」

「もう優くんと聡ちんまでそんなこと言うー」

 美奈さんが口を尖らせる。

 待て待て待て。今会話の内容が全てぶっ飛ぶような単語が聞こえたぞ。

 さとちん? 誰?

「あの、聡ちんって?」

 さすがに聡哉も聞き流せなかったらしい。

「え、あーそう! 聡哉君は聡ちんで、翠君はみどりん、圭斗君は圭にゃんって呼ぶことにしたの。あだ名だよ」

 語尾に星がついて聞こえるくらい自信満々な口調ですけど突っ込みどころ満載です、美奈さん。

「ありすちゃんはありりんだよ」

「あ、ありりんですか?」

 ありす副会長も何とも言えなない表情で復唱する。

「いや、俺は普通に聡哉でいいんですけど」

「何言ってるの? そんなんじゃあいつまでも溶け込めないよ? やっぱ始めはあだ名で呼び合うことからでしょ!」

 別にあなたと溶け込む必要はないんですけどね。部員じゃないし、そもそも生徒ですらないし。というか溶け込む以前に周りに聞かれるのがとてつもなく恥ずかしい。

「やめてください。みんな反応に困っているじゃないですか。あだ名なんていらないんです」

「嘘。私がずっと優雅くん言ってたら優くんからあだ名欲しいって言ったじゃない!」

「い、いつの話してるんですか!」

「何? それとも優くんは自分以外の男が私にあだ名つけられるのが嫌なの? 妬いてるの?」

「ち、違うからっ!」

 優雅の顔が一瞬にして茹で上がったタコと化す。

「ならいいじゃない」

「もう勝手にしてください……」

「あ、でも優くん、これだけはわかっていて。例え誰にどんなあだ名をつけたとしても優くんより愛着のある人なんていない。優くんが一番。だって優くんが世界で一番大好きだもん!」

 まさかの告白。美奈さんは彼氏に抱き着くが如く優雅の腰に腕を巻いて強く抱きしめる。

 もう本当に姉弟には見えない。

 優雅は優雅で何気嬉しそうにでも恥ずかしそうに視線を逸らす。けれど決して言い返したり突き放したりしない。

 それを見かねたありす副会長は苦笑し、スマートフォンをカバンから取り出した。

 時間は既に十時を二十分も超えていた。

「リク会長来ないなぁ……」

「ああの、で電話とかしてみたら、どどどうです、か? く来る途中何かあったのかも」

 圭斗が遠慮がちに口を開く。視線がちらりとありす副会長のスマートフォンを撫でた。

「で、電話……?」

それを聞いたありす副会長は手の中にあるスマートフォンをじっと見つめた。その顔はほんのり赤みを帯び、緊張した面持ちである。

 その姿は本当に可愛らしい。アニメから出てきたかのようなできすぎたヒロイン。

 ただ何故その反応が今であるかは突っ込みどころなのだけれど。

「そ、そうよね! ただの安否確認だもの! 電話したって……」

 安否確認って大袈裟な。いやそれより手が震えているのが目に見えてわかる。

 この人電話ひとつでどんだけ緊張してんだよ。

 ありす副会長は震える手で操作し、耳にスマートフォンを近づけた。

 すると一帯は静けさに包まれた。トルルルルルルという呼び鈴が俺達まで聞こえるほどそれは大きく鳴っていた気がした。だがリク会長の男気全開な声は全く聞こえない。

 やがて聞こえてきたのは「おかけになった電話は」という機械的な声を発する留守番電話サービスだった。

「出ないですね」

 いよいよ本気で心配した表情を浮かべたありす副会長は電話を切り、不安の声を漏らす。

「事故とか事件に巻き込まれたのかしら?」

「それはないんじゃね? 別にそんな心配することじゃねえよ」

 聡哉がめんどくさそうに口を挟む。

「どうしてそう言い切れるのですか!? リク会長は今まで生徒会会議でも一度として遅刻した事ないんですよ!?」

「なんでキレるんだよ。もう行こうぜ。どうせ待っても来ねえよ」

「リク会長がどうなっているのか分からない状況下で呑気に買い物しようと?」

 ありす副会長は眉を吊り上げ聡哉に軽蔑の眼差しを向ける。

「ならお前一人ここで待ってろよ。奴の安否が分かるまでさ」

「ちっ。このクズがっ」

 …………。

 何があったのか理解するのに時間を要したのは俺だけじゃないはずだ。圭斗も美奈さんも優雅も、言われた聡哉さえも言い返すのを忘れて目を丸くしてありす副会長を見つめる。

 確かに誰が見ても聡哉に非があった。それに間違いはない。間違いはないのだけれど……何というか、ありす副会長が豹変、した。

 やはりあの時部室で聞いたのも間違いではなかったのかもしれない。だが次の瞬間再び錯覚する。

「私、会長の家に行ってみます。皆さんは先に行っててください」

 元の完璧すぎるヒロインに戻った彼女は切なげに微笑む。それは今にも消えてなくなりそうな雛菊みたいに儚く可憐だ。でも雛菊の花言葉の一つにある「幸福」とは無縁だ。

「ぼ、僕も、行く、よ。ぼぼ僕だってリク先輩のこと、し、心配だし……」

「え?」

 ありす副会長は目を丸くして圭斗を見つめる。

「そうだよ! 圭にゃんの言う通り。私たちも心配だよ。(みんな)で行こう!」

「……あの人がいなければ物の選びようもないですしね」

 優雅が眼鏡をくいと押し上げる。

「そうと決まれば行きますか、ありす副会長?」

 最後に俺が歩き始めることを促すと、ありす副会長は俺達の顔を順番に見て笑顔で「はい」と頷いた。

 そして俺達は歩き出す。ただ一人聡哉だけは気に喰わぬ様子で俺達と少し離れて歩くのだった。


 リク会長の家は駅からそう遠くはなかった。徒歩数十分に行ける範囲である。

 けれど家を見た瞬間どれ程かかったかなんてどうでもよくなった。ありす副会長を除いて誰もが口をあんぐり開け、自分たちの目を疑った。

 まず正面から見た時真っ先に目に飛び込んでくる門扉が馬鹿でかい。それは城壁かと思う。その門をくぐると玄関までの道のりは長く、道の左右には立派な芝生が生い茂っていた。オブジェとしておかれた木は庭師によってカットされ、見事に生きているかのような動物型がそこにはあった。

 漸くその道を進むと家というか、屋敷の玄関にたどり着いた。

 うん、結論を言うとかなりの豪邸だった。

 ありす副会長は何度か訪問しているのか慣れたように歩き、何の躊躇いもなく玄関のインターホンを押した。インターホンはそこらの家みたいな安っぽいピーンポーンなんて音ではなくゴーンという重苦しい音だった。

 その音に呼ばれて姿を見せたのはスーツを着たおじいちゃんだった。おじいちゃんと言っても白髪交じりではあるけれど背筋はぴんと伸びていてスーツが似合う若々しい人である。

「これはこれはありす様、お久しぶりで。どうかなされましたか?」

 おじいちゃんは言葉も滑舌が良く、年齢がつかめなかった。

 まさかと思うがこの人この家の専属執事とかそんな感じなのか!? リク会長ってそんなに金持ちだったのか!?

「お久しぶりです、幸爺(ゆきじい)。リク会長はいらして?」

「ええ、いらっしゃいますとも。ただいま御呼び致しますので少々お持ち下さい」

 幸爺と呼ばれたおじいちゃんは一端家の中に引き返す。

 取り残された俺は、いやたぶんありす副会長を除く全員が今だ状況を理解できていない。とにかく突っ込みたいことがたくさんある。

 まずいるんかい! 何してるんですか! という心配した時間を返せと怒鳴りたいのが一つ。もう一つはあなたは何者なんですか! 幸爺って誰! など驚きを隠せない叫び。

 だけれどそんなものさえも再び扉が開いた瞬間忘れ去られた。

 扉が開いて姿を現したのは――――

「誰?」

 思わず俺は漏らしてしまった一言。

 何せいつものストレートな黒髪はウエーブが掛かって波を打っている。服はパジャマっぽいのだけれど普段からは想像つかないフリルのロングワンピース状になった寝間着(?)みたいなものを着ていた。

 とにかく日常のリク会長とは無縁な姿がそこにはあった。女性らしくどこか高価な陶器人形を思わせるお嬢様育ちの少女は一体誰だろう。

「リリリリリク会長! ご、ご無事で何よりです。でもその何といいますかその恰好は無防備と言いますか反則と言いますかいや可愛すぎて私の目には神々しすぎます」

 さすがにありす副会長もこんなリク会長を見た事ないのかかなり動揺し、赤面している。

 でも今回ばかりは赤面したのは彼女だけじゃなかった。俺も少しだけ頬が高潮するのを自分で感じた。

 実際今のリク会長はかなり可愛い。これを世はGAPことギャップと呼ぶのだろう。

 ところが当の本人はまだ寝ぼけ眼のようで目をこすりこてんと首をかしげている。

「ん? ありす、何の話をしているのだ?」

「え、あ、ほら今日ホスト部の備品を買いに行くと……」

「………………」

 しばしの沈黙が落ちる。その沈黙が破られるのには数十秒時間を要した。

 リク会長の目はだんだん見開かれ、ついでに頬が赤く染まる。

「……き、着替えてくる!」

 リク会長はバタンと扉を閉め、中に引っ込んでしまった。あまりの勢いに強風が俺達の髪を揺らした。

 それはあまりに普段のリク会長とは違いすぎて別人かと思ってしまう。

「ったく忘れてたのかよ」

 漸く聡哉が口を開いた。そこで男子勢はふっと我に返り「言いだしっぺが聞いて呆れる」と肩を竦める。

 それに対しありす副会長はすっかり頬を赤らめ、小さく「リク会長可愛すぎる超絶天使ッ」と呟いていたけれどスルーする。美奈さんも笑顔で「リクちゃん可愛いねぇ」と穏やかに言う。

「それにしても今更ながらすごい豪邸だな」

 俺も我に返ったところでリク会長についての感想を述べるのは何だか気恥ずかしいので話題を逸らしたことを呟く。するとありす副会長は俺の方を振り返り説明してくれた。

「リク会長は実はかなりのお嬢様育ちなんですよ。何せ財閥家の一人娘ですもの。だから常に気品溢れ美しく可憐なのだわ」

 その説明に多少の誤りがありそうな気がするもそこはあえて突っ込みは入れないことにしよう。

 どうせ入れる間もなくリク会長が再び姿を現した。先ほどとは打って変わって髪はいつも通りのストレートになり、服はTシャツにパーカー、スキニーパンツという男の人のような身なりだった。スキニーに包まれた足は相変わらず細長い。それなのにショートブーツのヒールを履いているのだからなおさらだ。

 一瞬にしてイケメンへと変身を遂げたのである。

「あぁ、リク会長、今日も素敵です」

 嘆息の声を漏らし、うっとりとしたありす副会長の視線がリク会長を見つめる。

 リク会長は苦笑し、口調も打って変わった。

「待たせてすまなかったな。今幸爺に車を出させる」

 間違いなくいつもの会長である。

 俺達は会長の後に続いてきた道を戻った。そして強大な門扉までやってくるとそこには黒いボディーの長い車が準備されていた。これを世はリムジンと呼ぶ。ちなみに生で見るのは初めてだ。

 例の幸爺が運転席から降りてくるとわざわざドアを開けてくれた。

 何だか現実味に乏しい目の前の光景は映画の一部をスクリーン越しに見ているみたいだった。だから俺はしばらく歩みだせなくて乗り込めなかった。

 でもみんなは平然と乗ったらしく、俺はリク会長に「早く乗れ」と背中を押され、漸く乗り込んだ。

 後に続いてリク会長も乗り込み、やっと車は動き出した。

 中は軽自動車三、四台分の収納スペースはあろうかという広さを誇っていた。

「いや本当に申し訳ない」

 車が走り出すと真っ先にリク会長が謝った。

「すっかり忘れていた」

「お前が言いだ」

「でも事故とかではなくて良かったです!」

 聡哉の不満な声は見事にありす副会長の声で切られる。

 当然聡哉はむっとしたが今回ばかりは人に構っている余裕などない程俺も困っていた。

 乗った順に座ったので偶然リク会長とありす副会長との間に挟まれてしまったのだ。

 いくら広いと言えありす副会長はリク会長と少しでも近づきたいのか詰めてくるし、リク会長は無意識的に近い。

 今の発言の時なんてありす副会長は身を乗り出しリク会長の方を向こうとするあまり豊満な胸が俺の腕にあたっている。

 こんなこと未知の体験である俺はついどぎまぎしてしまう。それを少しでも紛らわそうと話題を振る。

「にしてもリク会長がこんなにお金持ちだとは知りませんでした。その何というか、お嬢様の気取った感じがないというか……」

「まあ私はずっと男みたいな性格だったからな」

「にしてはあの寝巻、似合ってたけどな」

 一番離れた所からからかうような嫌味を聡哉が飛ばしてくる。するとリク会長は柄にもなく頬を赤くして俯いた。

「あ、あれはその、親の趣味だっ!」

「とか言ってベッドとかぬいぐるみがあったりして」

「っ!」

 あー図星なんだ。なんて分かりやすい。

 リク会長は先ほど玄関で見せた赤面より一層赤みを増す。

 こうやって見ると普通の女の子なんだよな。

 そんなことをつくづく思うと可愛いなと思ってしまう。

 ただ俺の感情よりも隣に座る人の感情をどうにかした方が良さそうだ。リク会長の寝室を思いだしたのかひとしきり悶え肩を震わせている。

 うん、俺の手には負えそうにない。

「と、とにかく私が財閥の娘で金持ちである事は黙っておいてくれ。できるだけ知られたくないんだ。色々と面倒だからね」

「その見返りに俺達には何をしてくれるわけ?」

 意地悪く聡哉が猫みたいな笑みを浮かべる。

「逆に何がお望みだ?」

 リク会長は気にした様子もなく逆に尋ね返す。

「そうだな、例えば……」

「やめなさい」

 そこでぴしゃりと優雅が言った。眼鏡をくいと押し上げる。

「誰にでも知られたくないことはあるものです。それを弱みとして握るなんて男以前に人間として最低だと思わないのですか?」

 空気が凍り付いた。まさか優雅がそんなこと言うなんて誰が想像できた?

「お前みたいな男に男語られたくないんだけど」

 聡哉がキレかかる。空気はピリピリしていた。まるで氷のように冷たいそれは今にもヒビ入りパリンと音を立てて割れそうだった。そこでその空気を暖め、緩和するように美奈さんが優雅に抱きつく。

「やーん! 優くんカッコいい! 聡ちんのエグさもたまらないけどぉ、優くんの正義感もいいね!」

「やめろよっ! 真剣な話してるんだから!」

「ちっ。このシス」

 今日の聡哉は尽く遮られる。

 聡哉が口を開きかけた途端車が大きく揺れた。急なカーブでも曲がったのだろうか。バランスを崩した聡哉は口を噤む。俺もあまりに急だったので体のバランスを崩し、車が揺れるのと一緒に自分も動いてしまった。

 まずいっ!

 自分でそう思った時にはすでに遅かった。気が付けば――――

「翠、君、だだ大丈夫、ですか?」

 まるでリク会長を押し倒すようにリク会長の上に軽く上半身が乗っていた。この状況を理解した時にはリク会長の顔が目の前にあって互いの鼻に吐息が触れるくらいだった。

「俺は大丈夫! てかごめんなさい! リク会長は大丈夫ですか!?」

 俺は体を起こすと同時に頬を赤らめた。

 こんな恥ずかしい思いをしたのは初めてだ。何せ自分の意思じゃこんなことする勇気なんて一ミリもないのだから!

 ところがリク会長は大して気にする様子もなく起き上がって緩く微笑む。

「大丈夫だ。幸爺にはあとでもう少し運転に気を付けるよう注意しておくよ」

「あ、いや、そんな……俺がもっと気を付けていれば」

「まあ別に怪我したわけじゃないし、気にすることはないさ」

 この人なんて中身もイケメンなんだろう。

 俺は心の底から会長を人間として尊敬した。それと同時に今の出来事で何も感じられてないということは男として見られていないのかという複雑な悲しみがこみ上げてくる。そして背中に突き刺さるような鋭い視線を感じる。

「ほんと、リク会長が怪我しなくて何よりです!」

 まるで嫌味のようにありす副会長の言葉が俺を貫いて会長へ飛ばされる。それは想いの詰まった弓矢のようだった。


 デパートに着くとまず俺達は服を揃えることにした。

「やはりホストと言えばスーツだよな」

 リク会長は当たり前のように言うけれど実際問題スーツなんて買う余裕、部費のどこを探してもないように思う。スーツは一着だけでもかなりの値段を張る。とてもじゃないが手を出せる範囲じゃない。

 同じことを聡哉も思ったのか口を開く。

「スーツはだめだ。高い。部費じゃ揃えられない。それなら安い店で黒のパンツと白か黒のシャツにジャケットを探した方がいい」

「聡ちんの言うとおりかも。カジュアルの方が女の子も近寄りやすいよ。それにおしゃれネクタイみたいなのつけて、ネクタイはあえてイメージカラーでみんなバラバラとかどう?」

 美奈さんも楽しそうに割って入る。

「確かに二人の言う通りかもしれない。ならそういうのが揃えられそうな店に行こう」

 一行はデパートを歩き若いメンズ向けのリーズナブルな店に移動し、服を選び始めた。

 そしてそこで「あれは」「これは」と話し合い、結論が出たところでリク会長が一番に試着室に入った。

 何故リク会長が一番なのか、そもそも何でメンズサイズが合うのか、という疑問は呑み込んでカーテンがシャッと閉められるのをおとなしく眺める。

 そこから二分くらいの時を経てカーテンは勢いよく開く。その瞬間ありす副会長は息を呑んだ。

 スラッと長い足は黒いパンツに包まれ、白いシャツはしっかりズボンにインされているのにダサくない。ボタンは第二まで大きく開き、青いネクタイが緩めに胸元を飾る。(それでも谷間が見えないのはリク会長が失礼ながらも貧乳であるからというのは禁句である。)最後に黒のジャケットを羽織りコーディネートは完成した。

 リク会長はパサッとストレートの髪をなびかせる。

 その周りにはプリクラなどでありがちなバラのフレームがあるように見えた。

「どうだ?」

 どうもこうも一人目にしてハードル高すぎなんですけど。本物の男以上に漢の方がカッコいいフラグなんですけど。

「り、リク会長……」

「キャー! リクちゃんカッコいい!」

 ありす副会長は言葉を失い憑かれたようにリク会長を見つめる。美奈さんにおいては最早叫ぶ。

「そうだな、例えばこんな感じか?」

 リク会長は試着室を出てありす副会長に歩み寄った。そして跪き、手を取る。

「お待ちしていました、マイプリンセス」

 その手の甲にキスをすると彼女はすっと立ち上がった。それはホストというより王子様っぽい。

 ありす副会長の体はくらっと揺れた。それは既に死に際を彷徨っている。当然死因は萌え死に、もしくは悶え死か。

 どうしてそう恥ずかしいことをさらっとできるのだろう。

「ふん。男もどきに俺が負けるわけねえだろ」

 聡哉が鼻を鳴らし、試着室に姿を消す。

 それは数分後に開き、そして再び別な誰かが息を呑んだ。

 リク会長と同じ黒のパンツに黒のジャケット。しかし中のシャツは白ではなくシャツすらも黒。第二ボタンまで開け、緩く結ばれたネクタイはワイン色。熟成され、濃密な味を秘めたワインのようなネクタイは何だかエロい。まさしくホストそのもの。銀座にいたら確実にそう思うだろう。

 近くを通った一般客の女性たちがリク会長や聡哉の方を振り返っては友達とこそこそと囁いて通り過ぎてゆく。

 どちらもハイレベルすぎて辛い。

「で、こうすればいいんだろ」

 聡哉は美奈さんに歩み寄り顎をぐっと掴む。そのまま自分の方に向かせ、低く囁いた。

「俺に会いたかったんだろ?」

 まるでドラマのワンシーン、撮影現場を目にしているような気分だった。

「やーん! ストライクッ!」

 美奈さんは興奮気味に叫ぶ。

「私結構Sッ気ある人好きなんだよね! もう年下のくせにSとか何それ萌えるー!」

 叫ぶだけじゃ足りなかったのか壊れた。

「ちょ、ちょっと! 人の姉に何してるんですか!? 常識わきまえてください!」

 本気で優雅がキレ、美奈さんの顎に触れる手首を掴み引き剥がす。それから眼鏡を中指で押し上げた。

「あぁ? 何、妬いてるわけ?」

「べ、別にそういうことを言っているんじゃ」

「ならお前もさっさと着替えて大好きなお姉さんの心捉えとけば? 俺なんかに揺らがないように」

「っ!」

 聡哉は嘲笑うかのように舌なめずりして挑発する。やっぱりその姿はエロい。それに対し優雅は軽い咳払いをして腕を組む。

「だ、大体学生たるものこんな卑猥且つ如何わしい事をするべきではありません。このような事をする部活であるならば自分は部を辞めます」

「そんな寂しいこと言わないでよ!」

 美奈さんが全力で優雅に抱き着く。

「私カッコいい優くんの姿みたい。優くんも着替えてよぉー!」

 ほんとどこのカップルだよ。当然優雅は嫌だと首を横に振るかと思いきや……

「み、美奈姉がそう言うなら、一回、くらい……」

 あーやるんですか。やっぱりお前シスコンなんだな!? そうなんだな!? 聡哉の言う通りだお前はシスコンだ!

 確かに美奈さんは可愛らしい人だけどどんだけお前はお姉ちゃんが大好きなんだよっ!

 優雅は一瞬躊躇いながらも試着室に入る。

 それから確実にリク会長と聡哉よりも俺達を待たせて登場した。

 その割に正直ぱっと見思ったのはどこのサラリーマンだよっ! という突っ込みだった。

 黒のパンツ、白いシャツ、黒のジャケット、この時点でリク会長と同じなのにカジュアルさがない。それはそのシャツは上までしっかりボタンが閉められているからだろう。黒のネクタイもぎっちり第一ボタンが見えないくらい上げられているのであった。

 その姿はしばしの沈黙を生み出す。

 やがてリク会長は黙って優雅に歩み寄り、いきなりネクタイをぐっと掴み引き寄せる。何だかそれは銀座のホストに絡まれるサラリーマン。

「な、何する、んですか」

 優雅の苦しそうな声を無視し、ネクタイを緩め無理矢理ボタンを外す。

「ちょっとやめてくださいよ! こんなだらしない! セクハラ容疑で訴えますよ……!」

「ちょっと黙ってろよ。あー眼鏡も外せ」

 問答無用で眼鏡が外される。

 するとそこには別人が立っていた。想像を遥かに超えるイケメンがそこにいる。元々長身でスタイルが良かったのもあって服はばっちり着こなしているし、眼鏡で隠れていた目元はくっきりして実は鼻も高い整った素顔である。

 ただその顔は現在湯気が出そうなほど真っ赤でカッコいいというより可愛らしい。

「うん、お前コンタクトにしろよ。いや、でもあえて部活の時のみ眼鏡を外すのもありか?」

「眼鏡外す気はありません。返してください。こんな淫らな姿……」

「優くん……」

 うっとりした美奈さんの声が優雅の言葉を遮る。

「こんなカッコいい人今まで付き合った人にはもちろん見たことすらないわ! 本当に素敵ッ!」

 美奈さんは手をぱちんと合わせる。

 そこまで絶賛するほどか? というか姉としてそれを言うって恥ずかしくないのか?

 ところが優雅はそれどころじゃないらしい。顔を曇らせて口を開く。

「美奈姉やっぱり彼氏いたんだ」

 なんで傷ついてるの? 君ら姉弟なんだけど、わかってる?

「え、あ、うん。何人か付き合ったことあるよ。今はいないけど」

「ちゃんと言ってほしかったな。もし美奈姉を悲しませるような奴、だったら自分が、許さない、から」

 うん、弟は恥ずかしいという感情があるらしい。歯切れの悪い言葉が漏れる。

「やだ妬いてるの?」

「別にそんなんじゃ……ない」

「……ほんとに優くんって可愛い!」

 美奈さんが優雅に強く抱き着く。

「うわ、ちょ、美奈姉!」

「本当に仲の良い姉弟だな」

リク会長が微笑ましいものでも見るように目を細めて笑う。

 もう仲が良いとか言うレベルじゃないんですけどね。

「くっだんね。次さっさと着替えろよ」

 呆れたように聡哉が漏らす。

 そこで俺と圭斗の視線がぶつかった。けれど圭斗はさっきからずっと存在を消そうとしていたかのように黙っている。今もただ目を逸らし俯く。

 俺は圭斗の気持ちに察しはついていた。

要は嫌なのだ。あまりに最初の三人がレベル高すぎて。何だかんだで皆似合っている。その後に自分が回ってくるプレッシャー。できるなら着ることなく逃げ出したい。

でもそんなことは許されない。それは圭斗も分かっていた。だから――――

「ぼ、僕が、先に、着るよ」

蚊の鳴くような声が響く。

それは俺でさらにレベルが高くなると思った結果か。だとしたらそれは見当違いもいいところ。

でも正直圭斗なら優雅や他二人を超えることはないだろうと安堵した。だから「いいよ」と一言言って試着室を譲る。

それから数分後、カーテンは静かに空いた。

 素直に答えよう。一気にレベルが下がった。無理に開けた第二ボタンから覗く鎖骨は細く、どこか病的に見える。何よりも取って着けた様な薄いオレンジ色のネクタイが特に似合っていない。これならよっぽど制服のほうがいい。

 俺達は何て発していいのか言葉を探した。けれどどこを探しても見当たらない。だが一人は見つけたらしい。

「あはははははははははっ!」

 ただしそれは言葉ではなく笑いだった。お腹を抱え、声をあげて笑う。その声はリク会長のものだった。

「ちょ、ちょっとリク会長!」

 俺が気を使ってリク会長と圭斗を交互に見ながら笑うのをやめるよう促す。ところがリク会長は目に浮かんだ涙を拭い、さらに残酷なことを述べる。

「いやいやだって似合わなすぎだろッ!」

 いやいやそれ言っちゃダメでしょッ!

 実際心で突っ込みを入れるが否定はできない。

 圭斗は頬を赤らめ、リク会長とは正反対の涙を浮かべる。それは彷徨った仔犬を連想させる。

「……圭斗君は顔が可愛い系だからこういうのじゃない方がいいんじゃないかしら」

 そこでありす副会長が真面目な口調で割って入る。そして圭斗に歩み寄りネクタイを外した。(その瞬間圭斗の心臓はどれだけ大きな音を立てたことだろう。)

 それから店内を見回し、歩き出し、あるものを手に戻ってくる。それは薄い茶色のカーディガンだった。

「これを上に着てみて」

「……」

 圭斗はどぎまぎしてるのが明らかにわかるおぼつかない手つきでカーディガンを受け取る。その間決してありす副会長の事を直視しない。

「どうですか、リク会長。これでエプロンをさせて料理してたらショタ好きが黙ってないと思うんですが」

 確かにあえて大きめのカーディガンを着せることで袖をぶかぶかにする、所謂萌え袖になっていてさっきより断然いい。雰囲気にもあっている。でもまさかありす副会長の口から「ショタ」という語を聞くとは思ってもいなかった。

「さすがだな、ありす。すごくいいよ。さっきより遥かにいい。うん、圭斗はこれでいこう!」

「うん、圭にゃん可愛い! いいと思う!」

「よく考えたな」

 リク会長がぱふっとありす副会長の頭に手を置き、軽く撫でる。するとありす副会長は嬉し恥ずかしそうに俯く。

 なるほど。褒められることが目的か。

「じゃあ最後は翠だな」

 リク会長が撫でるのをやめ、気が重くなるような一言を述べる。

 このノリで回ってくるやりづらさというか、居づらさは言葉にしにくい。

 しかし今更「俺は着たくない」なんて批判しか返って来なさそうな言葉を口にする勇気など一ミリもなく、溜息を吐いて肩を竦める。そして試着室に足を踏み入れる。

 カーテンが閉まるとそこは自分と鏡の中の自分、二人の世界。

 もしかしたら俺も爆笑されるかもしれない。そう思うとパンツに足を通すことさえ億劫に感じてしまう。

 俺は思うのだけれど鏡で見る自分には偽りがあると思う。いや、映っている自分に偽りはないのだけれど、それを見る自分の目に偽りがあると思う。

 大体の人が鏡を見る一瞬前にこうであってほしいという理想、もしくは願望を抱く。

 それを抱いた上で鏡を見ると目や脳が勝手に理想に近づけようとする。そして自分のいいように解釈する。目にフィルターをかけて美化する。店だとその効果は絶大だ。

 だが家に帰って冷静にフィルターを外して見ると幻滅する。だから買っても一回も着ない服がざらにあるのだ。

 つまりたらたらと何が言いたいかというと、今俺はこうして柄にもなく黒のパンツを穿き、白いシャツは第二ボタンまで開けて名前通り緑のネクタイをしている。それは実のところひどく似合っていないとは思わない。

 けれどもこの考えがフィルターなのかもしれない。自分の都合のいい幻想。他者から見たら似合っていないのかもしれない。つまりそういうことだ。

 そうなるとやはりカーテンを開けるのは勇気がいるのだ。

 そう、結論はそれ。長々と言い訳がましく言ってみたが要は出たくない、その一言だ。

 でも籠り続けるわけにもいかない。実際いよいよ痺れを切らした外のメンツが「まだ?」と呟き始めているのだから。

 俺は溜息を一つ吐き、笑われるのを覚悟でカーテンをゆっくり開けた。

 どうせ俺はこんな服一度も着たことねえよ。似合わなくても仕方ない。

 自分に言い聞かせる。

 ところが開けた先は静かだった。笑う声も批判の声もない。堪えているのだろうか。

 俺は奴らから視線を外し、小さくいった。

「笑いたかったら笑ってください」

「はあ?」

 リク会長の素っ頓狂な声が即座に返ってくる。そこでようやく俺はリク会長に視線を向けた。

 リク会長は目を丸くして俺を見つめていた。

「あの……」

「お前、予想以上に似合ってるぞ」

 それ、褒められてるんだよな?

「うん。今まで着たことがないっていうのが分かるくらい馴染んではいないが似合ってる」

 やっぱり貶されているんだろうか。

「てっきりお前はヘタレ代表だと思ってたし、こういうのは似合わないかと思ってたよ。やればできる子だな。いや、もしかしたらヘタレ代表だからこそこうやってカッコつけることで微笑ましく似合って見えるのか?」

 あのよく言っている意味が分からないんですけど、要はいいんですね? 褒められているんですね?

「うん、私は翠が好きだ」

「なっ!」

 ななななんてことを言いだすんだこの人はっ!

「失礼、制服よりこっちの翠の方が好きだという意味だ。色々言葉が抜けた」

 抜けすぎですよ紛らわしい!

「でもこれで私たちの服はそろったな」

「私たち(・・・)の(・)()は(・)?」

 聡哉が違和感を覚えるリク会長の言葉に反応する。

「ああ。手伝いでありすも来てくれるというのだ。だからありすの服も準備するべきだろう?」

「えっ!?」

 ありす本人が一番驚いたように目を見開いてリク会長を見つめる。

「でもありりんはこういう感じじゃないよね」

「うん、美奈さんの言う通りだ。私もそう思う。そこでありすにはメイドとか、フリルの多いものを着てもらおうと思うんだがどうだ?」

 きっとそれがリク会長の言葉じゃなかったら断られていたはずだ。でもリク会長だからこそありす副会長は赤面し、俯く。そして

「わ、私は、リク会長がそう望む、なら……」

 頷く。本当にこの人、リク会長のこと好きなんだなと実感する。

「よし、じゃあ会計したらありすの服を探しに行こう」

 ただ相手であるリク会長は自覚してないんだろうなともしみじみ思う。

 まあそれはいいとしてリク会長に文句はなかったし、むしろ賛成だった。でも聡哉だけは違った。

「めんどくさ。俺は一人で別のところ見てるから」

 そう言ってひらひら手を振って人ごみに消えた。いつの間に着替えなおしていたのだろう。

 圭斗は止めたけれどリク会長は首を横に振った。

「放っておけ。服はちゃんと置いて行ったんだ。会計はできる。お前らも一端脱げ。会計するぞ」

 俺と優雅は目を合わせ、肩を竦めた。圭斗は戸惑いを隠せない。それでも順に着替え、会計を済ませたのだった。


 その後聡哉を除く一行は女の子が行くような店に足を運んだ。ふりふりした女の子らしい服が並ぶ店内に女子三人男子三人という組み合わせは妙な光景を作り出す。まるでトリプルデートしているようで周りの視線が気になってしょうがない。

 でもそう思っているのは男性陣だけかもしれない。男性陣は三人して視線をきょろきょろ、落ち着かないのに対し女性陣は俺達の存在すら忘れてありす副会長の服選びに勢を出していた。

 これはどうだあれはどうだと手に何着もの服を持って試着室に向かう。何だか男性陣の時よりガチな気がする。それでいて出て来た時のドキドキ感は男子の時とは比べ物にならない。

 一着目はパンツが見えそうなくらい短い長けのAラインワンピース。黒を基調としたそのワンピースに白のふりふりエプロンでもしていればメイドに見えなくもない。

「うん、さすがありす、似合うな。ぜひうちの専属メイドをやってもらいたいくらいだ」

 リク会長の言葉に本気で赤くなるありす副会長は本当に乙女だ。そしてそれを見てアニメよろしく鼻血が出そうな勢いで惚れ込んでいる圭斗はかける言葉すら見つからないようだ。

 その後も次から次へと試着を重ねてはリク会長が褒め称えた。その褒め言葉のレパートリーと言ったら数知れない。決して同じことを繰り返すようなことはしない。とてもじゃないが俺には思いつかないものばかりだった。

 美奈さんもそれをキャッキャッ言いながら見ていて俺達三人の出る幕は一秒もなかった。


 そのころ俺、聡哉は一人デパートを歩き回っていた。

「ったく、くっだんね。あんな奴らといると俺までダサくなりそう」

 文句たらたらに歩く。それでもただ歩いていれば女の子は振り返る。そして

「あの人超カッコよくない?」

「ファッション雑誌とかに載ってそう」

 囁くのだ。

 それは実に気分がいい。それも奴らといるより一人の方が言われるのだから尚更。

 もちろん自分でもカッコいいことは自覚済み。女の子に囁かれるまでもない。

 今日だって

「うおっと!」

 女の子から胸に飛び込んできた、というかぶつかって来た。

 でもこんなことは日常茶飯事。それも大抵の女子は俺に絡まれたい目的でわざとぶつかってくる。まるで少女マンガみたいに。馬鹿らしい。そんな夢じみた話、あるはずがないのに。   

 だけど俺も紳士だ。その思考に気づいていながら知らぬふりし、可愛い子のであればその少女マンガじみたストーリーを完成させてあげるべく、口説く。まあ可愛くなければ……ストーリーはそこでジ・エンド。

「大丈夫?」

 俺は自分の胸元を見下ろした。そこには黒の豪奢なフリルに包まれた病的に肌の白い少女が立っていた。

 所謂ゴスロリという服装に身を包んだ少女は冗談抜きで高価なヴィスクドールのように美しかった。

 こんな一瞬で吸い込まれるように魅入るのは俺にとって初めての事だった。今までに出会ったことのない人種。正直自分のモノにしたいという欲求が即座に生まれてきた。

 ところが誰もが振り返る美貌を持ったはずの俺に放った少女の第一声は――――

「きっも」

 だった。

「え?」

 俺は自分の耳を疑った。この俺がキモい、だと……?

「ほんと穢れる。……邪魔だよどけ」

 ゴスロリ少女は見た目には合わぬ口調で暴言を吐く。

 俺は頭が追い付かなかった。本当に言葉を発しているのはこの目の前に立つ少女なのか?

 それでもなんとか俺は言葉を紡ぎだす。

「ちょ、ちょっと待て。ぶつかってきたのは君の方だよね? もっとなんかこう言い方ってものないのかな?」

 辛うじて女の子に接する好青年を演じる俺だったがその笑顔は自分でもわかるくらいひきつっている。

「はあ? 変な言いがかりつけんなクズ。ほんとキモい野郎だな」

 ブチッ――――――。

 俺の中で何かが音を立てて切れた。そして本性が出る。

「あぁ? 黙って聞いてりゃ言ってくれるじゃねえか。俺はクズじゃねえ。言いがかりはお前の方だろうが! それから俺はキモくねえ。むしろイケメンだから」

「うっわ自分で言いやがったよこいつ! ほんと救い様のないキモクズ野郎だな! ちっ。折角の休日が台無しなんですけど。さっさと消えろ目障りなんだよ」

「お前人の事ばっか言ってるけどお前も相当可愛くねえぞ」

「おめぇに可愛いとか思われたくねえよ。むしろ思われて方が虫唾が走る」

「っテメぇ!」

「それ以上しゃべんな。酸素の無駄遣いなんだよ」

 少女はキッと俺を睨み吐き捨てて去って行ってしまった。

「ほんと、可愛くねぇ」

 その背中に向かって小さく呟く。

 いつもならここまで言われればこっちから願い下げだと踵を返すが(そもそも言われたことないけど)、今回はそれでも気がかりというか名残惜しく感じたのは初めて感じるものがあったからか。わからない。とりあえず俺の心に深く印象づいたのは確かであった。

「……」

 そこであることに気が付いた。足元に何か落ちているのだ。

「なんだ、これ」

 拾い上げるとそこには写真付きで名前やら個人情報が刻まれた手帳が落ちていた。

「彼女の、落し物か?」

 名前の上を視線がなぞる。

「立花、あざか……」


 俺達はその後聡哉と合流し、デパートに入ったフードコートで食事をすることにした。

 各々に食べたいものを買ってきて一つの席に集まる。それは性格を表すように多種多様で誰一人として同じものを注文した人はいなかった。

 ちなみに俺はフードコートの王道マクドナルドのチーズバーガーセットにした。

 リク会長は自分のきつねうどんを啜り、俺がそのチーズバーガーに齧り付くのを見つめて来た。そして口を開く。

「翠、それうまそうだな」

「え、あ、はい、美味しいですよ」

 急に話題を振られて一瞬遅れながらも返事する。だが次の一言の方が遅れるどころか反応に困るものだった。

「一口くれ」

「……え?」

 何故それをもう少し早く言ってくれないんですか。

「あの、えっと、口つけちゃいましたけど」

「だから?」

 リク会長が首を傾げる。

 いやいや所謂間接キッスとやらになってしまいますよ?

「だめなのか?」

「いやだめじゃないんですけど……」

 間接キスについて口にするのは気が引けてつい口籠ってしまう。そうしている間にリク会長は身を乗り出してきた。

「だめじゃないならいいじゃないか」

パクッ。

あ……。

「うん、美味しいな!」

「あ、いや、そうですね……」

 俺は頬が赤くなるのを感じた。ところがリク会長は少しも変わらない。

「というか、お前さっきから頬にソースついてるぞ」

 そう言って頬のソースを指で拭い舐めるという王道的なドッキュン技を繰り出してきた。

 俺は一層頬が赤くなるのが手に取るようにわかった。恥ずかしいことこの上ない。しかしリク会長は平然としている。

「やだみどりん顔真っ赤! 可愛い」

「美奈さんからかわないでください!」

「ったく普通逆だろ」

 聡哉が呆れたように言う。

 仕方ないだろ! こっちだって不意打ちだったんだから!

 ところがやっぱりリク会長の顔に変化はなくむしろ意味が分かっていないようで首を傾げている。

「ん? 何を翠そんなに赤くなっているんだ? てか逆って何が?」

 誰のせいで赤くなってると思ってんだこの人は! 世はこういう人を天然と呼ぶのだ。はあ恥ずかしい。

 だがその恥ずかしさも一瞬で消え去る。自分の顔がまるで信号機が赤から青に変わるかの如く血の気が引いて青ざめてゆく。

 原因はリク会長の隣に座るありす副会長の視線だった。目がきりりと吊り上がり、獣じみた形相で俺を睨んでいる。

「あ、いえ、何でも、何でもないんですよ!」

「ん? どうした? 今度は顔色が悪いぞ? 具合でも悪いのか?」

 心配そうに顔を覗き込んでくる。

 もうやめてください。それ以上俺に絡まないでください。いやもうとりあえず空気読んでくださいよ、会長!

「り、リク会長!」

 ついにありす先輩が立ち上がった。それも机をバンッと叩き付けて。近くにいた客の視線が集まる。

「えっと……その、そう! サーティーワンのアイス食べませんか!?」

「……いいけど、こっち食べ終わってからでもいいか?」

 リク会長は驚いた表情をしつつも自分のうどんを指しながら問い返す。するとありす副会長は「はっ!」と息を呑んで座り直した。

「も、もちろんです」

 それからリク会長は黙々とうどんを啜り始め、俺もありす副会長に睨まれながら食事を再開する。

 その後女子組と圭斗がサーティーワンを買いに席を外した。そこにはイケメンといかにも堅苦しそうな眼鏡少年とごく普通の男子という何とも不思議な組み合わせがあった。

「にしてもあれは本気(ガチ)だな」

 最初に口を開いたのは聡哉だった。

「何が?」

「決まってるだろ、ありす副会長のこと」

「ああ……うん、そうだね」

 ついに口にしちゃうんだ。

「あんな会長のどこがいいんだろうな。男から見ても女から見ても俺は魅力的に見えねえけどなぁ。俺の方がよっぽどカッコよくね?」

 俺は言葉に詰まらせた。そりゃ聡哉は聡哉でイケメンだとは思うけどそれを自分で言っちゃうのはどうだろうか。

「それ、自分で言わない方がいいと思いますけど」

 優雅が眼鏡を押し上げて代弁してくれる。

「あぁ? だって事実じゃね?」

 ……もういいです。俺も優雅も言葉を見つけられず沈黙。だけれどそこに四人が戻ってきてくれたおかげで気まずさはなく終わった。

「優くん一口食べる?」

 美奈さんは自分で一口味見してスプーンを優雅の方に向ける。

「いや、自分は……」

「うーん、優くんは相変わらず甘いものが苦手だねぇ」

「そうなのか?」

 リク会長が割って入る。

「そうなの」

 美奈さんは声を悲しそうにスプーンを置いて語りだす。

「だからバレンタインのチョコもあげられないし、誕生日ケーキも作ってあげられないの! こんなのって酷いと思わない!?」

 いや別にそこまで嘆くことか? どうせ姉弟じゃん。

「でもでも優くんはいつも私のためなら甘いもの買ってきてくれるの!」

 急に声のトーンが明るくなる。

「それにね、毎年バレンタインと誕生日は糸とかレースとか、生地とか、手芸用品頂戴っていうからあげると、手作りの小物にして返してくれるんだよ!」

 女子か! これが噂のオトメン。そこを嘆かず喜ぶ姉はたぶん特殊。

「へえ。裁縫得意なのか?」

「リク会長、からかってますよね? 美奈姉も今はその話する必要ないでしょう!」

「やだ照れてるの? それとも二人の秘密バラされて嫉妬?」

 どこまでバカップルなんだろう、この人たち。

「りょ、両方……」

 あ、弟もまともに答えるんですね。それも両方なんですか。

「やーん可愛い!」

 美奈さんが抱き着く。

「ほんと仲のいい姉弟だな」

 リク会長は微笑ましいものでも見ているかの如く穏やかに言う。実際そんな穏やかなものでもないと思うが、俺としては。だって姉弟にしては問題ありすぎる会話だろ。

「そうだ、翠さっきの御礼だ。一口食べるか?」

「あ、えっと……」

 いきなり話題振られたのとありす先輩に睨まれたので言葉をのどに詰まらせる。

「なんだ、翠も甘いもの嫌いなのか?」

「いえ、むしろ大好きですよ!」

しまった……。つい本音が出てしまった。

「なら、ほら。あーん」

あーんじゃないよ! 恥ずかしい上にいい加減隣に気づけよ! すっごく俺睨まれてるんですけど。

思わずタメ口で突っ込みを入れたくなるほどの鈍感っぷりを発揮してくる。

「みーどり、あーん」

「っ!」

全くこっちの気も知らないで、どうして急にそう女の子らしさを発動するかな。

今の一言にグラッと来てしまった。

結局俺は恐怖心より男の感情の方が勝った。ありす副会長には申し訳ないと思いつつも差し出されたスプーンに口つけてしまった。

口に広がる甘さはフレッシュなマスカットの果汁。実にリク会長らしい選択だ。

そしてそこに鋭いスパイス、ありす副会長の睨みというテイストを添えられ結論冷や汗がでる。

その雰囲気を察してか気まぐれか、わからないが圭斗が口を開いた。

「あ、ありす副会長、よよろしければ、僕のひひ一口、いかがですか?」

 はたまたリク会長に憧れての真似事か。

 ありす副会長は俺から圭斗に視線を移す。その表情はいつものおっとり系少女のものだった。

「ありがとう、圭斗君。でも私マンゴー苦手、かも」

「あ、そう、なんです、か……」

「ごめんね。だけど気持ちはすっごく嬉しいよ!」

 そう言って微笑む姿はどこまでも愛らしい。先ほどまでの睨みは嘘のようだ。当然その笑顔に圭斗は断られた悲しみより微笑まれた喜びを感じて頬を赤くする。ところが一人はやはり空気が読めないらしい。

「あれ、そうだっけ?」

 リク会長が首を傾げる。

「前好きって……」

「やだリク会長! 私マンゴーは苦手ですよ? メロンは好きですけど」

「そっか。じゃあ私のマスカット一口食べるか?」

「えっ!」

 ぽっとありす副会長の頬が赤くなる。だがそれはすぐ表情を変え、むしろくぐもる。それから小さく首を横に振った。

「折角なんですけど、何だかもうお腹いっぱいで、自分のだけで十分みたいです」

「ん、そうなのか? いつもだと喜んで食べるのに……」

 リク会長が少し寂しそうにスプーンを咥える。

「ご、ごめんなさい」

 その仕草に心を射抜かれたのかやはり頬を赤らめる。うっとりとした眼差しが副会長から会長に注がれる。

 だが次の瞬間その視線はどこか虚空を見つめる。

「ちっ。折角リク会長と間接キスするチャンスだったのにこんなクズたちと間接キスできるわけねえだろ」

 あのクズとか聞こえた気がするんですけど。

「ありす? どうかしたか?」

「あ、いえ、何でもないんです!」

 何でもないとは思えないけどな。

「ところで聡哉はさっきから何を見ているのですか?」

 漸くいちゃつくのを止めた優雅が学校モードの堅い口調で口を開く。

 その言葉に俺達全員の視線が聡哉の手に握られたものに集中した。すると聡哉はその物から視線を外し、答える。

「ああ、さっき別行動してた時女の子がぶつかって来てさ、落としていったんだよ」

「それって、うちの学校の生徒手帳じゃないか?」 

 リク会長が聡哉の手の中にある手帳をまじまじと見つめながら問う。

「ああ」

「どれ、見せて」

 聡哉から手帳を受け取り確認する。それを脇から俺達も覗き込む。まさしく個人情報の漏洩である。とはいっても落とした本人が悪い。というかこの顔、どこかで見たような……

「あっ!」

 俺は思わず声を上げた。フードコートにいた客の視線が集まる。恥ずかしさに口元を抑えつつもこんな偶然あるのかと衝撃を隠しきれない。

「どうか、したんですか?」

 代表して圭斗が尋ねてくる。

「いやこの子、俺の隣の席の子だ……」

 その言葉に全員の視線が俺を見つめた。


 月曜から本格的な活動が始まった。

 揃えたホスト風の服に身を包み、飲み物も料理も完璧。メニューもしっかり準備した。

 正直よくもここまで部費で準備できたと思う。だから飲み物や料理は一日に限定何食と決めて売り切れ次第その日は終了という話になったのだが果たして売り切れ御免なんて文字は踊るのだろうか。

 ちなみに例の生徒手帳はとてもじゃないが俺から渡す勇気はなく、まだ聡哉が持っている。

 それを知った会長がわざわざ校内放送を使って呼び出した。来るかは謎。男嫌いって感じの少女がわざわざホスト部に来るとは考えにくい。

 でもその心配もしている場合ではなかった。ついでに売り切れ御免なんてありえないという心配も不要だった。

 放課後になるやいなや客がわんさかやって来た。それもほとんどがリク会長と聡哉指名で。

 俺と優雅はそのどちらか待ちのお客様が退屈しないよう時間つぶしに回された。圭斗は隣の家庭科室で限定分の料理をせっせと作ってはたまに運びに顔を見せた。ありす副会長はそれを手伝っている。

 初日にしてあっという間に役割分担が成立してしまった。これは到底俺と優雅と圭斗には指名が来ないだろう。

 まあ時間つぶしの間にリク会長や聡哉の真似ができれば別だろうけど。でも到底無理だ。

 リク会長は来た女の子全員に腰を軽く曲げ、手を取って甲にキスするのだ。そして上目遣いで少女を見上げ

「お待たせいたしました、プリンセス」

 などと言って隣に腰かけるのだから。そうなれば俺と優雅の役目は終わり。立ち去る。

 一方聡哉は

「ごめん、待った? でもちゃんと俺様のために来てくれたんだ?」

 なんて俺様関白気取り。

 それに対し俺は恥ずかしくて下向いてばかり。何話したらいいのかわからず沈黙。優雅は相変わらず堅苦しさは女の子を苦笑させ、散々リク会長に眼鏡外すよう言われたにもかかわらず外さない。圭斗は会話云々の問題ではなかった。ありす副会長の読み通り童顔にエプロンは何人かの女性の心をとらえた。

 けれど忙しさのあまり料理を置いて話す間もなく次を作らなくてはならなかった。まあ仮に話す時間に余裕があったところで圭斗の心に余裕はなかっただろうけど。

 結局「かわいい」「料理上手!」と言われても軽く会釈して目も合わせずに去って行ってしまう。

 しばらくいろいろ苦難は続きそうだ。

 そう思って天井を仰いだ時だった。

 ガタンッ――――!

 勢いよく部室の扉が開き、騒がしかった室内が一瞬にして静まる。扉の所に仁王立ちするのは

「立花、あざか」

 リク会長が立ち上がり彼女に歩み寄った。

 仁王立ちする姿はやはり息を呑むほど美しい美少女。しかし漂うオーラは強気で敵意むき出し。まるで獣そのもの。

「こんなところに呼び出すなんて頭おかしいんじゃないの? 男がいるとかほんとキモいんですけど」

「お前なあそれが人に物を拾ってもらった態度かよ」

 聡哉も立ち上がり彼女に歩み寄る。すると彼女は一層不愉快そうに顔を歪めた。

「お前土曜日の……!」

「へえー覚えててくれたんだ? 可愛いゴスロうぐっ!」

 聡哉の言葉が途中でうめきのような苦しそうな塊に変わる。

「ってめぇ人の鳩尾に椅子の脚を食い込ませるって、どういうことだよッ」

「仕方ねえだろ。直接触るには穢れるんだよクズっ!」

「クズじゃねえ。そもそも暴力反対なんですけど。ったく折角ゴス」

「お前それ以上しゃべったら次股間つぶすぞ」

 うわー。こえー。

 室内の空気が凍る。それを溶かすが如くリク会長が穏やかに仲裁に入る。

「まあ落ち着け。ただその落し物を返したいだけなんだ」

「だったらさっさと返せよ泥棒クズ野郎」

「泥棒じゃねえ! そっちが勝手に落としていったんだろがっ!」

「いちいちうるせえな。おめーがしゃべるたびに酸素が減って二酸化炭素が増えるんだよ。無駄に地球温暖化促進してんじゃねえよブサイク野郎!」

「あ? 誰がブサイクだ! イケメンだろうがっ!」

「だから酸素の無駄遣いしてんじゃねえよ! 地球も私も迷惑してるんだよ! それに自分でイケメンとか言うなキモい!」

「やめろッ」

 リク会長の声がほんの少しだけ荒れる。

「あざかももうやめろ。いくら男が嫌いだからって言葉には気を付けろ」

「ああ? お前はそっちの肩持つのかよ。この男もどきが! だいたいてめえみたいなのが生徒会長だから」

パリィィィィィィィィィン!

 空気を切り裂くような鋭い音があざかの言葉を遮る。

 それはありす副会長が運んでいた食器を落とした音だった。しかも落としたのは間違ってではない。故意に、床に叩き付けるように自ら落としたのだ。

 どこか狂気じみた空気をまとったありす副会長は俯き加減にあざかへと歩み寄った。そして目の前に来るとバッと顔を上げ、何もかも空気さえも簡単に切断してしまいそうな鋭い睨みを向けて低く言葉を紡いだ。

「それ以上言ったらこの私が、黙っていませんよ?」

「は?」

「聡哉などほかの男子部員はともかく」

 あ、男性陣はいいんですねいや知ってましたよはい。

「リク会長を悪く言うのは聞き捨てなりません」

 やっぱり? ですよね。

「関係ねえ奴が首突っ込んでんじゃねえよ」

「関係ないわけではないでしょう。私は一応本校副会長なのですから」

「あーなるるほど。つまりこの学校は会長副会長ともどもクズってわけ」

「私はともかくリク会長への暴言は許しません!」

 スッ!

「やめろ!」

 リク会長の叫びも虚しくありす副会長の平手が振り上げられた。それは当然あざかの頬をめがけて宙をゆく。

 あざかは目を見開き身動き取れずにいた。それを周りは息を呑んで見守る。

 パシッ――――!

 音は大きく響き渡る。辺りは重い沈黙が落ちた。その沈黙を破ったのはありす副会長の驚いたような戸惑うような声だった。

「けい、と……くん?」

 そう、あざかの前に圭斗が立ちはだかり、ありす副会長の手首を抑えていたのだった。

 エプロン姿で手首を押さえつける圭斗はいつもとどこか雰囲気が違う。

 圭斗はゆっくりとありす副会長の手を離すと困ったような、だけどどこか爽やかに微笑んだ。

「ありす先輩、暴力はよくないですよ」

 その声にどもりはない。一瞬にして大人びいた圭斗は身長よりもずっとずっと大きく見えた。

「あなたもむやみに挑発したり、人を悪く言うのは良くないですよ」

 あざかの方を振り返り諭すように口を開く圭斗はもはや誰だと尋ねたくなる。

「さあ、折角こんなに可愛らしいお客さんが大勢来て下さっているんです。事を片付けましょう。早くしないと僕の作ったオムライスも冷めちゃいます。僕は温かいうちに皆さんに食べてもらいたいな」

 そう言って全体に微笑みかける圭斗はどこぞのアイドル並に愛らしく女性の心を捉えた。

「あ、えっと、あざかさん?」

 珍しく動揺を見せる聡哉があざかに近寄り生徒手帳を差し出す。

「あの、これ……」

「……ふんっ!」

 それをあざかは奪い取り踵を返して教室を後にした。そこにはやはりまた落し物があって。手帳から一枚の紙がひらりひらりと舞って地面に落下したのだった。

 聡哉は「何度落とせば気が済むんだよ」と肩を竦めて拾う。けれど今回は拾ったものを見た瞬間表情を硬め、黙ってすっと自分の胸ポケットにしまった。

「これは後で返しておく。それより続き行きますか!」

「そうですね。あ、そこのガラス掃く箒と塵取り持ってきます。触らないでくださいね。怪我したら大変です」

 そう言って圭斗は廊下にある掃除用具入れに向かおうとして扉のところで一端振り返った。

「ありす先輩?」

「は、はい……」

「怪我とかは、ありませんか?」

「あ、はい、大丈夫、です」

 ありす副会長はずっと間抜けな素っ頓狂な表情をしていた。けれどそれに構わず圭斗はにっこり笑って「それは良かったです」、そう言って教室を後にした。

 しばし時の進みが止まったかの如く誰もが口をぽかんと開け圭斗の背中を見つめていた。

 やがて時は動き出し少女たちは口々に言う。「今の人カッコよくない?」「運んでた人とは別人みたいだった」という呟きが四方八方で飛び交った。

 その日一日ずっと別人みたいだった。ガラスを掃いた後再び料理を運び始めたのだが最初の心の余裕のなさはどこへやら。注文の品を運ぶたびお客さんににっこり笑っては「ゆっくりどうぞ」「お口に合うといいのですが」と一言添えるまでに至った。当然少女たちからは「可愛い」とか「素敵」と黄色い声が上がった。

一体何が起きたのだろう……?


 ところが部活終了後、謎は明かされるどころか深まることになった。

 部室の掃除をし、その後家庭科室で皿などを洗う圭斗の手伝いに行った時だった。

「それにしても今日の圭斗はカッコよかったな」

 リク会長が嬉しそうに言う。すると圭斗は洗う手を止め、首を傾げた。

「何が、です、か?」

 その口調はいつも通り、どもりのかかった自信ない声だ。

「何ってそりゃあありすの平手止めてから部活終わるまでの接客態度だろ」

「あ、ありす副会長の、ひひ平手? せ、接客態度?」

「ああ。あざかの前に立って止めた後接客もすごく良かったぞ」

「え……?」

「まあ俺ほどじゃねえけどなかなか女子の気持ちは掴めてたんじゃねえの」

 あくまで上から目線で聡哉が褒める。

聡哉と圭斗ではカッコいいのジャンルがちょっと違うため比較はできないけれど確かに聡哉が褒めるのも分かる。

ところが当の本人は

「あの、何の話を、してる、んですか?」

 困ったように首を傾げるばかりだった。

「だからありす副会長の手首掴んで止めたじゃん?」

 俺も話に割って入る。

「そうですよ。それでありす副会長にキザっぽく怪我はないかとか尋ねていたじゃないですか。いかにも如何わしく」

 優雅が眼鏡をくいと押し上げる。

 いやさすがに如何わしいとかキザとかいうのは盛り過ぎな気もするがでも言っていた事実は確かだ。

「え、ぼぼ僕が、ありす副会長、に……?」

 嘘だという発言を求めるようにありす副会長に視線を向ける。でもありす副会長は圭斗の意に沿うことはない。肩を竦め「ええ」と短く答えた。すると圭斗はいよいよ顔を青くし、首を振った。

「それ、ほほ、本当に、僕?」

「ああ。もしお前に双子の兄弟がいてこの学校に実は通っているって言うなら話はだいぶ変わってくるけど」

 聡哉が眉根を寄せつつ小馬鹿にするような口調で言った。

「まさか記憶がないの?」

 そんな馬鹿な話あるものかと思いつつ半信半疑で尋ねる。それに圭斗は苦笑して答えた。

「うん、実は……」

「本当に記憶ないのか?」

 聡哉も馬鹿にするのをやめ、まじまじと圭斗をみつめる。

「いや、途中までは記憶があるんだけど、何だか喉が渇いて、飲み物を飲んで……それから、記憶が少し、飛んでいて、でも作った料理とかなくなってたからてっきり、僕忙しさで、か、考える暇もなく機械的に、仕事してたのかな、って」

 何とも奇妙な話があったものだ。

「その飲み物って?」

 リク会長は何か考えるように尋ねる。

「わからな、いです。ち、近くにあったのを合間に飲んだ、ので」

「ごみをあさったところでその飲み物が何だったのか分かりそうもないですね」

「優雅くんの言う通りね。あれだけのお客さんだもの。ごみはたくさん出ただろうし、飲み物の空だって相当出たはず」

「ありすと優雅の言う通りだな」

 リク会長は腕を組んでつづけた。

「まあ飲み物が関係していると決まったわけじゃないし。もしかしたらただの多重人格かも」

「ちょ、ちょっとやめてくださいよ! 今の話でぼ、僕、ここ、怖いんですから」

「ははっ! けどいいじゃないか」

 からかうようにリク会長は無邪気な笑顔を顔面に張り付ける。それを圭斗の耳元まで近づけ小さく囁く。

「ありすにカッコいいところ、見せられたじゃないか」

「っ!」

 その囁きに圭斗は肩をびくりと震わせ飛びのいた。

 俺も聞こえて察する。この人他人の事には敏感なんじゃないか。自分の事は超がつくほど鈍感なくせに。

 優雅と聡哉は聞こえてないのかはたまた無関心か、特に反応はない。ありす副会長はおそらく聞こえていないようだけれど圭斗とリク会長の距離感に妬いている。握られた拳は血管が浮き出るほどだ。

 やれやれ。

「さ、下校時間だ。帰るぞ」

 リク会長の声を合図に俺達は部室を後にした。

 こうして俺達の部活初日は終えた。

 互いの想いと素顔を必死に隠しながら俺達は前進する。


 翌日部活に行こうとするとクラスの入り口で聡哉に会った。

「あれ、聡哉?」

「おう。立花さんってお前の隣の席だったよな?」

 聡哉はそう俺に話しかけつつも視線はあざかの方に注がれていた。

「あーうん」

「俺ちょっとあいつと話してから部活に行く。だから少し遅れるから」

「え? あ、わかった。皆には伝えておくけど、早めに来てくれよ? 一応一番人気争ってるんだし」

 認めたくないけど実際ナルシストになるのも分かるくらい人気なのだ、仕方ない。

「分かってるよ。まあ俺がいない間せいぜい指名貰えるよう頑張れ」

 うわーなんか天狗にしちゃったよ。それもそこまで言われるともう部活の域超えてる気がするんですけど。

 俺は苦笑して先部室に向かった。

 部室の前には既に十名ほどの女子生徒が待っていた。

 確かに限定何食という感じだがそんな並ぶほど人気なのかと思いつつその女子生徒の間を縫って部室に入る。

 部室には既に圭斗、会長、優雅の三人がいた。

「あれ、ありす副会長は?」

「今日は委員会で来られないそうだ。聡哉はどうした?」

「ああ、聡哉も昨日の子と話してくるから遅れるって言ってました」

「はあ?」

 リク会長は苛立ちの混ざった様子で息を漏らした。

「どうかしたんですか?」

「それが今日のご指名は圭斗なんだが……」

 まあそりゃあ昨日あれだけカッコよかったんだから指名の一つや二つはいるでしょう。

「でもこの通りいつもの圭斗なんだよ」

 そう言われて視線を移すと、うん、確かにいつもの圭斗だった。

俯き加減で自分に自信がなさそう。それでいて人の目を見て話そうとしない。

「ぼぼ僕、そんな女の人と、い、一対一で、話す、なんて……」

「だからフォローしないと、と思っていたんだが……」

 なるほど。俺と優雅じゃ無理なわけですね。頼みの綱は聡哉だったと。しかしその聡哉も遅れる。絶望的なわけだ。

「仕方ない。やっぱり優雅、今日は眼鏡と羽目を外してくれよ!」

「嫌です」

 見事な即答。

「大体そんなこと、学校の生徒会長たるお方が言う事ではないでしょう」

「部活のためだ」

「自分はモテたりするためにやっているわけではないのです。破廉恥なことはもってのほかです。部活の目的だってそんなことするためではないでしょう?」

 破廉恥って……。まあ言いたいことは分からないでもないが。

「じゃ、じゃあ俺が」

「お前は無理だ」

 え、まさかのこっちも即答? 折角人が勇気を持って言ったのに最後まで言わせてもらえないどころか否定形の即答!?

 心が音を立てて折れた。

「だってお前、ヘタレじゃん」

「いや、ヘタレでは、ないと、思いますけど」

「それにお前がその、人気になると、少し……」

「え?」

 珍しく小声で話すリク会長の言葉は聞き取れない。けれどもう一度言ってくれるほど優しくもない。

「とにかく優雅頼むよ! 美奈さんにはちゃんと話しておくから。お前が部活で頑張ってたと。それから美奈さんの誕生日とかになったらプレゼント選び手伝ってやるよ」

 いやさすがにそれじゃあ釣れないでしょう。

「し、仕方ありませんね。姉の趣味はなかなか難しいですよ」

 うっそ釣られちゃうんだ。本当に姉想いというかシスコン……なんだ。

「さすがだ。分かってくれると思ったぞ」

 そう言って扉に歩み寄った。

「ほら翠も着替える。優雅が眼鏡外したら開けるぞ」

「あ、はい!」

 俺は急いで更衣室(とはいってもただのカーテンの陰であるが)に行って着替えた。

 着替えて出てくると 優雅がやれやれと溜息を吐き、眼鏡に手をかける。スッ――と外された瞬間あたりにキラキラとしたプリクラのスタンプよろしくな結晶が散りばめられた気がした。微風になびく髪が一層結晶を放った。

「約束は守ってくださいよ」

 キリリとリク会長を睨む目は吊り上がっている。でもその目が違和感を覚えない程様になっているのは顔の全体が整っているからだ。

「もちろん」

リク会長は優雅とは正反対に目じりを下げてくしゃりと笑った。

「さ、開けるぞ」

 気を引き締めた顔になり、扉を横にスライドさせる。

 ガラッ――!

「ようこそホスト部へ、お姫様たち」


 時は少々遡る。翠に言伝を頼み、俺は一人の少女に歩み寄った。

 少女は教室で一人ぼんやりと頬杖をついて窓の外を眺めていた。

 その姿はどこかの高価なヴィスクドールのように美しく、繊細で儚い。そう、このまま黙って動かなければそんな印象だ。

 少女は俺の気配に気が付き、こちらに顔を向ける。その形相は本当に酷い。これを見たらドールなんて言えない。鬼だ。目がキリリと吊り上がり牙を剥き出した獣。

「またお前かよ。いつ見てもキモいな」

 そして第一声がこれなのだから可愛さの欠片など微塵も感じられない。

「お前こそその言葉遣い、どうにかならねえのかよ」

「うっせーな。さっさと消え失せろ。目が穢れる」

「何で俺見て穢れるんだよ。むしろ目の保養だろうが」

「だから自分で言うなよカスっ」

「カスじゃねえ。折角またわざわざ落し物届けに来てやったのに」

「まさか!」

 あざかは勢いよく立ち上がる。その顔は蒼白だ。信号機のように真っ青な顔の前に一枚の紙を差し出した。

 何かのアニメキャラのイラストだろうか、現実では滅多にない純黒髪をした少年が描かれている。

 それを見るや否や叫び出す。

「ああああああああああああああああああああああああ!」

 それもとてつもなく甲高い声で。劈くような声が教室に波紋の如く広がる。とてもじゃないが先ほどまで暴言を吐いていた口と同じとは思えない。

 あざかはその紙を俺からひったくった。

「ああ! 私の塚原様! 良くご無事で。いなくなられた時はどうしたらいいのかと夜も眠れぬ思いでした。でもこうして再び私の手に戻ってこられたのですね! 私は幸せに思います。もう愛しています。私の可愛い可愛いダンナ様」

 語尾にハートのついた言葉は俺から発するものを奪った。とりあえずぽかんと口を開け、彼女を見つめた。

 あざかはまるで人が変わったかのようにうっとりとそのイラストを見つめ、頬を赤らめている。本当にその男の人が目の前に3Dとして現れているかの如く。

「あの、えっと……?」

「塚原様を知らないなんて言わせないから。『君と僕』っていう漫画のキャラ、当然わかるでしょ?」

「いやごめんわからない」

「はあ!? ほんとありえない! 死ねばいいのに!」

「え、そこまで!?」

 さんざん貶されて来たけれど「死ね」と言われたのはたぶんこれが初めてだと思う。

「いい? 塚原様は黒髪眼鏡という王道の萌え要素を見た目に装備した上でツンデレという最強アビリティを持ち合わせさらには赤面という究極萌えポイントで世界を救っているの!」

 おい待て。色々突っ込みどころが満載すぎるぞ。例えばアビリティとか。アビリティって能力って意味だろ。ツンデレは能力じゃなくて性格じゃね? それでいて最後赤面が何だって?

 とりあえず俺は気圧された。

「もうこの子ほんとに可愛くてねもう超絶天使だよね。愛してるもううちにおいで」

「はあ……」

「……ってしまった!」

「ん、どうした?」

 彼女が再び顔色を変える。血の気が引いて真っ青になる姿はもはや病的。

「私としたことがこんなクズ野郎に本性を明かしてしまった上塚原様の良さを語るなんて何たる失態」

「いや今更か?」

 あざかは俯き一瞬黙った。だが次の瞬間バッと顔を上げ、再び鬼の形相で言う。

「てことでゴスロリ含め誰にも言うなよこの誘拐犯」

「いやいや誘拐犯ではないから。それに何で言っちゃダメなんだよ。少なくともゴスロリ姿は黙ってりゃ可愛かったぞ」

「お前本気で殺されたいの?」

 その目と声は本気だ。

「いやそういうわけじゃないけど」

「だったらさっさとその口噤んで私の前から消え失せろ。じゃなきゃその口針で縫ってやるよ」

「こえーよ」

 なんだよ。その塚原ってキャラと俺に対する温度差激しくね? いや違う。現実とアニメや漫画に対する温度差か。待てよ。こいつが好きなのはその君と何だかっていう漫画だけ、なのか? それだったら現実と君と何だかという漫画の温度差が酷いってことだよな。

「何すごい難しい顔してるの? それすっごくキモいよ」

「お前ってもしかして、ヲタク……なのか?」

 そうこれだ! ヲタクなのかそれともその塚原だけなのか。漫画・アニメ全般か、それともその漫画だけか。

「どうでもいいでしょ」

「どうでもよくねえ。アニメ・漫画好きなのか?」

 ってなんで俺はこんなこと聞いてるんだ? 確かにこいつがヲタクだろうとどうでもいいことなんだけど。

 でも俺の口は勝手にそう尋ねていた。

「もしそうだったら何だって言うの?」

 その声は不機嫌にくぐもっている。

「いや、えっとそれはそれで意外だな、と」

「嘘」

「え?」

 再び俯く彼女の肩は震え、強く拳を握られている。

「どうせヲタクなんてキモくてダサい奴とか思ってるんでしょ。別にいいよ隠さなくても。どうせ私もお前なんか嫌いだしよっぽどお前の方がキモいと思ってるから」

「さり気なく俺を貶すんじゃねえよ。別にキモいとか言ってねえだろ」

「分かってるからいいよ!」

 バッと顔を上げたあざかの目には涙がいっぱい詰まっていて今にも零れ落ちそうだった。

 その姿を不覚にも可愛いと思う俺がここにいる。

「そうだよ私はアニメ漫画小説ゲームが大好きなキモヲタでその中で一番塚原様が好きっていう痛い子だよ。だけど言っておくけどね今日本の経済支えてんのはヲタクなんだからね! どんだけ自分の嫁とダンナに貢いでると思ってんだよ!」

 うわ、最後の一言生々しいというか、でもなんか突っ込みどころだぞ?

「どうせそうやって偏見持って引いて遠ざける。別にいいけどね。現実の奴になんて興味ないしどう思われようとどうでもいい。お前もみんなみんな大っ嫌いだから!」

 言い切った瞬間彼女の頬には涙が伝った。冷たく輝くそれは氷のような冷酷な光を放つ。

だけどその姿は儚く愛らしい。

 気が付いた時には俺は彼女を抱き寄せていた。そして自分の胸にあざかの小さく華奢な体を押し付け、腕の中に閉じ込めていた。

「遠ざけてるのはお前の方だろ。別に俺はキモいとか思ってねえよ。別にいいじゃんそいうの。そういうの含めて立花あざかだろ?」

 俺の言葉にあざかが胸の中から顔を覗き込んでくる。

 やばい。上目遣いに潤んだ瞳、すごく可愛い。

 俺はこのままキスしたい衝動に駆られていた。ところが次の瞬間腹部に激しい痛みを感じ、俺は膝から崩れ落ちた。

 元俺の腹部があった場所にはあざかの拳が浮いていた。

「触ってんじゃねえよクズ! てめえに何が分かるんだよこのナルシスト! 何がそういうの含めて立花あざかだ。きめえよ!」

 そう吐き捨て彼女は教室を後にした。

 俺はしばし腹を押さえこみ、地面を転げまわった。やがて痛みが落ち着くと仰向けに横たわり、天井を仰ぎ見る。

「ったくほんと、可愛くねえ女」

 そう呟きながらも天に向かって伸ばす手が掴もうとしているのは――――。

 立花あざか、か……。あんな女、初めてだ馬鹿。


 結局聡哉がやって来たのはほとんど部活終了間際だった。

「遅いぞ」

 リク会長が聡哉の顔を見るなり文句を飛ばす。

「まあ今日は優雅がそれなりにフォローしてくれたから良かったけど」

「全く何故女子というものは連絡先を交換したがるのですか。自分の携帯には家族の連絡先さえ入っていれば不便はないでしょう」

 お前はな。

 部活が終わり、眼鏡をかけた優雅の溜息交じりな言葉に心の中で突っ込む。

「それにしても昨日の圭斗は何だったんだ?」

「それ、ぼぼ僕が聞きたいですよ」

 圭斗はリク会長の問いに泣きそうな声で答えた。

「あ、やっぱいつも通りだったんだ?」

「だからお前にはいてほしかったんだよ」

「一番人気だからな」

「残念ながら指名数で順位を決めるなら私が一番だ」

「ちっ」

 聡哉の舌打ちが盛大に響く。

 頼むから少しは気を遣ってくれ。心底思う。

「と、ところでみんな喉乾かない? 俺ちょっと飲み物飲みたいんだけど」

 俺は大して喉なんか乾いていないのに提案する。何せ聡哉の舌打ちで会話は切れてしまい、どこか空気も張りつめた気がしたのだ。ただとてつもない違和感があったのは承知だ。でも俺にはこんなボキャブラリーしか持ち合わせていないのだ。仕方ない。

「確かに今日はしゃべりすぎました。家庭科室から少し拝借しますか」

 俺の意を組んだのか、はたまた本音か、優雅が賛同する。

「そうだな。今日の優雅は本当にカッコよかったというか、さり気なく女子のハート掴んでたよな。アドレス聞かれた時なんて別に構いませんが返信なんてほとんどしませんよ、とか言ってたけど実はまめに返すんだろうな」

 リク会長がクスクス笑いながら言うと優雅は顔を真っ赤にして言い訳した。

「そ、そうでも言えば諦めるかと思っただけです。来たら一応は返しますよ、それは。礼儀として、当然、です」

「顔文字つけて?」

「り、リク会長! いい加減にしてください! 自分は顔文字なんて使いません!」

 とか言って美奈さんには使うんだろうな、なんて思ってしまったのは俺だけじゃないはず。

 実際俺達の間では交換していないからわからないが。

 優雅は居心地が悪くなったのか隣に飲み物を取りに行ってしまった。

「ははっ! ほんと優雅って面白いよな。でも今日は本当にカッコよかった」

「あれ、リク会長惚れちゃったんですか?」

「馬鹿かお前は。そんなんじゃ一番人気になんかなれないぞ」

「お前はいつも一言多いな」

 それはお前もだ。

 折角和んだ空気が再び張りつめる。この二人はずっと犬猿の仲ってやつなのだろう。

「で、でもほんと、ガラス拾うシーンとかカッコよかったですよね!」

 相変わらず自分でもわざとらしいと思う。

「ああ、あれな」

「ガラス? また何か割れたのかよ?」

「ああ、今日一人客でコップ落としてさ、割ったんだよ。その時その子の相手してたのが優雅でさ、さっと立ってガラスを拾おうとした彼女の腕を掴んで止めたんだ」

 俺もそのシーンを思い出す。

「そしてまず制服は汚れていませんかって聞いて、その後触らないでください、指切られても困りますって」

「その言い方、なんか冷たくね?」

「そう言った後に自分処置とか、わからないのでって口籠ったのが最高に可愛かったんだけどな!」

「あーなるほど」

 リク会長がけらけら笑うと聡哉も納得したように頷く。

 俺としてはきっと優雅は素だったんだろうし、何とも言えない気持ちだった。圭斗はさっきからずっと黙っている。

 ちょうどそのとき一つの缶と人数分のコップを持った優雅が戻って来た。

「一応全員分用意しましたよ」

「おう、サンキュー」

 リク会長は優雅に歩み寄りそれらを受け取って平等に分けた。

「じゃあはい、二日目お疲れ様ということで乾杯」

別に乾杯することでもないと思うが。というかするなら昨日のような気がする。

でも何だかんだで乾杯してコップが触れ合う音は気分がいい。

 コップの中の液体を体内に流し込むと炭酸が口の中で弾けふんわりと甘さが香った。そしてどこか苦味も香る。

「……あのさ、これって……」

 俺は一口飲んで口に含むのを止めた。優雅も怪訝な表情で液体を見つめる。

「うん、アルコール……だな」

 リク会長が空になった缶を見て言う。

「誰だよアルコールなんて買ったの。その前によく買えたなおい」

「全くだ」

「優雅のお姉さんいたから間違って入れても買えちゃったんじゃないですか?」

 俺がリク会長と聡哉の会話に割って入ると二人してなるほどと頷いた。優雅はそれを聞いて頭を抱える。まるで自分の責任であると言いたげに。

「リク会長、まだいらしたのですね!」

 そこにちょうどありす副会長が委員会を終えてやって来た。

 すると今の今まで黙っていた圭斗が口を開く。

「ありす先輩、委員会お疲れ様です」

 全くどもりのない、むしろ澄んだ爽やかさ百パーセントの声が響く。その声に全員の視線が圭斗に注がれる。

「……あの、僕の顔に何か?」

 完全にイケメンと化している。辛うじて身長が小さいことだけはどう頑張っても変わらないため完全なる紳士は演じきれていない。だがそれ以外オーラから話し方まで完璧な紳士。

「原因は、これ、か?」

 ようやくリク会長が言葉を吐き出した。自分が手にするコップの中の液体を見つめて。

「そんな非現実的な事って、あるのか?」

 引き続き到底信じられないと言いたげに聡哉が口を開く。

「つまり酔い任せに羽目を外すサラリーマンというわけですか」

 いや優雅、それはちょっと違くないか?

「えっと……」

 状況を読めないありす副会長が戸惑いの声を上げる。

「ありす、説明は後だ。とりあえず学校が閉まる。ここから出よう。みんな、ちょっと近くのサイゼリアに寄らないか?」


 夜ご飯がてら会議がそこでは繰り広げられていた。

「別にそんな深刻に考えることじゃないだろ。本当にアルコールが原因なら指名が入った時点で飲ませればいいだろ」

「聡哉、わかっているのか? あくまでこれは部活であって本物の水商売じゃない。そもそも法律的にも未成年にアルコールを飲ませるわけにはいかないだろう」

「ごもっともです。先生に見つかっても我々の立場、部活共々罰を受けることになりますからね」

 もちろんリク会長と優雅の意見が正論だった。

「そうは言っても既に酔った圭斗は客に見られてる。それで指名も来てるんだ。むしろその姿を見せない方が疑われるだろ」

 でも聡哉の意見も一理あった。このままコミ障が続けばあの一日が何だったのだと違和感を持たれかねない。それに人気が分散すれば一人の負担が減ることも確かだ。

 だけどアルコールが先生にバレたりでもしたら退学、もしくは休学になりかねない。仮に前者だったら取り返しのつかないことになる。

「確かに違和感はあるかもしれないがそこまで危険な道を渡ってまで疑いを晴らす必要はない」

「バレなきゃいい話だろ。別にアルコール臭くなるまで飲むわけじゃない。少量で変わるんだから問題ないだろ」

「そういう問題じゃないだろ。それに美奈さんがいない限り買えないんだ。そうなればいずれ切れる日が来る。そうなれば元通り。結局疑念は持たれる」

「あ、いや、姉は呼べばいつでも乗り気で来ますよ」

「優雅、お前は賛成か? それとも反対か? どっちなんだ?」

 ぎろりと優雅を睨むリク会長の目は鋭い。しかしそれに圧倒されるでもなく優雅は眼鏡を押し上げた。

「もちろん反対です。ただ今姉の名が出たので弟として今この場にいない姉の意思を代弁したまでです」

「ふむ。翠はさっきからちびちびパスタをつまんでいるがどう思っているんだ?」

 急に話題を振られ思わずびくんと肩を震わせ、パスタを巻くフォークを危うく落としそうになる。

「あ、いや、俺は……」

「そこははっきり言ってくれ。部活のためにも、私達のためにも」

 いやそんなに覗き込まれても……。

「そりゃあ圭斗が常にイケメンでいてくれれば部活の人気はさらに上がると思うし、リク会長や聡哉の負担も減ると思います」

「じゃあ賛」

「だけど! リスクを負ってまでやることじゃ、ないと思います」

「お前それ自分の意見じゃなくて私たちの一連の会話をまとめただけだろ」

 あ、まあそう言われるとそうなんですけど。

「んーほんと翠は何て言うか、良く言えば優しいんだが、悪く言うと曖昧っていうかヘタレっていうか」

 すみませんね。やっぱり俺ってヘタレなのかな? あんま自覚してなかったけど。

「まあそれがいい所でもあるんだけどな。どうも放っておけない弟みたいな可愛さってやつ?」

 ぶっ!

 おれはアニメよろしく盛大に水を吹く。

 何で会長はそうさらっと気恥ずかしいこと言えるのかなぁ。

「ありすはどう思う?」

 ただ本人は何の自覚もしていない。俺が自分をヘタレだと自覚していないようにこの人も自分が今恥ずかしいことを言ったと自覚していないのだ。だから平気で話題転換する。

「私は……」

 ありす副会長は俯いて口を開く。

「私は正直にはっきりと言わせてもらえば心底どうでもいいです」

「え?」

「リク会長すみません私用事思い出したので帰ります。失礼します」

「あ、ちょ、ありす!」

 早口で告げると同じくらい足早に去って行った。そのありす副会長の背中はいつもとどこか違って、リク会長の呼び止めにすら振り返らなかった。

「すみません俺ちょっと話してきます!」

「え、翠? あ、おい、翠!」

「ちゃんと戻ってパスタ代払いますから!」

「いやそういうことじゃないんだけど」

 背中でリク会長の声が響いたけれど無視して俺はありす副会長の後を追った。

 自分でもこんな行動をとるとは思っていなかった。ただ、何となく、反射的に動き出していた。だって、ありす副会長がこんな変な行動をしたのは、たぶん俺のせいなんだと、思うから。


 「ありす副会長待ってください、ありす先輩!」

 身長の差は十センチくらいあってもありす副会長は足が長い。俺の一歩とほぼ変わらないはず。おかげで追い付くのはなかなか大変だった。それでもようやく追い付いて腕を掴む。

「待ってください、ありす、副会長」

 息は乱れ肩で息をする。その間ありす副会長はぴたりと足を止め、全ての動きを静止していた。まるで電池の切れたロボットのように。俺が掴んだ腕さえも振り払おうとはしない。

「あの、ありす副会長」

 俺はゆっくりと彼女の手を離した。

「その、なんて言うか、別に俺の勘違いというか、気のせいならいいんですけど、その、リク会長が俺を可愛いとか言うのはえっと好き……とかそう言うんじゃなくて、えっと……」

 自分で何を言っているのか分からなくなり、口を開いたはいいものの最後まで言い切ることができない。

 それを見かねたありす副会長はゆっくりと振り返る。振り返った瞬間俺を見つめる瞳は、切なくて儚い、今にも消え入りそうな光が宿されていた。

「私が、私が男だったら、良かったのかな?」

「え?」

 ありす副会長はゆっくりとした動きで俺に歩み寄ってくる。それはまるで目の前でスローモーション映像が流されているかのよう。しかしこれはあくまで現実。

 彼女は体を寄せて来た。現実はちゃんと感触を感じることができる。ありす副会長の豊満な胸が俺の筋肉のない薄い胸板にあたる。やがて背伸びをしてまで吐息がかかる距離へと顔を近づけてくる。

 ふんわりと香るシャンプーか、もしくは柔軟剤か、甘い匂いが鼻をくすぐる。これまでに感じたことのないものが色々と押し寄せてきて俺の心臓は爆発寸前だった。

「そしたらこうやって素直に甘えて……」

 体の脇に硬直していた手に彼女の手が絡んでくる。小さく細い指が俺の指の間に入って握ってくる。

「キスをせがむの。こうやって。そしたら可愛いって、言ってくれるかな?」

 吐息交じりの色っぽい声が俺の顔をかすめる。

 本当にこのままキスしてしまいそうなくらい唇が近づいた、その時、彼女は急にパッと手をほどいた。そしてその空いた手で俺を強く押しのける。俺の体はよろけながらも彼女との距離を作った。

「なーんてね。本当にキスでもすると思った? この変態!」

 いやいやいやー! 俺からしようとしたわけじゃないし? 変態と言われるのは心外ですよ。まあ期待はしてたけど。

「お前なんかとキスできるわけないでしょ! うぬぼれんな」

 別にうぬぼれてなんか、ない。

「ふん。別にあんたなんかに心配されたくないし。大体なんで追って来たのがあんたなわけ? ほんと嫌になる」

「……すみません」

 良かれと思って、いやそれも嘘だけど。良いも悪いも体が勝手に動いたのだ。仕方がない。

「いい? いつまでもぐずぐずしてると私がいくらでもその、リク会長を奪ってやるから」

 そう言ってありす副会長は踵を返して歩き始める。

 だから俺達はそんなんじゃないって。それもこれは禁句なんだろうけど、君たち二人とも女の子だよね? ねえ?

 どうして現実って言うのはいつもこう拗れていて捻じれていて思うようにいかないんだろう。だから俺達は訳の分からないことで衝突しなきゃいけない。実際そんな衝突原因なんてすごく小さくてちっぽけなはずなのに。だけど当事者はそれに気が付かない。それ故もがくのだ、衝突しないように、拗らせないように、と。


 結局あの後戻ってみると圭斗の酔いはすっかり醒めていた。というかサイゼリアで水を一口飲んだあたりから既に醒めていたらしい。でもあえて黙っていた。そしてありす副会長が抜けるまで黙って会話を聞き、抜けた瞬間どもりながら口を開いた。「アルコールで変わったって本当の自分が変わるわけじゃない」そう言ったらしい。

 ということで本人の意思もあり、これまで通りで行くことになった。

 何だか気持ちが分かる気がした俺は圭斗と共に嫌な自分を変えるよう日々努力した。

 お客さんも着々と増え、近頃じゃ下校時間前に売り切れてしまうくらいだった。

 相変わらずリク会長は一位人気を誇った。聡哉も人気だったけど週に一度遅れてくる日があった。その度優雅が無理矢理眼鏡を外させられ、人気に躍り出た。だから聡哉と優雅の人気は五分五分だった。

 俺と圭斗は相変わらず指名は来ないけれど、着実に会話できる時間は伸びたと思う。

 ありす副会長はあれから何もなくふんわり系キャラを演じている。当然圭斗の気持ちも変わらずありす副会長へ向かっている。

 美奈さんもちょくちょく顔を出しては差し入れをしてくれたり、弟とイチャイチャしたり、充実した日々だった。

 そう、何だかんだで青春は順調に進んでいたのだ。

 ところが入学して約三ヶ月目、大きな壁が立ちはだかった。

 何の前触れもなくリク会長が口を開いた。

「今日部活を休みにしたのは他でもない」

 部活始まって以来、日曜が以外の初の休部日であった。

 部室に行ったらいきなり今日は部活休みと言われ、しかし俺達全部員は部室に留められている。

「さて、夏が近づいてきて心も浮きだっている所を何だが、この間の中間テスト、そろそろ結果返却されたんじゃないか?」

 ぎくりと俺は冷や汗を流す。

もう既に思い出したくない。遠い過去に葬りたい。そう思わざるを得ない点数の羅列は寂しいものばかりだ。

「もちろん補修ある奴なんていないよな? 紳士たるもの、知的な一面は大切だぞ」

 俺の汗はとどまることを知らず、たらりと流れ落ちる。そんな俺に対しありす副会長が自信満々にテストをバッと広げた。赤丸が多いその解答用紙に刻まれた点数はどれも八十点以上。一番最高で英語の九十六点というかなりの好成績だった。

「さすがありすだ。勉強、生徒会、部活、委員会、全て両立できているようで何より」

 そう言ってリク会長はありす副会長の頭を撫でる。ありす副会長は尻尾を振る犬のように嬉しそうに微笑んだ。

 彼女は紳士に含まれないはずだが。

「優雅は?」

 撫でるのを止め、優雅に話題を振る。でもこれは聞くまでもなかった。

「赤点などありえません」

 眼鏡を押し上げ、並べる数字は九十点台のオンパレード。むしろもう逆に何を間違えたのと突っ込みを入れたくなるような羅列だった。

 それもそうだ。こいつは本当はもっとレベルの高い学校に行けた。だけど女っ気のなさに姉に無理矢理入れられたのだからこの程度の問題朝飯前なのだ。俺とは違って。

「まあそうだろうとは思っていた。さすがだ。美奈さんも誇りに思うだろうよ」

 からかうように言われた一言は優雅を赤面させる。

「次は、聡哉いこうか」

「その二人の後ってとてつもないプレッシャーなんですけど」

 とか言いつつテストを広げてみればまあまあまあ! 古典以外全て八十点以上。古典だって七十六点で決して悪いわけではなかった。

「ん、どうした? 古典は苦手か?」

「苦手っていうか、嫌いなんだよ」

「意外だな」

「いやだって古典って恋愛もの多いけどさ、まず主人公の男が何股も掛けるじゃん?」

 それはお前もだろ。そう心の中で思ったのは俺だけじゃないはず。

「別に何股かけてもいいんだけど、いっつも最終的に誰かしらの女を泣かせるじゃん」

 え、そうだったっけ?

「それどうかと思うんだよ。女の人泣かせるとか最低でしょ。泣かせるなら嬉し涙。それが俺のポリシー。俺なら絶対泣かせない。だから古典は嫌い」

 どこまでナルシストなんだよこいつ。別に全部が全部泣かせる話でもないと思うが。ただじゃあ泣いていない話の例をあげてと言われると困るけど。

「あーなるほど」

 え、会長納得しちゃうんですか?

「確かに紳士として素晴らしい心がけだ。だがそこは勉強と恋愛、しっかり分けて考えられるようになってこそ一歩前に進めるんじゃないか?」

うわーさすが。まとめるの上手すぎだろ。

「まあ女に紳士語られたくもねえけど」

 それを素直に受け取れず毒吐くのが聡哉なのだけれど。この二人はずっと平行線だ、この先もきっと。

「じゃあ次は圭斗」

 そしてさらにそれをさらっと流しちゃうのが会長なのだけれど。やっぱり交わることを知らない。

「あ、あの僕……」

「どうした?」

「皆さんほど、よく、ないんです」

「大丈夫だ。怒りも笑いもしない。まず見せろ」

 会長の命令は絶対だ。俺達に拒否権はない。圭斗はしぶしぶテストを差し出す。

 一番悪くて五十七。……全然ましじゃないか、俺に比べたら。最高で八十六点。平均は六十後半から七十前半あたりか。ほぼクラスの平均、中間層辺り。

「そうだな。あまりいいとは言えないな」

 いやー十分いいと思うけどな、俺は。

「一番悪かったのが現代文。良かったのは、数学か」

 一つ一つ目を通しチェックする。

「数学はケアレスミスが多いな。こういうミスは勿体ない。現代文は記述欄に空白が目立つ」

「いや、あの……現代文は、えっと、答えが一つじゃない分、な、何書いたらいいのか、わからなく、なるっているか」

「うん、一理あるな。でも記述は書けば少しでも部分点がもらえることもある。だから最初から諦めるのは良くない。とりあえず何か書いてみる、埋める努力をした方がいい」

「……はい」

 リク会長がテストを圭斗に返す。

「だが圭斗にはまだまだ伸びしろがある。少しずつそういったことを克服すればいい。次回頑張れ」

 そう言ってポンポンと圭斗の頭を触る。

 残念ながらリク会長の方が背が高い。その仕草は様になる。というか圭斗はが弟に見える。

 なんて人の事を悠長に見ている場合ではない。

 俺は静かにドアの方へと近づいて行った。バレないようにのっそりとすり足で。まるで逃げるように。

 だけど逃げられるはずがない。

「翠? 何してるんだ?」

 ……ですよね。バレました。

「えっと、いや、その」

「次はお前の番だぞ」

 この流れで俺に見せろというのはあまりに鬼畜だと思う。

「絶対見せなければだめですか?」

 無駄だとわかっていながら一応抵抗してみる。

「そりゃあな。別に怒りも笑いもしないって。さっき言っただろう?」

 怒られも笑われもしなくても恥をさらすようなもんなんです。

「そいつ、相当悪かったんじゃねえの?」

 黙っててくれ、ナルシシスト。

 やはりこれは出さなければいけない雰囲気。俺は溜息一つ大きくついてまず一番良かった現代文を差し出した。

「七十二? まあもう少し取れてもいい気がするけど、そこまで嫌がる点数でもないだろう?」

「リク会長」

 ここはもう腹を括るしかない。そんな重い話でもないけれど、俺としてはかなり深刻。

「これが最高得点です。見せるにつれどんどん点数は落ちていきます。今ならまだ間に合うので見せなくていいと言って」

「早く見せろ」

 言葉を遮られる。もう抵抗の余地はない。

「分かりました。じゃあ何も言わず見てください。言いたいことは最後にまとめて、途中は何も言わないでください」

「……そんなにひどいのか?」

 かなり。もうひどいとか言うレベルじゃない。

 俺は眉をひそめる会長に古典を差し出した。六十七点。本人としては上出来。次に数学。六十二点。これもまだマシ。その後政治経済、四十七。中間層五十点が一つもなかった。でも後二つを考えると四十七点すらよく思える。何せ四十七はまだ黒点だ。問題は次、日本史、三十七点。ギリギリ赤点。そして最後は英語。二十八点。余裕で赤点。

 自分でも酷い結末だと思う。どうせ世の中はうまくできちゃいない。アニメや漫画のようにただ楽しい学園生活なんてありえない。現実はこういう壁にぶち当たる。

全てを受け取ったリク会長は約束通り怒りも笑いもしなかった。ただ驚いた表情で尋ねて来た。

「まさか今回勉強しないで受けたのか?」

 所謂ノー勉ってやつですね。違います。ちゃんとやりました。やってこの結果です。

 俺が首を横に振ると一層驚いた表情でリク会長は続けた。

「やってこの結果か。一体お前は何を勉強したんだ? どうやったらこんな点数になる」

 そんなの俺が聞きたい。

「これは怒るとか言うより、呆れるぞ」

 怒られる方がはるかにましだ。そんな憐れそうな視線を向けられても困る。

「うーん、日本史と英語は追試免れられないぞ」

 リク会長は何とも言えぬ表情でテストを俺に返してくれる。しかし俺には追試の覚悟はできている。

「その追試である程度点数とらないと補習になる。そうなったら部活に来られなくなる。それは迷惑な話だ」

 いや別にそんなこともないでしょう? 俺指名数少ないし。もはやゼロだし。

「ふむ。これもまた突き詰めれば生徒会長である私の責任。私がもっと生徒をよく見て勉強、部活両立できるような仕組みを取らないからこういう生徒がでる」

 いや違うから。会長の責任じゃないし。両立は本人の問題です。

「仕方がない。今週の土曜の買い出しは悪いが私と翠抜きで行ってくれ」

 ……え?

「リク会長は行かないのですか?」

 ありす副会長が寂しそうに問う。それにリク会長は真面目な顔で頷いた。

「私と翠は勉強会をする」

 ……え?

「ということで今週の土曜、翠は私の家に来ること」

「ま、待ってください!」

 俺より先にありす副会長が反応する。

「こんな男をリク会長の部屋に呼ぶのですか!? それも二人っきりで!」

 こんな男って……まあこんな男か。

「危ないですよ! 男なんていつどこで何をどうするかわからないですし、それならば私も勉強会に参加します!」

「ありす、その気持ちだけで十分だ。大丈夫だ。私は何があってもこいつよりは強い自信がある」

 ええ、でしょうね。俺もあなたより弱い自信があります。

「それにありすがいないと頼れるのは美奈さんだけになる。美奈さんだけに任せるのは申し訳ないだろ。あくまで彼女は部員じゃないんだから」

「でも」

「これは会長命令だ」

 そう言ってありす副会長の前に人差し指を立てる。するとありす副会長は何も言えなくなって押し黙ってしまった。

「あ、いや、えっと……」

 とまあここまで黙って聞いてきたわけだが少しは俺の意見も聞いてもらわねば困る。確かに俺はリク会長より弱いかもしれない。でもやっぱり男子たるものそう簡単に女の子の部屋に上がるべきではないと常識が告げている。

 ところが口を開いた途端リク会長はぴしゃりと言い切った。

「お前に拒否権はない、翠」

「いやその勉強が嫌だとかそうじゃなくてせめて」

「口答えするなら八十以上とってからにしろ」

 それ言われてしまうと俺も黙るしかない。八十なんて夢のまた夢。

「よし、決定。みんな土曜は頼んだぞ」

 リク会長の勝手な発言により決まってしまった。

 聡哉はどうでもよさそうで、優雅はテストの為と頷いて、圭斗は困惑したようで、ありす副会長は不服そうで、リク会長は笑顔で、そして俺はどうしてこの人に図書館という概念がないのだろうと大きく溜息をついた。

 こうして本日の部活は解散した。


 そして結局土曜日、俺は約束の時間に豪邸の前、教科書を詰め込んだカバンを片手に立っていた。

 いつ見てもすごすぎる豪邸はそう簡単に「おじゃましまーす」なんて入れる代物じゃない。それが女の子の家となれば尚更だ。それも女の子の部屋何て生まれて初めて踏み入る。

 引き返すなら今だと思って来た道を振り返るものの、月曜説教受ける自分の姿を想像するとそう簡単に引き返せない。あと変に引き返すのも何だかやたらと意識しているみたいで嫌だ。もういい。腹を括るしかない。

 俺は意を決して敷地に入り玄関ベルを震える手で押した。すると例の幸爺が出迎えてくれた。

「これはこれは翠様、お待ちしておりましたよ」

 前回と変わらぬ身なりで俺を招き入れる。

「ささお入りください。リク様からお話は聞いております。勉強会をなさるようで」

「え、あ、まあ」

「世の中教科書に書いていないことはたくさんありますからね」

「はい?」

 靴を脱ぎ、スリッパに履き替えながら幸爺の発言に思わず失礼な反応を返す。

「どうぞ上がって右手にリク様のお部屋がございます」

 しかし幸爺は特に気にすることもなく童話に出てくる城のような広々とした階段の方を指した。

「はあ、どうも」

 何か勘違いされているような気がしつつも会釈して階段を上る。

 まるで屋敷じみた家の階段はふかふかの赤い絨毯が心地良い。

 上りきるとそこには信じられない数の扉が並んでいた。一体何部屋あるのだろう。その光景に思わずおののく。辛うじて右手側に「リク」と金のプレートが扉についていたのでそこがリク会長の部屋だとわかる。正直緊張する。

 俺はごくりと生唾を呑み込んで扉をノックした。

「おう、入れ」

 中からリク会長の声がした。

「し、失礼します」

 俺は恐る恐るドアを開いた。そして見事に言葉を失った。

 まず我が家のリビングより広い部屋。奥の窓の先に見えるのはバルコニー。第二に予想以上に可愛らしい、お姫様をイメージしたような模様。

 窓の傍にあるベッドはキングサイズ。クッションが四つくらい枕代わりに置かれ、大きなウサギのぬいぐるみが横たわっていた。そのベッドを包み込むように天井から垂れ下がるのは天蓋レース。布団カバー、絨毯は白、カーテンとそれ以外は薄ピンクに花柄と完璧なる女子模様。

 これがありす副会長の部屋なら納得した。しかしリク会長の部屋だというのだから驚かずにはいられない。

「あまりじろじろ見るな。私だって少しくらい女の子、したっていいだろ」

 俺の視線に気づいて恥ずかしそうに言うリク会長の格好がこれまた驚いた。

 白のもこもこしたショートパンツにお揃いのウサ耳フード付きパーカーと何とも学校のイメージを覆すものだった。

「と、とにかく座れ。今幸爺がお茶を持ってきてくれるはずだ」

「あ、えっと、なんか、すみません」

 だめだ。予想以上にリク会長が可愛すぎる。まさにGAP萌え。いや俺萌えとか言うタイプじゃないけど。でもこれはあまりに反則的すぎる。

 それもショートパンツだから無駄に露出した生足がまた色っぽい。白くて細長い足は当たり前だが女の子のモノだ。

 俺はゆっくりと腰を下ろした。ふかふかのカーペットは座り心地が良く上等なものだとわかる。

「机はこれを使おう」

 リク会長は俺の目の前に置かれた白い長方形の机を指さし、向かいになる様腰かけた。それと同時にノック音が響く。

「リク様、お茶をお持ちしました」

「入れ」

 リク会長の声を合図に幸爺が扉を開けた。

 わあおっ!

 とりあえず絶句。お茶とかそういうレベルじゃない。アフタヌーンティー的な?

 そもそもワゴンで来る時点で一般庶民のお茶のレベルを超えている。あまりに本格的なティーセット。

 俺はそんなもの使ったことはもちろん見たのも初めてなのでこのお菓子が乗った三段階の物体を何というのか知らない。だが所謂フランスとかでよくアフタヌーンティーで使うアレ、だろう。マリーアントワネットとか使ってそうな奴。

「あとは適当にやるからここに置いておいてくれ」

「かしこまりました」

 幸爺はワゴンからそれらのセットを机に置いた。それからワゴンを引いて部屋を後にする。

 何だかもはや場違いな気がしてきた。そもそもここは日本だよなと疑いすら覚える。

「紅茶は嫌いじゃなかったよな?」

「あ、はい」

 リク会長はティーポットに入れられた紅茶をカップに注いだ。

 ハーブの香りが鼻孔をくすぐる。湯気を上げる飴色は上品に光を反射した。

「はい。こっちは適当に食べて」

 差し出された紅茶に指さされるお菓子。俺はどこの貴族になったのだろう。

 デパ地下で売っている以外のマカロンなんて初めて見た。

 本当にお嬢様なんだな、この人。

「さて、やるか。英語と日本史、どっち先がいい?」

 リク会長にとってこういうことは日常茶飯事なのかさらっと話を進める。

「……じゃあ日本史で」

 まあどうせ何を言っていいのか分からないし、進んでくれて構わない。ただ勉強は苦手だ。だからとりあえず点数的に救いがある、と思った方を選んでみた。

「オーケー。あ、あらかじめ言っておくが私に教わるからには追試で六割とって合格すること。合格できなくて補習、部活に来られないなんて事になったらぶっ飛ばすぞ」

 これは冗談じゃない。本気だ。本気でぶっ飛ばされる。

これほどまでにテストで危機感を覚えたことは過去で一度もない。

「が、頑張ります」

「よし、始めるか」

「あ、その前に俺も一ついいですか?」

「ん、何だ?」

 さっきの幸爺の言葉も気になる。男としてこれは一応聞かねばならない。

「あの、親とか大丈夫なんですか? 一応俺男だし、誤解されないかな、なんて……」

「ああ、それは問題ない。両親は今仕事で海外だし幸爺は掃除やら買い出しやらで忙しいから」

 財閥って両親何してるですか!? ついでに幸爺は幸爺でたぶん疑っていますよ、俺らの事。

 なんて茶化すことはできなかった。リク会長の目はどこか寂しそうで、それでいてすごく冷めていたから。

 しかしその目はすぐ伏せられ、表情が読めなくなる。

「まあ仮に誤解するような奴がいるとしたら今扉の向こうで聞き耳立てる我妹だろうな」

「え?」

 俺は扉を振り返る。とても人気は感じられない。

「そこにいるんだろ、美央」

 リク会長の呆れた声に反応するかの如く扉がゆっくり開いた。

「えへ、バレちゃった?」

可愛らしい声がしたかと思うと少女が顔を覗かせた。リク会長とは正反対のショートカットの笑顔が実に愛らしい。

 彼女は部屋に入って来た。これまた笑顔に似合う花柄ワンピースから覗く足は姉同様細長い。スタイル抜群である。

 正直に言うとリク会長より全然胸がある……じゃなくて全然似ていない。そう全くもって似ていないのだ。

 美央と呼ばれた少女は俺の隣に腰かけた。

「ねえ、お姉ちゃんのカレシ?」

 いきなりぐっと顔を近づけて尋ねてくる。やっぱり近くで見ても似ていない。リク会長を綺麗系というなら美央は可愛い系……じゃなくて! 近いよ!

「ち、違いますっ!」

 俺は距離を取るようにのけ反る。

「違うの?」

「部活の後輩です」

「高校一年?」

「あ、はい」

「じゃあ美央より一つ年上なんだ」

 え、この子中三? 中学三年生!? 見えねぇ! 最近の子は大人っぽいな。

「へえ。なんで部活の後輩がうちに?」

「勉強会するんだよ、こいつ馬鹿だから。見ればわかるだろ。お前も受験生なんだから勉強しろ」

 とはいうもののリク会長の言葉はまるで無視だ。だが今回ばかりは俺も聞かなかったことにしよう。

 それに今はこの状況を何とかしてほしい。いい加減顔と顔の距離をもう少し作ってほしいところだ。

「本当に? 本当に机の上の勉強するの?」

 な、何言いだすんだこの子。それもまた顔の距離近づいた? そろそろ俺の腹筋が辛いのだが。

「美央とは別な、実習的な勉強する?」

 ……え?

「何言ってんだ、お前は。馬鹿か」

 リク会長はすっかり呆れかえっている。本当に性格までもが似ていない。

「えいっ!」

「うわあ!」

「翠!」

 順番に声が響いた。

 俺は自分の声を聴きながら必死に状況理解に脳を働かせる。理解するのには時間がかかった。でも理解しなかった方が良かったのかもしれない。理解した結果恥ずかしさと戸惑いで死ねるレベルの状況だった。

 結論から言えば押し倒されたのだ。肩をひょいと押され、腹筋に限界を感じていた俺はいとも簡単にカーペットへ倒れてしまった。そして何故か彼女に馬乗りされている。俺の寂しい胸板に押し当てられる豊満な胸。視線を間違えればワンピースから谷間が見えそうだ。

 すごく、どうしよう……。

「美央! 何してるんだ!」

 リク会長が机越しに身を乗り出してきた。すると美央は体を起こし、姉の方を振り返る。

「いいじゃんだってカレシじゃないんでしょ?」

「よくない馬鹿!」

「だってすごく美央のタイプだよ? 年上で可愛くてヘタレな感じで、もう見てよこの戸惑った表情。たまらなく可愛いよ」

「お前の好みなんか聞いてない! さっさと翠から降りろ!」

「えー」

「えーじゃない!」

 何というか、俺が口を挟める余地はなかった。

「もうお姉ちゃんは何? 妬いてるの?」

「そ、そんなんじゃないっ!」

「じゃあお姉ちゃんの部屋がダメなら私の部屋に連れて行ってもいい?」

 おう、それはそれで個人的に気になる……じゃなくて! ダメだろ!

「そういう問題じゃない!」

 当然リク会長は反発する。もちろん俺はリク会長に賛成だ。

「もう、お姉ちゃんはわかんないなぁ」

 いや、君の思考回路も全然わからないよ、俺は。

「とにかく勉強するんだから出て行ってくれ」

「むーお姉ちゃんのいじわる」

 そう言って頬を膨らませた美央はようやく俺の上から身を避けた。

「机でのお勉強が嫌になったらいつでも美央のところ来ていいからね、翠君」

 しっかり名前覚えられてるし、ウィンクされるし、本当にませているな、最近の子は。

 俺はゆっくりと体を起こした。すると頬にやわらかい感触を覚える。

 え……?

「み、美央!」

「いちいちうるさいなあ。別にほっぺにチューしただけじゃん。じゃあ勉強頑張ってね。バイバイ」

 姉の方を軽く睨み、俺に笑顔で手を振って部屋を後にする。

 俺は、俺は女の子にキスされたのは初めてだ。思わず頬をさする。

 まさしくこれが人生初のキス。即ちファーストキス。いや、頬だからファーストキスとは呼ばないか。ってそんなことはどうでもいい、今は。

「その、えっと……妹が、すまなかった」

 姉であるリク会長は何とも気まずそうに口を開く。

「あ、いえ、大丈夫です。ただちょっと驚いたというか、何というか……」

「何なら顔洗ってきてもいいぞ」

 え、そこまで?

「あーいや、ほんと大丈夫なんで」

「そう、か……」

 どうしてリク会長は寂しそうな目をしたのだろう。いや、気のせいか。

「それにしても全然似てないんですね」

 どこか重かった空気を変えようと話題の方向を逸らしてみる。

「え、ああ、まあ。小さい頃からなんだ。あいつはどこか抜けていてでも人懐っこく愛嬌がる子で、私とはまるで正反対だった。おまけに好みも性格も正真正銘女の子。私なんかより全然周りの評判も良かった」

 リク会長の笑みはまるで花を愛でているかのように優しい。

「私もね今と変わらず好むものは男っぽく性格もまるで男。沈着冷静である程度の事は一人でこなせる真面目なできる子、そんなイメージだった。これって一見褒められているようで実は周りからしたら可愛げがないんだよな」

 そう言って苦笑するリク会長はいつもの男気全開な様子はなく、どこか悔やむような自信なさげな様子だった。

 こんな時もっとましな男なら何と言うだろう。慰める? それとも笑って今の彼女を褒める? わからない。

 俺はどの方法にせよ今のリク会長にかけられる言葉など持ち合わせていない。だから、黙るしかない。

「なんて、どうでもいいことを話してしまった。さて、勉強始めるか」

 俺が言葉を発せないのに気が付いたか。リク会長は無理に笑顔を作って教科書等を広げ始めた。

 だけどきっとこのままじゃあダメなんだ。どうでもよくなんかない。

 言葉なんて持ち合わせてない。持ち合わせてはいないけど、適切なのがないだけで知っている言葉はいくつかある。例え間違っていようとも今はその知っている言葉を紡ぎださなければいけない。

「あの、た、確かに似てないとは言いましたけど、でも比べたわけじゃなくて、その、リク会長にはリク会長の良さも俺はあると思うし、別に可愛くないわけじゃないと、思います」

 でも結局言って後悔する。死にたい衝動に駆られるくらい恥ずかしい。

 何が言いたいんだ俺は。内容も意味わからないし自分でも何が言いたいのかわからない。

しかしリク会長はくすりと心から笑った。

「翠は優しいな」

「え?」

「そんなんだから年下にもつけ入れられるんだぞ」

「いやいやそれはお宅の妹さんだけですよ」

 今度は俺が苦笑する番だった。

「だとしてもお前は本当に優しい奴だ。ヘタレのくせに。いや、ヘタレだからか」

「あの、それ褒められた後にものすごい勢いで貶されてません?」

「気のせいだ。ほら、始めるぞ」

 ようやくいつもの空気に戻り、俺とリク会長が自然に笑えた時、勉強会が始まった。


 最低三時間は勉強しただろうか。時計は午後一時を指していた。お昼も食べずに付き合ってくれるリク会長にいい加減申し訳ない。

 そう思いながらも俺は今だ日本史をやっていた。覚えが悪すぎて何度リク会長に怒鳴られたことか。

「だから単語だけで覚えるな。流れで覚えろと何回言ったらわかるんだ!」

 このセリフは何百回と聞いた。おかげでそこは丸暗記ができた。とはいえこんなこと暗記してもしょうがないので言われるたび俺は縮こまりうな垂れるしかない。もう申し訳ない以外の言葉が見当たらない。

 その申し訳なさがピークに達した時ノックする音が響いた。

「はい」

「リク様、昼食をお持ちいたしました」

「ああ、すまないな。入ってくれ」

 再び幸爺がワゴンを引いて登場した。

「よし、一回休憩にしよう」

 そう言ってリク会長は教科書を閉じた。それを合図に幸爺が昼食を俺達の前に配膳してくれた。ついでにティーセットを片付ける。

「なんかすみません」

 俺は作業をこなす幸爺に軽く会釈した。すると幸爺は優しく微笑み穏やかな声で言った。

「とんでもございません。ゆっくりなさってください」

 幸爺も会釈して部屋を後にした。

俺は幸爺の親切心に感謝しつつ目の前に置かれた料理に視線を落とした。

 ふわふわ卵に包まれたオムライスだ。卵とケチャップの香りが鼻孔をくすぐる。それに反応したお腹がぐうと悲鳴をあげた。

「リク会長、本当にすみません。教えていただいた上に昼食まで」

「気にするな。別に私はこうして教えるのは嫌いじゃないし」

 そう言って笑うリク会長の笑顔は優しく女神さまに思えた。

「何というか、翠みたいな奴は特にこう母性本能がくすぐられるというか、どうにかしなきゃって思うんだ」

「……そう、ですか?」

 意外な発言に戸惑いつつ一口口に運んだオムライスは卵がふわふわとろとろでとろけるような感触とケチャップの強気な味が絶妙なハーモニーを奏でていた。飲みこんでしまうのが勿体ないくらい。

「翠って可愛いよな」

「ごほっ!」

 からかうように言うリク会長に俺は本気の態度で反応してしまった。

 確かに飲みこむのが勿体ないとは言った。言ったけれど吐き出したいとは言っていない。ついでに吹き出したいとも言っていない。けれど盛大に吹き出しむせてしまった。

「何を言い出すんですか、いきなり!」

「いやなんか放っておけないっていうか……犬、みたいな?」

 犬と同レベルかよっ!

「それって褒めてます? それとも貶してます?」

「もちろん褒めてるよ」

 褒められた気はこれっぽっちもしないのだけれど。

「あまり褒められた感ないんですけど」

「そうか? もしお前が私の犬になると言うなら全力で可愛がってやるぞ」

 何を言い出すんだこの人は。

「なりませんから。絶対に」

 そう言って再びオムライスを口に運ぶ作業に戻る。するとリク会長は残念そうに、でもいかにもからかっているとわかるように

「そうか。それはがっかりだ」

 と言葉を吐いた。それから彼女もオムライスを口に運ぶ。

 その後はどうでもいいような他愛もない話をし、オムライスを平らげた。


 午後の後半戦に入って早くも三時間、時計は夕方五時を指し、窓からは夕日が差していた。

 オレンジ色に染まる空を帰ってゆくカラスは一日の終わりを告げようとしている。

しかし俺が告げるのは日本史の終わりだった。

「終わったー!」

「うん、もうすかっり一問一答でも並び替えでもできるようになったな。これなら六割は行きそうだな、ちゃんと月曜まで覚えていれば」

 いやここまでやって忘れるわけがない。

「それにしても予想以上に時間がかかったな。六時間だぞ?」

 そうだ。六時間やってまだ日本史しか終わっていないのだ。絶望的な英語にはまだ何も手を付けていない。

「すみません。とりあえず今日は帰ってよければ明日改めて」

「悪いが明日は用事があって無理だ。仕方ないから時間が許す限り今日のうちにやってしまおう」

「いいんですか? だいぶ長居させてもらったのにこれ以上何て」

「気にするな。さあ、時間は無駄にできない。始めよう」

 本当に面倒見のいい人だ。いつかちゃんと御礼しよう。

「まず英語の基本は単語だ。単語の意味とスペルを覚えていなければ話にならない」

「はい……」

「ん? どうした? 声に活気がないぞ」

「あ、いや、英語は本当に苦手で」

 そりゃあ自然と活気は失われる。最早ペンを持つことすら嫌気を覚える。それを見かねたリク会長は溜息一つ()き、励ましてくれるかと思いきやまさか鬼のようなことを口にした。

「よし、今からまず三時間かけてテスト範囲の単語を全て網羅すること」

「え、ちょ、待ってくださいよ! 三時間って八時になっちゃいますよ!? それにテスト範囲三十ページくらいあるんですけど!」

「つべこべ言わない。七時くらいに幸爺に夕食を運ばせるから。その(かん)私は一時間のピアノの稽古の(のち)お風呂に入ってくる。もし戻って来た時網羅できてなかったらタダじゃおかないからな。死ぬ覚悟でやれ。いいな?」

 何もよくない。言いたいことがたくさんありすぎて何から言っていいのか分からない。とりあえず英語の勉強するのってそんなに死を間際に感じるものだっけ?

 結局何か口に出そうと口をパクパクさせ、まるで酸欠の魚みたいな面をしていたけれど声になるものはなかった。

 そしてリク会長は部屋を後にしてしまった。

 だだっ広い部屋に一人ぽつんと残された俺は間抜けな面をしていたに違いない。


 さらに三時間俺は夕食にハヤシライスを頂きながら必死に単語を覚えた。書いて書いて書きまくった。手が痛くなるほどに。しかしまだ網羅したした気はしない。

 それなのにリク会長はピッタリ三時間後に部屋に戻って来た。いや戻ってこなくても困るけど……って、え!?

 リク会長の戻って来た時の姿を見てこの三時間で覚えたこと全てが吹っ飛んだ気がした。

「ななな何でそんな格好してるんですか!」

「何でって……風呂上がりだから?」

 この人の常識はどこに行ったおい!

「だからってバスタオル一枚で入ってこなくても……」

「いやパジャマそこのクローゼットに入ってるから」

 リク会長の指す方には確かにクローゼットが沈黙している。

「なら予め持って行って下さいよ」

「ん、すまない」

 全然悪いと思ってないし。

 俺はリク会長から視線を外した。とてもじゃないが見ていられない。

 バスタオル一枚に包まれた体は生々しく、火照って湯気が出ている。顔もいつもより赤みを帯びている。そんなものを健全な男子高校生が直視できるはずはあるまい。

 それもあのストレートな髪が上にあげられてうなじが見えるあたりかなりエロい。

「そんなに焦らんでも」

いやいやむしろあなたが落ち着きすぎなんです。普通ここは「きゃっ」とかいう展開なんじゃないんですか。

「ほら翠、こっちにおいで、星が綺麗だよ」

 全くこっちの気も知らずにリク会長はバルコニーから声をかける。どうやら例のひらひらパジャマに着替えてリク会長はバルコニーに出たらしい。

 風邪ひくんじゃないのかと思いながら俺も立ち上がる。

 でも実際外に出てみるとそこまで寒くはなかった。それもそうか。もう六月下旬。間もなく夏がやってくる。そんな日の夜風は心地い。

 空に広がる星たち。ありきたりだけれど宝石が散りばめられたような、という表現が一番合っている眺めだった。

 ちょうど見上げる方向に月はなく、本当に暗い闇の空と懸命に光る小さな星たちだけだった。

「私はいつも素直になれなくて黙るか平気な振りするか嫌味を言う。本当に可愛くないよ」

 星を見上げたリク会長が唐突に呟いた。その声はどこか自嘲しているような感じがした。

「もし私が本当に男だったら自分みたいな女は絶対に嫌だ。ありすみたいな女の子らしくて愛らしい子がいい。そう思わないか?」

 皮肉なものだ。これをありす副会長が聞いたらどれだけ喜んだことだろう。歓喜のあまり狂気するかもしれない。

「そう、ですかね。リク会長だって十分、女の子だと思いますけど。それに割と言葉はストレート、即ち素直なんだと思いますけど」

 そう、例えば俺を可愛いと言ったのは思ったことをストレートに、素直に言った結果なんだと思う。

「それは……」

「仮にリク会長が素直じゃないのだとしたら、それは多分素直になれないんじゃなくて素直になろうとしないだけですよ」

 何だか自分でもすごく生意気言っているような気がした。何故こんなことを言い始めたのか自分でもわからなかった。口が、勝手に動いていた。

「いつも自分で背負込んで誰かに助けを求めようとしない。ただの頑張り屋さんなんです、リク会長は」

 ほんとまるで夜空の女神が乗り移ったりでもしたんじゃないだろうか。

「翠……」

 そこでリク会長の視線が星から俺に移されていたことに気が付いた。

 大して身長さなどないはずなのにやたらと下から覗かれたような上目遣い。それはドクンと俺の心臓を鳴らす。

「そうやって誰にでも優しくするから私生活じゃ誤解されるしホストじゃヘタレに見えるんだよ馬鹿」

「あ、え、すみません……」

「でも、お前がそう言うなら、ほんの、少しだけ……」

「え?」

 すっと伸びて来た手は俺の腰に触れた。それはやがてしがみつくように服を掴んできた。

 その手に気を取られている間に俺の胸に顔をうずくめてくる。これはつまり抱きつかれているということだろうか。

「少しだけ、甘えてもいいだろ……。教えてやった報酬だ」

 だめだ。俺はどうしたらいい。こんな時どうするべきなんだ。こんな事になるんだったらもっと聡哉に女の子と教わっておくべきだったな。

 どうしたらいいのか分からず、とりあえず硬直しているわけだがその中でも一つだけ、一つだけわかったことがある。

 リク会長は、きっと本当はずっとずっと寂しかったのだと思う。帰っても親はいない。どんなにお金があっても本当のぬくもりをお金で買うことはできない。学校でも生徒会長という頼ったり甘えたりするには正反対過ぎる立場にある。むしろ頼られる立場だ。だから弱みは見せられない。

 でもその生徒会長という立場を利用して体を忙しくする事で寂しさを紛らわしていたのも、おそらく事実なのだろう。

 リク会長と出会って間もない。そんな俺がどうこう言うのはおかしな話だ。けれどきっとそういう事なんだと、思う。

「おい」

「はい?」

 急に呼びかけられふっと我に返る。するとリク会長はすっと体を離し、いつもの男気全開、(おとこ)らしく口を開いた。

「今の私だからいいけど、ホストでこれされたら抱きしめ返さなきゃだめだぞ。女の子に恥をかかせるな」

「あ、えっと、すみません。こういうの、初めて、で……」

「いい学習になったじゃないか」

「え、あ、まあ……」

 さっきまでの可愛さはどこへ行ったのだろう。まるで別人。寂しさの欠片もない。

 最早ふりふりパジャマがスラッとしたスーツにすら見えるくらいいつものリク会長の雰囲気が漂っていた。

 一人考え込んでいた俺が馬鹿みたいだ。

「さ、この三時間で覚えた成果を見せてもらおうか」

「……え?」

「当たり前だろう。ほら入るぞ。言っておくがちゃんと終わるまで帰さないからな」

 嘘だろ。

 夜はこれから更けてゆく。そして俺も精神的に老けてゆく。疲労困憊で。


いつの間に眠りについてしまったのだろう。気が付けば机に突っ伏して眠っていた。英語の途中だったのか教科書もノートも開きっぱなしだ。

 本当に知らぬ間に眠ってしまったらしい。ご丁寧にブランケットが掛かっているがいつかけられたさえも分からない。記憶がない。何と言う失態。

 自分でもほとほと呆れる。そう思ってノートを見直すと端の方にメッセージがあった。

『私の授業で寝るとはいいご身分だな。だがよく頑張った。お疲れ様。まだ終わってない範囲はノートにまとめておいたからそれを見て自力で頑張れ』

 毒づきながらも優しさのこもったメッセージは実にありがたい。

 そのまとめられたノートというのが近くにあったのでぺらぺらとめくる。

 素晴らしかった。丁寧な字で解説とコメントが事細かに書き込まれていて重要なところがしっかりまとめられている。こんな素晴らしいノートを見たのは生まれて初めてだった。

 全く人に優しいなんて言ってリク会長の方がよっぽど優しいじゃないですか。 

 そう思った瞬間リク会長の姿がないことに気が付く。辺りを見回してみても見当たらない。けれどよく耳を澄ませるとスーっと息をする僅かな音がした。もしやと思ってベッドに近づく。予想は的中した。

 天蓋レースの奥でウサギのぬいぐるみを抱きしめて眠るのは紛れもなくリク会長である。

 でもその姿はリク会長とは思えなかった。

 どこかのお姫様のように美しく愛らしく、そして儚く脆い存在。もし息をしていなかったら人形と間違えたかもしれない。

 本当は可愛くて寂しがり屋の囚われたお姫様。彼女をいつか王子が迎えに来るだろうか。

「どうか、いい夢を見ていますように」

 静かに呟き、顔にかかった髪をそっと避けた。絹糸のように細く艶やかな黒髪はシーツに墨を零したかの如く広がる。

 そしてすっかり見えるようになった顔は穏やかだ。

 さすがに今起こすのは申し訳ない。月曜日御礼を言うことにして今は帰ろう。

 はだけた掛け布団をかけ直し、俺はベッドから離れた。そしてスマートフォンで時間を確認する。冷や汗が伝い落ちる。現在時刻午前五時二十四分。親からの不在着信十二件、新着メール二十三件。

 やばい。さすがにこれはまずい。朝帰りなんて親にどう説明しよう?

 溜息一つ零し、部屋を後にした。

 その時寝言かわからないが名前を呼ばれた気がした。空耳かもしれない。いや、きっと空耳だ。

 そのまま下に降りてゆくと幸爺に会った。

「おはようございます、翠様」

「おはようございます。昨日はすみませんでした。すっかりお世話になってしまって」

「いえ、とんでもこざいません。それよりリク様との一夜はいかがでしたか?」

 はい? 何を聞いて来るんだこの人。

「いえ、別に。というか、俺寝落ちしちゃって」

「そうでしたか」

 何でそんなにがっかりするんだよ。あんたは何を期待しているんだッ!

「折角の機会でしたのに」

「あの、何か勘違いされてませんか?」

「勘違いと言いますと?」

 幸爺は俺の顔を覗き込んできた。

「いや、だからその……俺達はただの先輩後輩でそういう恋愛とか全然……」

「はっはっはっは!」

「え?」

 急に笑いだす幸爺に俺は戸惑いを隠せなかった。この人は常識ある人だと思っていたが。

「まあ予想はついておりました。翠様は急に襲い掛かるような方ではないと」

「なっ!」

 本当にこの爺さん何考えているんだ!

 俺は幸爺から視線を逸らす。何だか完全に玩ばれている気がする。

「と、とりあえず今日は失礼します」

 きまり悪くなって玄関に向かって歩き出そうとすると幸爺が残念そうに口を開いた。

「帰られるのですか? あと三十分もすればリク様はお目覚めになりますよ?」

 うっわ、日曜日なのに六時に起床するのか。俺なんか十時、十一時が当たり前だというのに。

 でも今はあまりにきまり悪すぎて居心地が悪い。

「まあ親も心配してるし……」

「そうでしたか」

「でもその、起きたら伝えてください。ありがとうございましたと」

「かしこまりました」

 そう言って俺が家を出ようとすると

「翠様!」

 先ほどとは打って変わって真面目な幸爺の声が俺を呼び止めた。

「はい」

 振り返ると幸爺は穏やかに微笑んでいた。

「からかって申し訳ございませんでした。どうかまたいらしてください。わたくしはあれほど楽しそうに笑うリク様を初めてお目にかかりました。きっと、嬉しかったのだと思います」

 やっぱりからかってたんですね……って、え? 嬉しかった? 何が?

 しかし幸爺はこれ以上何も紡ごうとはしなかった。ただ「お気をつけて」と言って俺を見送った。

 俺は幸爺の真意が分からなかった。何かを求めているような気もしたけれど何を求めているのかもわからなかった。

 だけれどもし本当に俺で彼女が笑うなら今はこのままでいいんだと思う。

 だから俺は帰り道リク会長の事じゃなく、親への言い訳を考えることにした。


 絶対に補習はないと言い切れる自信がある。たった今追試を受けてきたがこれほどまで書けたテストはかつて一度もない。これもリク会長のおかげだ。

 そんなわけでみんなより遅れて部活に向かっていると途中でリク会長と出くわした。

「あれ、リク会長今から部活ですか?」

「ああ。ちょっと生徒会でやることがあってな」

 なるほど。あれ、じゃあありす副会長は?

 しかしそれを聞く前にリク会長が口を開いた。

「それより追試はどうだった?」

「ああ、たぶん大丈夫です。書けた自信はあります」

「そうか。良かったじゃないか」

「本当にありがとうございました。リク会長のおかげです。それなのに寝落ちしてしまってすみません」

 軽く俯いて謝るとリク会長は特に気にした様子もなく笑顔で返してきた。

「気にするな。お前の寝顔見れたし私は得したぞ」

「なっ!」

 ぼっと頬が熱くなる。

「はは。翠真っ赤」

 何故どいつもこいつも俺をからかうんだ。

「それより親は大丈夫だったのか?」

 しかし当事者たちは気にすることなく次々と話題転換していくのだから困る。

「あ、まあノート見せて勉強してたと言ったらとりあえずは納得してくれました」

 もちろん女の子の部屋で勉強していたなんて事は口が裂けても言えないわけだが。

「そうか。またいつでも来るといい。ただし妹のいない時にな」

 リク会長が肩を竦める。

「すっかりお前の虜でまた会いたいってうるさいんだ。でも次会ったらあんなんじゃ終わらなそうだからな、あいつは」

 頬にキスじゃ、飽き足らずってわけか。我ながら俺なんかのどこがいいんだろう。

 思わず苦笑を浮かべる。

 そう言っているうちに俺達は部室の前で歩いてきたのだが、何か様子がおかしい。部室の前には女子生徒がたまって心配そうに中を覗き込んでいる。

「どうした?」

 その女の子の群れにリク会長が声をかける。

 すると少女たちの視線が一斉に集まった。その目はどれも輝きに満ちた乙女の瞳だ。あたかもテレビのスターが目の前にいる、そんな感じだ。

「リク様、今日は休部の日なんですか?」

 もはや学校でも様呼びなのか。

「いや、そんなはずはないが」

 リク会長も眉根を寄せ、部室の方に視線を向けた。

「ふむ。中の様子を見て来よう。申し訳ないがもう少し待ってくれないか?」

「はいっ!」

 威勢いのいい声たちだ。それににっこり笑い返すと黄色い声が上がった。「今の見た?」「やだ微笑まれちゃった」などという声を浴びながらリク会長は部室に姿を消した。俺もすぐ後を追う。

 リク会長と俺が入ってすぐありす副会長の悲鳴にも歓喜の声にも聞こえる甲高い声が響いた。

「リク会長ッ!」

「ありす、どうしたんだ? 何故部活を始めない?」

 ありす副会長はリク会長に駆け寄り訳を説明した。

「聡哉が土曜の買い出し無断で休んだんです! こっちは何時間待ったと思ってるんですか! その上部活に来たのもついさっきなんです!」

 猫を被ることも忘れ、怒りのままに声を荒げる。

 確かに最近聡哉は遅刻が多い。それも無断で。テスト期間に入る前あたりからか。ちなみにその理由を俺は何となく察していたけれど別にそこまで怒りを覚えていなかった。

「理由を聞けば女の子としゃべってたですって! 信じられない!」

 やっぱり。その女の子も想像はついている。

「つまり女の子を部活前や休みを使って口説いてると」

 ありす副会長とは違ってリク会長は落ち着きの払った様子で言う。すると聡哉は否定するでもなくただ俯いた。

「その割に効果なしってとこみたいだな」

 リク会長はお見通しのようだった。聡哉も変に反抗せずやはりただ俯いている。

 けどそれはすごく珍しいことだった。女の子なら誰でも振り返るイケメンなのに全く効果がないなんて。いやでも相手も相手だから仕方いのか。

「で、お前はどうしたいんだ?」

「そいつ、来週誕生日、なんだって」

「ほう。それで?」

「だから、その、ここで誕生日パーティー……みたいなの、やりたいんだけど」

 それはまるで聡哉じゃないみたいだった。自信なさげで戸惑い気味で、自分でもそんなことをするべきなのか悩んでいるような、そんな口調だった。

「なるほど。話は分かった。だがこの話は後だ。今は既に今日の客が待っている。今日の客をもてなせない奴に未来の客をもてなせるわけがないだろ」

 リク会長がその少女に思いたる節があるのかは俺から見ては分からなかった。ただリク会長の瞳はすごく冷めていた。

 聡哉は相変わらず俯いていた。


 部活が終わるなり話は戻された。

「それで? 土曜はもしかしてその誕生日プレゼントでも探しに行ったのか?」

「……まあ」

「別に休日はあくまでお前の時間だからどう過ごそうが勝手だが約束があるなら連絡を入れるのが筋ってものだろう」

「ほんと何十分待ったと思ってるの!?」

 ありす副会長の怒りは収まりそうにない。

「で、既にプレゼントの準備もできていると」

「あ、いや、それはまだ。何がいいのか全然わからなくて」

「ふーん」

 聞いておいて大して興味もなさそうにリク会長は相槌を打つ。聡哉も何だか戸惑っているようでリク会長の態度にさほど気を留めていないようだった。

「とりあえず結論としてお前はパーティーをやりたいということだな」

「……まあ」

 曖昧な返事にリク会長は考え込むように顎に手を当てた。

「……その女の子がどこの誰だか」

「立花あざかです!」

 怒りを抑えきれないありす副会長が珍しくリク会長の言葉を遮った。

 やはり彼女、か。

「リク会長の暴言を吐き貶した女子生徒です! 何故そんな奴のためにパーティーなど開かなければならないのですか! 聡哉一人ですればいい話でしょう!」

「ありす」

 怒りにふつふつと燃えるありす副会長に対して熱を冷ますような、炎を消すようなリク会長の静かな冷たい声が響く。

 その声にありす副会長はさすがに言葉を噤んだ。

「別にそこは誰でもいいんだ。私に何を言った人であろうとあくまでこれは聡哉の気持ちの問題であって私たちには関係のないことだ」

 抑揚のない声で淡々と語るリク会長、こんな表情を見たのは初めてだった。

「そう、聡哉。これは私たちには関係のないことだ。私たちを巻き込まれても困るんだ。他の生徒にも示しがつかない。一人だけ贔屓するような真似はできない」

 ストレートな言葉が聡哉の胸を突き刺す。

「いやでも」

「そんなに何かしたいなら部活を休んで二人でやって来い。休みは認める。ただし内申には響くぞ」

「それじゃあ意味ないんだよ!」

 ついに聡哉が声を荒げた。

「俺一人じゃ意味ねえんだよ」

「それならお前のルックスで集めた人脈を頼ればいい。私らホスト部でなければいけない理由はどこにもない」

 その言葉は聡哉の喉を詰まらせるように声を出せなくした。

 確かに俺達でなければいけない理由など何一つない。しばしの沈黙が落ちた。

 重苦しい空気の中それを破ったのは聡哉の俯いてこもった声だった。

「そうですよね。俺も馬鹿でした。あんたみたいな人に頼んでも無駄でしたね。失礼します」

 珍しくリク会長に敬語を使いつつ毒を吐いて部屋を後にした。

「ちょっと何その態度!」

「やめろありす」

 リク会長が貶されたと読んだのか聡哉の背中に荒げた声を飛ばす。

 しかしリク会長は制止した。当然ありす副会長は不満そうではあるがリク会長に逆らいはしない。

 何だか最近折角まとまり始めていたはずのものが再び崩れ離れようとしていた。

 実のところリク会長と聡哉は前ほどいがみ合うことはなくなっていた。確かにあざかの件で聡哉は遅れることはあったけれど部活にはちゃんと来ていたし、時にリク会長と息ぴったりの動きを見せたこともあった。

 でもそれは、脆く崩れようとしている。


 翌日聡哉は部活に来なかった。でも正直大きな問題はなかった。というのも聡哉の指名が一人もなかったのだ。

 当然その分リク会長への指名が殺到した。でもそれは眼鏡を外した優雅と最近ようやく指名が来るようになった俺でカバーできた。ただすごく珍しいと思っただけだ。

 一体何があったのだろうと思っているとリク会長とお客さんの間の会話が偶然耳に入った。

「本日はご指名、ありがとうございます」

「あーほんと聡哉君よりリク先輩の方が全然紳士的。カッコいいんですね」

「そんなことありませんよ。こうして私が紳士になれるようにと努力できるのは貴女様のような可愛らしい方が隣に座ってくださるから。貴女様がいなければ今の私はいませんよ」

 俺の方からリク会長の表情を見ることはできないけれどきっと今爽やか笑顔を少女に向けているのだろう。ほんとよく言えるよな、そんなセリフ。俺にはまだ言えそうにない。

「やだ上手ね。ねえ、ここの部員だから申し訳ないと思うんだけど聡哉君の愚痴聞いてくれる?」

 実際申し訳ないなんて思っていないのだろう。むしろ告げ口しに来ただろ、と思う俺は紳士として心が狭いのだろう。

「ええもちろん。うちの聡哉がどうされました?」

 それに対しリク会長は囁くだけでなく聞き上手で自然な様子で伺うのだからすごい。

「昨日いきなり手を貸してほしいっていうからどうしたのって聞いたらいきなりパーティーしたいって言い出したの。だから何のって聞いたら好きな人の誕生日って言うから正直私だと思ったんだよね。私間もなくで誕生日だし」

 そりゃとんだ勘違いだ。

「だけど違った。立花あざかって言ったかな。私知らないんだけどね。でもでも聡哉君確かにチャラいけどちゃんと放課後とか日曜日デートしてたし、そのデートは私とだけだって言うから……。それにぶっちゃけキス以上もやってたからてっきり私彼女なんだと思ってた」

 それが聞こえて来た時は隣に俺も客がいるのを忘れて盛大にむせた。客は優しく「大丈夫?」と背中をさすって引かないでいてくれたことが幸いだ。

 あいつ部活終わってからもデートしてたのか。すごいな。

「ほんといきなりそんなこと言われてムカついたからつい最低って言ってさ、今朝同じクラスの子に愚痴ったら全くおんなじこと言ってた。まじ何股かけてるのって感じ。まあ騙されてた私たちも間抜けだけど」

 入学当初の目的を本当に遂行していたのか。何股かけられるかという実験……。というか本当によくバレずにきたな。どんだけハードスケジュールこなして口車に乗せてたんだよ。

「それも噂によると立花あざかってすごい感じ悪い人なんだって。話しかけても睨んでくるし言葉汚いし。そんな子のために騙し続けて来た女の子に頭下げて怒られて、今じゃ孤立状態。まあもうどうでもいいんだけど。未練なんてないし」

 うん、話聞く限りあいつ最低だな・

 部活上なら何人もの女の子を口説くのはわかる。一応そういう部活だから。でもプライベートまで本当に何股も掛けていたかと思うとやっぱり同じ男としても引いてしまう。

 だけどそれは今全て切り捨てられ、彼女の言う様に孤立状態にあるとしたら、聡哉は大丈夫なんだろうか。

 俺はふっとあることを思う。

 確かに立花あざかを口説こうとして失敗した。なら何故諦めない? あいつの事だ。無理だと思った女は切り捨てるんじゃないのか。勝算のない戦いはしないタイプじゃないのか。

 それなのにあいつは今自ら積み上げて来た積み木を自らの手で崩そうとしている。

 そこまでするのは初めて聡哉が本気で恋をした瞬間なんじゃないのか――――。


 部活が終わり、帰ろうとして教室に忘れ物をしたことに気が付いた俺は教室に向かっていた。

 いくら夏が近づいていると言え現在時刻では薄暗く視界は見にくい。電気をつけなければはっきりとみることはできなかった。

 けれどもう使われていない教室の電気は消され、おかげで目を凝らさなくてはいけなかった。ところが俺のクラスに近づくにつれ明るくなってゆくと思いきや我クラスの電気は灯っていた。

 消し忘れだろうか。いや、違う。

 入ろうとして入り口で足を止める。中には人がいた。二人、だろうか。

「ふう、読み終わった」

「お前ほんとその本好きだな」

「てめえまだいたのかよ。いい加減しつけぇ男だな」

 まさか……。やはり聡哉とあざかだ。

 あざかは自分の席に座り読書をしていたらしく、手には本が握られている。その前の席に体の向きを変えて座る聡哉の姿があった。

「いやいや俺の存在忘れるとかひどくね?」

「うるせえカス。しゃべんな。酸素の無駄だよ。というかさっさと帰れ」

「ねえ来週の誕生日予定ないんでしょ?」

「てめえ人の話聞けよ。別にないけどお前に祝われるなんて死んでもごめんだ。とにかく帰れ目障り」

 相変わらずひどい言われようだな。ここまで来るとよく心折れないなと称賛したくなる。

 俺だったらぼっきぼき。もはや粉末状になってしまう。

「だってその小説みたいにみんなでコスプレしてワイワイするのがいいんだろ? それって一人じゃできないじゃん」

「だからそれは二次元、アニメ小説漫画だから許されるの。現実でコスプレとか引かれるだけだから。そんなのに付き合ってくれる奴なんかいねえよ」

「わかんねえじゃん。とりあえず予定空けとけよ」

「うぜえ」

 二人のテンションの差は天と地くらいある。……俺何で盗み聞きしてるんだ? 悪趣味すぎるだろ!

 とはいえ今入る勇気もなかった。

「とにかく予定を入れんなって言ってるんだよ」

「……お前さ、何でそんなに私に構うわけ?」

 いい加減うんざりしたようなあざかの声が響く。

「何でって……」

「いい加減にしろよ。別に私といても株上がるどころか下がるだけだから」

 その言葉には疲れと自嘲とうんざり感と色んなものが混ざった複雑な声色をしていた。

「株とかそういう話じゃねえだろ」

 それに聡哉は興奮したように声を荒げる。

「じゃあ何? 友達がいない一人ぼっちの可哀想な子を放っておけないとかいうエゴイスト?」

「だからそういう」

「ほんと頭にくる!」

 ついにあざかの怒りが爆発した。まるで火山が噴火するかのように、マグマが流れ出るように言葉が流れ出す。

「別に一人でも寂しくなんかない! 人間なんて嫌いだどいつもこいつも! アニメ小説漫画があれば私は生きていけるの! てめえに同情なんかされたくねえんだよ! もう二度と話しかけてくんな!」

 ガタッ!

 椅子が音を立てた。様子を覗くとあざかが立ち上がりこちらに向かって歩いて来ようとしていた。

 見つかると思い必死に隠れる場所を探す。だがその必要はなかった。

「待てよ!」

 その腕を聡哉が強く、掴んだから。

「触んなクズっ!」

「クズじゃねえ! てかまずお前も俺の話聞けよ!」

 先ほどの何倍も荒げた声にあざかはびくりと肩を震わせた。

 そこにいつもチャラそうにする聡哉の姿はなかった。ただじっとあざかを見つめている。

「何で勝手に何でもかんでも決めつけるんだよ。一方的に怒鳴り散らして人を遠ざける。そんなに人が、俺が、嫌いか?」

 すっと手を離し、寂しげに尋ねる。その声は今まで聞いたことのない、聡哉の本性に思われた。チャラいのはあくまで被り物に過ぎない。これが本当の聡哉だという様に声は廊下まで響き渡った。

「嫌い大っ嫌い。人なんて信用できない。男も女も信用ならない」

「それってどうにかならないのかよ?」

「……知らない。でもそんなことどうでもいいでしょ。お前に関係ないことだし」

「関係あるんだよっ!」

 ドンっ!

 大きな音が耳を打った。俺も思わず肩を震わせる。室内ではあざかが壁に押し付けられていた。

「関係、あるんだよ。いい加減気付け。お前に惚れた男が目の前にいるんだよ。だから信用してもらわなきゃ、困るんだよ。分かる?」

「え……?」

「俺にもよくわかんねえけどお前の事で頭がいっぱいで他の奴なんかどうでもよく思えてくる」

 待て待て。これは覗いちゃいけないシーンじゃないか。そうは思いつつも覗いた先に見えたのは映画のワンシーンのようなキスする二人の姿だった。

 聡哉はあざかを壁に押し付け唇を重ねた。

 あざかの表情は驚きに満ちていた。ここからでもわかるくらい目を見開き、もはや目玉を落っことしそうな勢いだった。おかげで思考もしばし止まっていたようだ。しかし動き出した瞬間聡哉を突き飛ばす。

「きっもーい!」

 そして犬が遠吠えするが如く叫ぶ。

「何すんのこのエロクズキモ野郎!」

「え、あ、ごめん。つい……」

 対して傷つきも詫びる気もなさそうな声。

「ついじゃねえよ! ほんと穢れる!」

 そう言って彼女は再びこっちに向かって歩き始めた。

「おい帰るのか?」

「当たり前だろ」

「じゃあさ、もう一言」

「ああ?」

 足を止め、振り返る。

「別に人間嫌い治せとか言う気はねえけどさ、俺はお前が好きだから信用してもらえるよう頑張る。それくらいならいいだろ?」

 よく心が折れないな、ほんと。

 でもその声はどこまでも真面目で凛としていて、爽やかだった。折れる様子など一ミリも感じない。

 少しの沈黙の後あざかの声が響いた。

「す、好きとか恥ずかしいことさらっと言うな馬鹿! 勝手にすればいいじゃねえか!」

 次こそ出てくる様子だったので俺は咄嗟に隣の教室に身を隠した。それからあざかが逃げるように去っていくのを見送った。

 そのときのあざかの動揺ぶりは薄暗くても分かるほどだった。真っ直ぐ走ることもままならず、頬は赤かったように見えた。いや、暗くてよく見えないし気のせいかもしれない。

 やがてあざかの姿が見えなくなると俺はのそりと教室を出て我クラスに入って行った。

 聡哉は壁に寄り掛かるように腰を掛け、俯いていた。それでも気配で俺を察したのか顔をあげてくる。

「みど、り……?」

「さ、聡哉」

 何気なく偶然出会いましたよという雰囲気を装うもぎこちなさが際立つ。

「こんな時間に何してんの?」

「俺は忘れ物、取りに。さ、聡哉こそどうしたんだよ?」

 本当は全て知っているのに知らないふりして聞くなんて白々しいと自分で自分に嫌気がさす。

 そういうのが俺は顔に出やすいのだろうか。

「わかってるんだろ? 話聞いてたんだろどうせ」

あっさりバレた。俺は苦笑する。

「忘れ物取りに来たのは本当だよ。そしたらたまたま……」

「それが真実か。でもホストやっていくなら嘘もつけないと駄目だぜ」

 そう言って聡哉も苦笑する。その苦笑には自分を嘲るような笑みも含まれている気がした。それでいて何だか疲れているようにも見えた。そう、さっきまで物凄い緊張に縛りつけられていたのがすっと解かれ、一気に力が抜けたと言うように。

「すごく馬鹿らしく思えた? 俺らの会話」

「え?」

 急な問いに問われている内容を理解できなかった。

「できもしない約束取り付けて必死に彼女に喰らいつく俺は、ダサかった?」

「そんな」

「笑いたきゃ笑えよ。どうせ俺にはちゃんと友達・仲間って呼べる奴なんかいねえよ。上辺の付き合いだよ」

 俯き嘲る聡哉は聡哉らしくない。今ここに座っているのは誰だろう。俺はかける言葉を持たないまま沈黙してしまった。それでもやっと生クリームを絞り出すみたいに言葉を絞り出した。

「もしかして部活の奴らが一番の頼みの綱、だった?」

 すごく間抜けで恥ずかしいセリフだった。言ってから激しく後悔する。何で俺はもっとボキャブラリーを持っていないのだろう。だけど聡哉は笑いもせず遠い目をして小さく頷く。

「たぶん俺の中のどこかでお前らに頼ってたし、一緒にいて今まで感じた事の無いモノを感じた。本当はあざかのことだってちゃんと話したかったけど……」

 蛍光灯に照らされて聡哉の頬は少し赤みを帯びている。それでいて決して俺と視線を合わせようとはしない。

「だけど俺、こんな本気で好きになったことないし、口説けなかったこともないし、どうしたらいいのか、どう話を切り出したらいいのか分からなくて……」

 漸く聡哉は俺と視線を合わせた。

「結局俺、臆病なんだよ」

 臆病、聡哉とは無縁の単語だと思っていた。でもそれを今自分で認めた。それは聡哉らしくない。聡哉には似つかわしくない。だけどその言葉に俺は安堵を覚え笑みさえもこぼれた。

「な、何で笑うんだよっ!」

「いや、聡哉も人間なんだなあって」

「当たり前だろ! ほかに何だと思ってたんだよ!」

 まあ確かに人間のほか何物でもないのだけれど。

「だって聡哉って化け物みたいに次から次へと女の子虜にして嫌がられるのとか見たことないし、こいつ実は催眠術かけられるんじゃないか、みたいな?」

「阿保か。そんなわけねえだろ」

 呆れたように笑う聡哉は気取った様子はなく今までで一番自然だった。

 そんな自然の、ありのままの聡哉を見せられたからか、はたまた俺も聡哉を友達だと思い始めたか、次にはこう発していた。

「立花さん、だっけ? あの子の誕生日会、やろうよ」

「はぁ?」

聡哉の表情が間抜けなモノへと変化した。その面には「お前何言ってんの?」と刻み込まれている。

「やるって、おまっ……話聞いてたんだろ?」

「コスプレでだろ? そりゃあやったことないし、クオリティーは期待できないけど」

「いやそこじゃなくて、メンツどうすんの? 俺とお前とあざかの三人?」

「もちろん部活のメンツも」

 俺の言葉に聡哉は呆れと落胆の表情を見せた。肩をがっくり落とす。

「お前ほんと話の分かんねえ奴だな。思いっきり断られたの見てたじゃん」

「部活の活動としてはな」

 俺の返しに今度は眉根を寄せた。

「部活としては一人の生徒だけ贔屓する訳にはいかないって話だったけど、プライベートでだめとはまだ言われてない」

 一瞬聡哉も納得したように考え込んだけどすぐに首を横に振った。

「いや、やっぱ無理。俺あんなこと言ったし、もう部活もやめようと思ってるから」

「やってみなきゃわかんないじゃん。リク会長だって何だかんだで面倒見いいから。それに部長が一番最初にやめるのはなしだろ」

 俺が笑うと聡哉もくすりと笑った。

「お前って」

「だからさ」

 聡哉が何を言おうとしたのか分かっていたけれど俺はあえてそれを遮った。

「だから明日はちゃんと部活に来いよ」

「……翠」

「じゃあ俺帰るから。まもなく学校も閉まるし、じゃあな」

 確かに俺はヘタレなのかもしれない。最近漸く自分でも自覚し始めた。今まで彼女ができなかったのは機会がなかったからじゃない。そんなのは動けなかった自分への言い訳だ。勇気がなくて行動できなかった自分への保護意識だ。そしてそれは今も変わらない。だから指名も少ない。それでいて今はそんな自分が嫌いで仕方ない。

 だけどそんな俺でも本当に仲間と呼べる奴なら、友達って呼べる奴なら、力になりたい。

 もし俺達の間にひびが入ったのだとしたらそんなものくっつけて元に戻して強化していけばいいじゃないか。何度も何度も繰り返して、そうやって関係を築いていけば。それで俺は、いいと思う。


「お願いしますっ!」

 部活が終わるや否や俺はリク会長に頭を下げた。その潔さにちゃんと部活に来た聡哉も慄いた。

「翠まで何を言い出すんだ。聡哉の為に頭下げるなんて。部活として一人の女子生徒を贔屓するわけにはいかないんだ」

 淡々とした冷たい声が響く。

「それに噂を聞く限りじゃ聡哉、お前かなり最低な事していたみたいじゃないか。今日だって一人も指名なかっただろ」

 容赦ないリク会長の言葉に聡哉は俯くだけだった。きっと心の中ではわかっているのだろう。最低な事をしていた、今こうして誰も助けてくれないのは自業自得だと。

 だけど俺は食い下がらなかった。

「俺は部活としてじゃなく、プライベートでリク会長や部活のメンツの力を借りたいって言ってるんです」

「わざわざ部活を休みにして?」

 リク会長は腕を組んで眉を寄せる。

「はい。来週の火曜、放課後に。場所はどこでもいいです。学校でやらなければホスト部の活動だと思われることもないでしょう?」

「そういう問題じゃないわ。結局一人の女子生徒のために部活を休むんだから贔屓に近いじゃない」

 ありす副会長は不満たらたら割って入る。

 たぶんありす副会長はパーティーや贔屓が云々というわけではないのだ。そうじゃなくて立花あざかが嫌なのだ。リク会長を貶した女だから。

「リク会長! リク会長は聡哉が、聡哉が少し変わったって思いませんか?」

 知らずのうちに声を張り上げ一歩前に踏み出していた。その間リク会長はじっと俺を見つめ沈黙する。

「もし協力を得られないなら俺は個人的に来週の火曜、部活を休みます。その許可は得られますよね?」

「……許可はするが適切な内容ではない欠席は内申にひびくぞ?」

「内申書がなんですか? リク会長は部員より内申書の方が大事だというんですか? だとしたら俺は先輩として、人としてリク会長を見損ないます」

 まさか自分でもここまで言うとは思わなかった。気が付いたら口が勝手に動いていたとはこういう感覚を言うのだろう。

 当然ありす副会長は驚きつつも俺を睨みつけて今にも喰ってかかりそうな勢いだった。男子のメンツは口をあんぐりと開け、リク会長の反応を待った。

 リク会長は俺よりも驚いて鳩が豆鉄砲を喰らったかのような、面食らったようだった。

 その表情を三十秒くらい保った後で苦笑するような、呆れたような、でも微笑むような、曖昧な笑みを見せた。

「その積極性を部活や普段でも生かしてくれるといいんだが」

「え?」

 静かに語るリク会長の声を俺は聞き取れなかった。でもリク会長は二度も同じことを言ったりはしない。

「何でもない。そうだな、私なら内申書を選ぶかもしれない」

 それは嘘か誠か、冗談か本気か、わからなかった。

「私に考える時間をくれ」

「え、あ、……はい」

 意外な返事だった。イエスかノー、この場ではっきり言われると思っていた。

「さあ、帰るぞ」

「え、リク会長、いいんですか!?」

 ありす副会長も予想外の話の流れについていけていないようだった。それでもリク会長がすこすこと部室を後にすればそれを駆け足で追うのであった。

 何だか煮え切らないまま会話は終わってしまったような気がする。


 結局リク会長から決断を言われることなく日曜の朝を迎えてしまった。昨日も折角買い出しで会ったのに尋ねても「もう少し待ってほしい」としか言ってくれなかった。やはり無理なのだろうか。

 週始め早々溜息で一日が始まる。するとその溜息に反応するが如くスマホがけたたましい音楽を歌い始めた。

 日曜の朝に電話なんて誰だと思いながら画面を見るとリク会長の名前が刻まれていた。画面をタッチし、応答する。

「もしもし?」

「遅い、ワンコールで出ろ」

 何と無茶苦茶な。全く溜息で始まり次に怒鳴られるって今日どんな一日なんだよ……。

「すみません」

「いいか、今すぐ学校に来い。二十分以内だ。いいな?」

 あまりに早口で言われるものだから最初何を言われているのかさっぱり分からなかった。

しかし理解したころにはすでに遅し。

「いやいや! 何もよくないです!」

「会長命令を聞けないって言うのか? さっさと来い!」

「りっ!」

 ツーツーツーツー――――

 反抗する余地すら与えず電話は切られてしまった。虚しい電子音だけが耳を打つ。

 おい待て。学校まで徒歩十五分だぞ? 二十分以内って、もう出ないとまずくないか? 俺まだパジャマなんだけど。顔も洗ってないけど。そもそも今日日曜日だろ、学校開いてるのか?

 だけどもそんなことを考えている暇はない。とりあえず制服に着替え朝食も食べずに水でさらっと顔を洗って駆け出す。俺はかつてないスピードで学校へと向かった。

 着いた頃には汗だくで制服のYシャツが汗で濡れてしまうほどだった。

 でも学校について終わりではない。校門の所にリク会長の姿はない。つまり部室まで来いという事なのだろう。鬼だ。

 何故か日曜日にも関わらず開いた学校に駆け込み四階まで階段を駆け上がる。

 肺が苦しくて焼けるように喉が痛い。酸素と水分が足りていないのが自分でも分かる。足もがくがくと震えていた。

 それでもなんとかかけて部室の扉を開けた。

「はあ、はあ……一体なん、ですか……」

 息も絶え絶え、膝に手をついて尋ねる。

 ところが返事はない。場所を間違えたのかもしれない。でも学校と言われて他に思い当たる節はない。

 俺はゆっくりと膝から手を離し、姿勢を正した。

「っ!」

 そして息を呑む。

「リク会長、その恰好……」

「火曜はだめだ。だが日曜なら誰かに見られる心配もない。まあ少し早いけどいいだろ」

 そこには優雅、圭斗、ありす副会長、リク会長の姿があった。

 しかし誰もが制服でもなければいつもの部活の衣装でもない。個性豊かなバラバラな衣装に何とカツラ、いやウィッグを被っているのだった。そう、まるでコスプレでもしているみたいに。

「えっと、あの、その、ちょっと待ってください。全然状況が読めないんですけど」

「全くお前の脳味噌は相変わらず小さくて役立たずのようだな」

「全くですね」

 リク会長に毒づかれ、ありす副会長も不機嫌極まりない様子で同意する。

「仕方があるまい。そんな君に質問する時間をあげよう。ただしこれに着替えながらにしてくれるか」

 そう言いながらリク会長はよくわからない衣装とカツ、ウィッグを渡してきた。

 俺は戸惑いつつも受け取り、いつもの着替える場所に行って汗に濡れた制服を脱いだ。

「えっと、まず……」

 何から聞こう? 聞きたいことが多すぎる。あ、そうだ。

「何で日曜日に学校開いてるんですか?」

 ここ割と重要だ。しかしリク会長は呆れ声。

「本当にどうでもいい事から聞いて来るんだな。私を誰だと思っているんだ。この学校の生徒会長だぞ。学校を開けることなんて朝飯前だ」

 え、会長ってどんな権利持ってるんだよ。それにそこほんとどうでもよくないから、俺的に。

 でもこれ以上深く追及しても面倒くさがられるだけだ。

「じゃあもう単刀直入に聞きますがこれは何ですか?」

「見てわからないのか? お前は脳だけじゃなく目も役立たずだったのか」

 俺は衣装だけ着てウィッグを被っていない状態で更衣室(とも呼べないけど)から出て来た。

 すると心底驚いたようにリク会長がまじまじと俺を見つめていた。

 すみませんね気づかない疎い目と脳の持ち主で。

「立花あざかの誕生日会だよ」

「……え?」

 むくれた自分が一瞬にして消えた。そして自分の耳を疑った。ついに耳さえも役立たずというか、都合のいいように物事を捉えてしまうようになったのかと思った。

 でも違った。リク会長が続ける。

「聡哉から話は聞いたんだ。どんなパーティーがいいか。そしたらコスプレと言われたので彼女の好きなキャラもを聞き出してもらったんだ。それを元に準備した」

「よく、その、準備できましたね。衣装とか」

 とりあえず驚愕させられて実際完璧に状況が呑み込めたわけではないが辛うじて言葉を返す。

「案外インターネットで検索かけたら割とあっさり見つかってそのまま通販したんだ」

 全員分? 意外とこういうの高いんじゃないの、知らないけど。でもそんなことがネットであっさり見つかるのと同じくらいあっさりできてしまうのが大空家のお財布なのだろう。

「まあ全部知らないキャラだから似ているかどうかは知らないけど一応画像で研究もしたし、少しくらいは理想に近づけただろ」

 待って待って待って、これってつまり……

「たぶんまもなく主役も登場するさ。昨日聡哉にコスプレデート誘うふりして連れて来いって言ったからな。予め聡哉には衣装を渡しておいた。あざかはたぶん自分のあるだろうし二人とも着てくるさ」

 リク会長は何気なく説明するが俺は事態の大きさに気づき始めた。

「本当に、やってくれたんです、ね……」

「ああ」

 俺の震えた声にリク会長は短く答える。

 つまりリク会長は俺の、聡哉の願いを聞いてくれた。いや、リク会長だけじゃなく部員のみんなが力を貸してくれた、そういうことだ。

「ありがとうございます!」

 次の瞬間俺は深く頭を下げていた。

「礼を言うなら全然しゃべらない二人に言いな」

 そう言ってリク会長は腕を組み、顎で優雅と圭斗を示した。

「あの二人もあれからやってもいいんじゃないかって言ってくるもんだから多数決的に? 最後にはありすも賛同してくれたしな」

「わ、私はリク会長がやると言うので仕方がなく……」

 ありす副会長も腕を組む。おそらくそれは本音だ。ただ実はリク会長のコスプレが見たかったのも有りそうな気はするけど。ただ優雅と圭斗においては意外だった。

「ぼ、僕は、その、翠、君の内申書より、部員の方が大事ってい、言ったのがか、カッコよかった、から……」

恥ずかしそうに圭斗は言う。でも今回ばかりは俺も恥ずかしい。まさかそんな風に思ってくれたとは。

「自分は姉に話したら姉も一度コスプレをしてみたいと言うものですから。コスプレなんてこういう機会でないとできないでしょう。だから賛成したまでです。ちなみに姉は遅れてきますから」

 眼鏡をコスプレの関係上外しているのに押し上げようとする仕草はいつもの癖だ。

 結局みんな優しくてお節介の人の集まりなのだ、おそらく。

「本当にありがとうございます!」

「もういいって。この借りはきっちり返してもらうから。それより早くウィッグを着けてこれを持て」

 そう言われ押し付けられたのはクラッカーだった。

 「校門まで着いたらしい」

 スマホを閉じてポケットにしまうリク会長もクラッカーをならす準備にかかる。

 そんな中俺は改めて部室を見回した。いつもより豪勢に飾り付けられた部屋は誕生日パーティーするにはふさわしい。ちゃんとケーキまで用意されている。

「あ、それ圭斗の手作りな」

 クラッカーをならす瞬間のイメトレ等準備が整ったのか俺の視線に気が付いたリク会長が付け足す。

 まじかよ。

 思わず圭斗とケーキを交互に見る。圭斗は恥ずかしげに俯いた。

 こいつって、実は天才なんじゃないか?

 そう思いつつも口にはしなかった。足音が近づいてきたからだ。クラッカーを構えることに集中する。

「来るぞ」

 リク会長の低い声が室内に緊張感をもたらす。俺もドアの方に向かってクラッカーの先を向けた。

 足音と同時に声も聞こえて来た。

「珍しくコスプレデートしようなんて言ってくるしほんとにコスプレしてくるし、こんな奴いるんだと思いきや学校ってお前頭おかしいんじゃねえの? それともこれが本気のチョイスだったらセンスが狂ってるね」

 相変わらず今日の主役はご機嫌斜めのようだ。

「いいじゃんアニメのワンシーンとか再現できるぞ」

「はあ? アニメはアニメだからいいの。現実的にやっていいわけないじゃん。馬鹿じゃないの。これだから素人は」

 それ言ったらコスプレってアウトなんじゃないの、なんて無粋な突っ込みは唾と一緒に飲み下す。

「まあそう言わずこちらにどうぞ」

 ついにドアの目の前まで来たらしい。

「ここってあのわけのわからない部活の部室じゃ……」

「ホスト部ね。ほら入れよ」

 きっと今のあざかは折角の可愛らしい顔を歪ませているのだろう。眉根を寄せ、さくらんぼのような唇を尖らせ仏頂面しているに違いない。

 ガラッ――――パァァァァァァァァン!

 けど予想していた面はそこにはもうない。目を大きく開き心底驚いた様子だった。

「ようこそホスト部へ!」

 全員のクラッカー、リク会長の招く言葉、そして一同の笑み。当然あざかは訳が分からないと言った感じだった。

「火曜、お前の誕生日だろ? 当日はその、できないから少し早目の誕生日パーティー……」

「ハッピーバースデー!」

「うおぇっ!」

 折角聡哉がカッコよくキメるところだったのに明るいテンションで高めの声にそれは遮られてしまった。

 それも声だけならまだしも声の主は入って来るや否や後ろからあざかを抱きしめるのだった。

 腕が見事に喉を撃沈したのと驚きが混ざりあざかも苦しそうな嗚咽を漏らしたのだった。

 それでいてさらにはコスプレで大胆に見える胸元があざかの頭に当たっていて何とも居心地が悪そうである。

「美奈姉!」

 もちろんそんな少女に一番最初、反応したのは優雅だ。

「間に合ってよかった! この子があざかちゃんだよね!」

 いつもと変わらぬハイテンションに一人盛り上がり状況が理解できないあざかを自分の方に向ける。

「へえ、すっごい可愛い子! そのコスプレ何? 制服だから学園モノ? てか赤髪似合うね! 私ワンピースっていう漫画の衣装なんだけどちょっと露出多いかな? どう思う、優くん」

 一方的に話しかけておいて彼女の答えも聞かず弟へ話を振るあたりが通常運転だ。

「美奈姉! それもはや服じゃないよ! 水着並みだよ! パンツ短いし、む、胸見えてるから! 露出狂だよ! 不審者に会ったらどうすんの? あ、オレンジの短髪は似合って、る……」

 反応する弟も通常運転。相変わらず言っていることは彼氏じみている。全く何故美奈さんになるといつもの敬語が消えるんだ。

 という俺の考えが目から彼の脳に届いたのか頬を赤くし、またしていない眼鏡を押し上げようとする。

「と、とにかく似合ってはいますが危険です。帰りは絶対自分と帰ってください」

 いや訂正の仕方も違くね?

「盛り上がってるところ悪いが主役様は状況が理解できてないようだぞ」

 冷静に聡哉が割って入る。すると美奈さんは少しの間目をぱちくりさせ、やがて舌を出して笑う。

「つい興奮しちゃった。ごめんね。私鈴上美奈。優くんのお姉ちゃんだよ。美奈姉って呼んでね」

 ウィンクパチリと星が飛ぶ。でもそれは一層あざかを唖然とさせるだけだった。

聡哉が再び補足するように口を開いた。

「つまり火曜日ではできないからちょっと早いけど今日祝っちゃおうって。お前こういうパーティーがしたかったんだろ?」

 それでもあざかは言葉を失い続けた。それを見かねたリク会長も口を開く。

「その、なんだ、私たちはあまりアニメに詳しくはないからこの衣装が似合っているかどうか分からないが今日は楽しんでくれ。お前のために聡哉が用意してくれた舞台だ」

 ほんとリク会長が言うセリフはどんなものでもカッコよく聞こえてしまうのだからすごい。それもリク会長はコスプレの時さえもメンズなのだからなお様になる。

 あざかはリク会長と聡哉を交互に見つめた。そして俺や優雅、圭斗、ありす副会長にも視線が移る。最後に美奈さんの事も見つめる。やがてぷいっとそっぽを向き、腕を組む。

「ほんと余計なお世話」

「てめっ」

 ありす副会長が血管を浮かせる。けれどその血管と堪忍袋の緒が切れる前にあざかは先を続けた。

「全然似合ってないしコスプレを何もわかってない。メイクも下手。キャラに謝ってほしいくらい」

 しかし続けられた言葉は一層血管と堪忍袋の緒を切れやすくする一方だった。

「でも……!」

 ようやく切れ目にボンドが垂らされた気がした。あざかは少しだけ声を小さくして呟いた。

「でも、その……ありがとう」

 精一杯紡ぎだされた言葉。どんなに音量が小さくても大きな意味を持つ言葉は俺達の心に響いた。

 あざかは聡哉の方に体を向け、さらに彼へ向かって言葉を送ろうとした。だけど頬は赤くて聡哉に視線は向けられていない。代わりに視線が向けられているのは彼女自身の足元だ。

 だけどどんなに言いにくいことでも、恥ずかしいことでも、言葉は詞にしなければ伝わらないのだ。

「その、家族以外と、誕生日、過ごすの、初めて……なの。ていうか呼び出す理由だとしてもデートとかも、初めて、だから、その……」

 あざかの伸びた手は聡哉の服の裾を掴む。

 きっと自ら触れたのも、初めてに違いない。

「ちゃんと、え、エスコートしてよ、ね。折角準備してくれたんだから、さ、最後まで付き合ってあげるから」

「素直じゃないわね。普通に楽しみたいでいいじゃない」

 ありす副会長はもじもじとした彼女にうんざりしたのか本性丸出しでうっとおしそうに呟く。

 だけど聡哉にとっては十分すぎる言葉で嬉しくて恥ずかしくて、照れくさそうにはにかむ。

「いや、今日はいつもに比べりゃずいぶん素直だよ」

「べ、別に」

「あ、もしかして俺に惚れちゃった、とか?」

 何で今ここでそれを言っちゃったんだろう。折角いい雰囲気だったのに。

 あざかは顔から火が出そうなほど真っ赤にして掴んだ手を離して叫んだ。

「調子に乗るなエロ変態ナルシストクズキモ野郎! まじでキモいから! 誰がお前なんかに惚れるんだっつーの! 私は塚原様一筋だボケっ!」

 はあ、全く何をやってるんだか。

 溜息を洩らしたのは俺だけじゃなかった。ホスト部(聡哉を除く)メンツが同時に肩を竦め、二酸化炭素の塊を吐き出す。ありす副会長も怒る気力すら失いただ呆れている。

 美奈さんだけは場違いな微笑ましいものを見つめる優しい女神のような笑みを浮かべていたのだった。


 パーティーは盛大に盛り上がった。圭斗のケーキは見た目だけでなく味も予想以上に美味しかったし、何よりあざかが物凄い甘党でお菓子というお菓子をほぼ一人で平らげたことに驚いた。

 それでいて美奈さんやリク会長、ありす副会長までもがほんの少し、本当にちょっぴりだけあざかと仲良くなれたように見えた。少なくとも多少の会話はまともにできるようになった。

 さすがにまだ触ると怒るし俺達男子が話しかけようものなら睨んでくる。だとしても有意義な時間だったことに変わりはないし、大きな進歩に思えた。

 聡哉はパーティー中あまりあざかに話しかけず遠目に見守っていた。

コップ片手に壁に寄り掛かり飲み物をちびちびと飲んでいた。

 そんな聡哉に声をかけたのは俺だ。

「どうした? 話しかけないのか?」

「後で行くよ。ちゃんとプレゼントも用意したからな」

 聡哉は俺の声に反応はするものの一切視線は向けて来なかった。ずっとあざかを見つめている。

「へえ。何買ったんだよ」

「何、知りたいの?」

 そこで漸くいやらしい意地悪な笑みと共に視線が俺に向けられる。そんな表情で見つめられると聞いてはいけなかったような気になる。

「ま、教えてやらねえけど」

「なんだよ」

 どちらにしても聞き直す前に相手には教える気などさらさらなかった。

「だけどほんと、立花あざかって不思議な奴だよな」

「え……?」

 聡哉の急な静かで落ち着いた声に戸惑いが隠せなかった。

 でも聡哉にとってはそんな事どうでもいいのだ。奴の視線はまた頬に生クリームをつけ、ケーキをほおばるあざかに戻されていたのだから。

「あいつって確かに言葉は悪いけど本当は優しくて想像力が豊かで全然キモオタなんかじゃないんだよ。ただほんの少しだけ人と接するのが苦手で距離感が分からないだけだ。だからいとも簡単に友達ができてわいわいできるアニメの世界に憧れるんだ」

 その声は人の事を言えない程優しさに滲んでいて、遠くて、誰に話しかけるでもなく紡がれてゆく。

「だから教えてやりたかったんだよ。現実でも自分が変われば楽しくできる、充実できるって。その一方で俺は自分でも分からないくらいあいつに惹かれててほかの女子にはなかったモノを感じて、あいつさえいればほかの奴なんかどうでもよくなってた」

「聡哉……」

「すげえ可愛いんだよあいつ。本読んでる姿もアニメを語る姿も怒鳴る姿も、可愛いんだ。俺、あいつが好き」

「っ……」

 胸を強く突かれた気がした。漸く出た一言。たった二文字だけど、聡哉がちゃんと口にした。これがどれだけ大切か、どれだけ大きいか、その重みは計り知れない。

 すごくすごく重くて他人(ひと)に言うのすら恥ずかしい。なのに本命となればもっと恥ずかしくてなかなか詞にできない。だけど詞は言葉にしなければ伝わらない。

 伝わらない。それが「好き」という二文字。

「だから自分のモノにしたくなる。他の奴に取られたくない」

 冷静な声だけれど熱のこもった一言。

「お前も早くした方がいいんじゃねえの?」

 そこで聡哉がやっと俺に話していたんだと実感させられる言葉を口にした。

だが何の話をされているのか分からなかった。

「は? 何が?」

「あれのどこがいいんだか知らないけど、他校でも結構美人って人気あるらしいよ」

「だから何の話だよ!」

「早くしないと取られちゃうぜ?」

「だから何がって聞いてるだろ!」

「さて、そろそろプレゼント渡してくるかな」

 聡哉は結局答えてくれないまま壁に寄り掛かるのを止め、歩き出した。

 煮え切らぬまま聡哉の背を目で追う。だけど聡哉はこっちを振り返ってはくれない。もうあざかへまっしぐらだ。

 聡哉があざかに近づくと周りは空気を読んだのかさっと離れて俺の近くにやって来た。

 そして一緒に遠目に見守る。それはまるで保護者の目を連想させる。

「あざか、これ。誕生日おめでとう」

 そう言って聡哉があざかに差し出したのは非っ常に薄っぺらい包装紙だった。

 一体なんだろう。

「ありがと、う」

 ほおばったケーキの皿をテーブルに置き、ぎこちない様子でそれを受け取る。本当に何もかもが不慣れで初めてプレゼントを受け取るみたいに。

「開けてみてもいい?」

「もちろん」

 あざかはゆっくりと裏のセロハンテープを外し始めた。割れ物でも扱うようなゆっくり大切に丁寧に開けてゆく。紙が破れることすら許されないとでも言いたげである。

 そこまでされるとこちらの傍観席のメンツも生唾を呑み込んで中身が姿を見せるのを待つしかない。

 やがて中身は姿を現した。

「としょ、カード……」

 あざかの小さな呟き。

 正直傍観席にいた保護者的立場な俺達としてはずるっとこけそうになっていた。

 何と言うチョイス。というか、センス。聡哉ならもっと女の子に喜ばれるものを知っていると思っていた。

「たぶんこういう時ってネックレスとかブレスレット、指輪、そういうアクセサリーなんだろうけど……」

 あ、やっぱり分かってるんだ。分かった上でのそのチョイスですか。と、思ったのは俺達だけだった。貰った本人は

「すごい嬉しい」

 息が止まるくらいの勢いで喜んでいた。

「すっごく嬉しいよ! これでアニメイトで本と漫画買おう! それで貯まったポイントでグッズとブルーレイ買う! こんな素敵なプレゼント生まれて初めて」

 我さえも忘れている。俺は図書カードをプレゼントに貰ってこんなに喜ぶ人を生まれて初めて見た。

 そりゃあ学校の何かとかイベントごとで貰えた時は嬉しい。だけど誕生日に図書カードとはどうだろう。

「でもあざからしいよ。やっぱ聡哉は分かってる」

 俺の苦笑に気が付いたのか横からリク会長がぼそりと呟く。

「……そう、かもしれませんね」

 俺もぼそりと呟いて苦笑を微笑みに変える。

「喜んでくれたなら良かったよ」

 聡哉の微笑みにあざかは漸く我を取り戻す。恥ずかしい姿を晒したことを隠すように腕を組みそっぽを向く。

「ま、エロ変態ナルシストウザキモクズ野郎にしてはなかなかのセンスなんじゃない?」

 罵る語は一層ひどくなり、上から目線な気もするけれど口調はいつもほど強くない。

やっぱりただの照れ隠しに過ぎないのだろう。

「ほんとお前素直じゃねえな」

「うっさい黙れ。別に素直じゃないとかじゃなくて……」

 スッ――――――――

「でもそんなところも含めて俺はあざか、お前が好きだ」

 あざかの言葉は遮られ、まさか告白を相手の腕の中で聞くことになるとはきっと夢にも思わなかっただろうに。

「俺と付き合ってほしい」

 やっぱり何だかんだで聡哉ってカッコいいんだよな。見た目だけでなく中身も。男気全開でカッコいい。ストレートな奴。だけど今までそのカッコよさを発揮できていなかった。それは発揮するだけの想いをぶつける相手が存在しなかったから。

 だからただのチャラ男だった。でもそれは既にもう過去に過ぎない。聡哉は成長して前に進んだ、この学校に入学して。

「ば、馬鹿か! 私と付き合っても何も楽しくないぞ。デート先はアニメイトか本屋しか行かないし」

「馬鹿じゃないよ。本気」

「ふ、服だってゴスロリか黒ロリかコスプレしか着ないぞ!」

「ゴスロリと黒ロリの違いがわかんねえけど、うん」

「それに私理想郷で求めることハードル高いし」

「知ってる」

 聡哉はどこまでも本気で頷く。あざかは混乱するばかりで前言撤回を望んでいたけれどそう簡単にいきそうにない。

「それに私我儘で傲慢で、意地悪だから」

「うん」

「えっと……」

 結局聡哉が引き前にネタが切れたのだった。

「だからいいんだって。そういうの含めて全部好きなんだから」

「……」

 直球ストレートにあざかは押し黙るほかなくなる。聡哉はようやくあざかを離し、あざかの顔を覗き込んだ。

 しばしの沈黙が部屋を包む。俺達も息を呑んで二人を見守る。俺達が沈黙を破ることは許されない。

 ちゃんとあざかがあざかの言葉で、声で、破らなければいけない。

「……別に好きとかそう言うんじゃないけど、その彼氏(仮)みたいな感じで様子見してあげてもいいけど。そこまで言うならね。でも理想にあわなかったら即別れるんだから」

 これを世はツンデレという。本当は多分唯一心開いた相手なのだ。だけど彼女にとってまだストレートは投げられるほど余裕はない。でも聡哉にとってはそれで十分なのだろう。

「本当は好きなくせに。ずっと俺に惚れてたんだろ」

 ただ何故そこでそんなにも自意識過剰になれるかは謎だ。

「だからそんなんじゃなくて」

「けどその(仮)ってのなくしてやるから。俺の事好きだって認めさせてやるよ」

 言葉を遮ったのはやっぱり自意識過剰で自信満々で、でもカッコいい、聡哉らしいものだった。

 あざかは一切聡哉を見ようとはしないけれど反論もしなかった。ただ、不愛想にこう言った。

「……やってみなさいよ、エロ、さ、聡哉」

 その不愛想に呟かれた瞬間が一番嬉しかったかもしれない、聡哉にとって。

 いつもの呼び方をしようとして呑み込んだ。そして言い直したのは――――

「今俺の、名前、呼んだ?」

 ちゃんとした〝聡哉〟という名前。

「今、呼んだよな、俺の名前!」

 聡哉が興奮気味に口を開く。

「もう一度呼んでくんね?」

「はあ? さと、や……?」

 痴漢でも見るような完全にドン引いた冷ややかなあざかの視線に動じない聡哉の心の強さは尊敬ものだ。

「お前、ほんと可愛いな!」

 それでいてさらにストレートな物言いをするのだから崇める域に達する。

 ただ時にはストレートすぎるのもよくないのかもしれない。あざかは頬を赤らめ調子を取り戻す。

「はあ!? 何言ってんのお前。ほんとキモいんだけど。やっぱお前なんかただのエロキモクズ虫けら野郎だな! 名前呼ばれただけで発情すんな!」

 暴言の雨あられ。しかし聡哉の心は耐久性抜群、びくともしない。顔はにやけっぱなしだ。

「幸せそうだな」

 そんな風景を穏やかに太陽のように見守るリク会長は嬉しそうに微笑む。

「そうですね」

 俺も一緒に微笑む。

 人はいつでも変わろうと思えば変われる。だけどそれは簡単な事じゃないし、綺麗ごとに聞こえる。でもそれでも変えたいと努力した人だけが未来も自分も変えられる。俺は、そう信じてる。


 さて、今年の夏休みは休みと言えない程忙しく異様なスピードで終わっていた。おかげで夏の定番、海や祭りなども一切行かなかった。というのも部活が厳しかった。

 それも学校ではなく何故かリク会長の別荘で。つまり所謂合宿というのをしていたわけだ。その合宿があまりにハードすぎて途中で死ぬんじゃないかと思った。

 リク会長の指示で行った行き過ぎた筋トレ(今でも思い出すと筋肉痛を起こしそうだ)、紳士的な振る舞いを身に着けるべく徹底した仕草指導。体力的に限界を感じた。

 その上延々と見せつけられる鈴上姉弟のラブラブぶり、リク会長とありす副会長のリアル百合(ありす副会長の一方的な想いだが)、そして驚いたことにあざかも同行したため聡哉の気持ち悪いほど溺愛するデレっぷり。

 精神的な疲れも尋常ではなかった。まあ今は思い出したくないのでいつか心と時間に余裕ができた時、思い返し振り返ろう。

 それよりも何故そんなことをしていたか。それは全て夏休み明けの文化祭のためだった。

「何故文化祭は二日間にせず一日にしてしまうのか私は学校側の意図が全く分からないわけだが、営業時間は長くしてもらうことに成功した」

 文化祭二週間前、文化祭準備期間に入った。どのクラス、部活も文化祭に向けて整備や備品の準備が始まる。リク会長も我が部を休部にし、本気モード全開で俺達に作戦会議を持ちかけて来た。

「そして今回生徒会企画で一番良かった出店のアンケートを取ることになった。そのアンケートで見事に一位だったクラス、もしくは部にクラス費・部費を文化祭の利益分上乗せしようという話になっている」

 そこでリク会長は一端言葉を切った。

「本来なら事前に準備代として回収されたお金は生徒に回収した分だけ返し、利益は学校の運営費や地域のボランティア活動に回されるんだ。そこを一位だったクラスや部は今後自分らのために使えるというわけだ」

「リク会長、さすが名案でしたわ」

 ありす副会長が横から称える。それにリク会長は静かに笑みで返す。するとありす会長は相変わらず嬉しそうに頬を赤らめる。

 この風景は本当に見てる側としては複雑でならない。それも前より一層複雑さは増している。

 だって、俺も、気持ちが動き始めて、いるから。

「そこでだ。たぶんクラス展示もあると思うがぜひ我が部を一位に導いてほしい。正直人気が出て来たのもあって一日の限定数をあげたいと思っているんだ」

「確かに限定数は上げたほうがいいと俺も思うけど、何で導いてほしいなんだよ。あんたも出るんだろ?」

 あざか以外、特にリク会長には相変わらずとげのある口調で話すのは聡哉の悪い癖だ。

「もちろん出ることは出るんだが私とありすは当日生徒会の仕事もあるからホスト部と生徒会とクラスを行ったり来たりしなくちゃいけないんだ。それで結構席を外すことになると思う」

「それはまた痛手ですね」

 とかいいながらそこまで深刻に思っていない口ぶりの優雅は眼鏡を押し上げる仕草だけは忘れない。

「まあそのために夏休み合宿もしたんだ。大丈夫だろう」

 リク会長も何を根拠に言っているのかそこまで危機感を募らせている様子はない。

「それにお前たちにはもう一つ、使命がある」

「し、使命、ですか?」

 あれだけ合宿をやっても変わらないのはありす副会長への想いだけではない。コミ障まで変わらない圭斗の声はどもっている。

「ああ。文化祭には他校の生徒はもちろん、中学生も来る。即ち来年度の入学生へのアピールにもなる。できればさり気なく男子の勧誘をしてくると助かる」

 ああなるほど。男子が増えれば多少ハーレムが崩れても(崩れるほどのハーレムなんてないけど……モテないせいで)肩身が狭い思いはしなくても済む。

 だがよく考えてみてほしい。俺達は何部か。ホスト部だ。そこらのサッカー部やバスケ部とはわけが違いう。相手はあくまで女の子。そこを男子勧誘って、難しくないか?

「まあ他校や中学校への宣伝自体は既にやっておいたらから後は当日次第だ」

 だからその当日が無理臭いんですけどね。そもそもホスト部にわざわざ男子が来るか?

「そういう訳で頼んだぞ」

 リク会長の一言にメイン四人は情けなく視線を逸らし、曖昧な表情を浮かべた。聡哉でさえ反論せずたた視線を逸らすだけだ。

するとリク会長も珍しく悲しそうな笑みを浮かべて言葉を紡ぎ出した。極めて静かで、でも明るく見せかけるように。

「そんな顔するなよ。来年私は卒業だぞ? 少しくらい卒業後への希望の光を見せてくれよ」

 その言葉に思わず息を呑んだ。

 そうか、来年三月、リク会長は卒業してしまう。リク会長のいないホスト部など成り立つのだろうか。廃部の危機だってある。そもそも三年生はこの文化祭が終われば卒部する。どちらにしても時間はなかった。

 当たり前のことだけれどいざ口に出されると実感がなくて何だか切ない気持ちになった。

 どれだけリク会長に、依存していたのだろう。気づかされた瞬間だった。

 時間は止まらない。俺達は限られた時間の中でリク会長の想いに応えることは、できるのだろうか。


 それから俺達は相談を重ねた。いつもと違うような何かを、文化祭らしく特別になるためにはどうしたらいいか必死に考えた。

 そして結論としてまず「貸出制度」が決まった。貸出制度とは十分百円から最大六十分六百円まで俺らの中の誰かを指名し、文化祭中校内を一緒に回ることができるのだ。まあ要するにデートというわけだ。指名ではお金を取るがその代りデート中購入したら全てホスト部が払うという特典付。

 ただその指名で頂いたお金はあくまで文化祭利益に回されるのに関わらずデート中の奢りは自腹という俺達にはあまりメリットのない制度である。

「いいか、エスコートは合宿で散々教えたんだ。絶対女の子を満足させて来い。いいな」

 決まった瞬間俺らのお財布事情も知らずにリク会長から飛ばされる激。全くこれだから金持ちは。

 まあ決まったことをとやかく言っても仕方がない。もう一つほかに決まったことがあるのだ。

 この間のコスプレ服に新しく(リク会長の経済的支援によって)追加されたロリータ、ゴスロリ、その他コスプレなど無料で貸し出すらしい。

「今回の文化祭テーマは『王子と執事、貴女はどちらが好みですか?』で行こうと思っている。おそらくほとんどの生徒が制服等で来るはず。よって服を豪奢にすることで一層雰囲気づくりをするということで」

 というリク会長の提案の元決定した。

 まあ財布は苦しくなりそうだがこうでもしなきゃ女の子と文化祭回る機会なんて訪れないだろうし反論は特になかった。他三人も特に反論はないようだった。聡哉においては後者を特に押していた。というのもあざかが当日ロリる(ロリータを着る)ことができないなんて最悪とぼやいていたらしい。だからちょうど良かったのだろう。

 そして俺達は改めリク会長のお財布を尊敬する。

「というわけでその方向で進めようと思う」

 リク会長が簡易的にまとめる。

 実際上手くいくかなんて誰にも分からない。赤字になるかもしれない。(その場合一番被害を被るのはリク会長のお財布なのだけれど。)でもリク会長にとって最後の文化祭。成功させたい。

 実は最近聡哉はあまりにあざかへべたべたしすぎてしょっちゅうのろけるものだから学校中では有名なカップルになっていた。だけどそれが逆に今までチャラ男だった聡哉が一途になったと女子からは再び支持を受け始めていた。

 最近では相談するために指名してくる子もいた。おかげで雰囲気は夏休み前に比べて断然よくなった。

 だから、だからたぶん成功させられると俺は、思っている。頑張ろう。


 バタバタと多忙な準備期間を終え、文化祭前日の夜を迎えた。

 部室を出て解散し、帰路をたどっていると、リク会長が俺の背に向かって声をぶつけて来た。

「翠!」

 俺は驚きを隠せぬまま振り返る。

「どうしたんですか、リク会長」

 リク会長は肩で息をしていて膝に手をついていた。これから冬に突入しようと秋も深まり始めているというのにリク会長の額には雫が光っている。

「いや、お前と少し話しがしたくてな」

 そう言ってまだほんの少し息を切らしつつも静かに微笑むその姿にどきゅんストライクゾーンを撃ち抜かれてしまった。どうか顔が赤くなっていても暗くてバレませんように。

「俺と、話ですか?」

 あくまで平静さを装っている、つもりだ。

「ああ。とは言っても話ってほどでもないんだが」

 完全に息が整ったリク会長は背を伸ばして立つと俺をじっと見つめて来た。その目はどこまでも澄んでいて濁ることを知らない。リク会長の目はいつもそうだ。こうだと決めたら訊かなくてでもいっつも前を見てきらきらまぶしい輝きを放って進んでゆく。

 俺は、こんな人に、俺みたいなつまらない男が振り向いてもらえるだろうか。

「明日の事なんだが」

「明日の、文化祭、ですか?」

 歯切れの悪い俺の問いにリク会長は当然首を縦に振った。

「その、貸出制度のこと、なんだが……」

 珍しくリク会長までもが歯切れが悪い。そこですっとリク会長の視線が俺から外される。代わりに注がれる視線の先は足元。彼女は俯いて小さく呟く。

「お前の、その最後の客を、私に……してくれない、か?」

 それはあまりに小さすぎて聞き取れない。

「すみません、もう一回いいですか?」

 するとリク会長はバッと顔をあげた。その頬に赤みが帯びている気がしたのは俺の気のせいだろうか。暗く街灯でうっすら照らされただけでははっきりと言えない。

「だから、文化祭の終盤私に付き合えと言っているんだ!」

声を荒げられればしっかりと聞こえる。

しかしあまりの勢いに返事するよりまず慄いてしまった。それも何を言われているのかしばし理解できなかった。

「えっとぉ……え?」

 結局間抜けな面して間抜けな声を漏らすことしかできない。

「と、とにかく終了三十分前は開けておけ、いいな!」

「え、あ、はい、わかりました」

 何か自分でも滑稽に思えるくらいあほらしい返事だ。

「話はそれだけだ。じゃあ、明日」

「あ、はい、また明日」

リク会長は踵を返して去ってゆく。闇の中に溶けるように消える彼女の背をしばらく俺はあほ丸出しな表情で見ていた。やがてその背中が見えなくなり、秋風に頬を撫でられふっと気が付く。

今のって文化祭を一緒に回ろうという、誘い……だった?

なんて今更思ったところで問いかけられる背はもうそこにはなかったのだった。


 まず眠れなかった。本当に誘いだったのだとしたらどぎまぎして寝ようにも寝付けなかった。

 おかげで文化祭当日にして俺の目の下にはクマががっちりと居座っている。

「み、翠君、だ、大丈夫ですか? 何か疲れて、ません?」

 一番に心配そうに声かけてきてくれたのは圭斗だった。

「ああ、平気。それより圭斗はありす副会長のこと誘わないの?」

 近くにありす副会長がいないことを確認して尋ねる。

 正直自分だって誘われた身に過ぎないのに偉そうになっていた。実際自分から誘えたかというとおそらく無理だ。けれど圭斗はそんなことに気が付きもせず俯いて首をぶんぶん横に振った。

「そそそんなこと、できないですよ。お、恐れ多い」

 相変わらずコミ障は治らない。そして俺もヘタレが治らないくせに同情するように肩を竦める。

「あ、俺午後から抜けるから」

 いきなりさらっと俺達の会話に割って入って来たのは俺よりもさらに偉そうで唯一の彼女(仮)持ちの元チャラ男である。

「は?」

「いやあざかと文化祭回ろうと思って」

「ならば自分は午前に」

 そしてもう一人違和感なく混ざってくるのは当然シスコン代表優雅である。

「自分はその、姉に学校の事を教えなければいけないので」

 とか言ってただお姉さんと回りたいだけだろ。

「待てって。勝手に決めるなよ。リク会長たちにも聞かないと」

「翠の言う通りだ」

「り、リク会長!」

 さらに一人混ざってくる。そしてその瞬間俺は一番に反応してしまう。昨日のことを思い出すとどぎまぎして目も合わせられない。ところがリク会長は何事もなかったかの如く話を続ける。

「案外自由時間は短いかもしれないぞ」

 そう言ってリク会長はドアの方を指さした。

ドアの隙間から外を除くと開店前に関わらず既に女性客が数多と並んでいた。

「意外に他校からも来てるみたいでな。私も生徒会、クラスの掛け持ちで忙しいし自由時間は取れないと思う」

「まじか。じゃああざかには貸出制度で俺を指名してもらうか」

「できればそうしてくれ」

 聡哉はスマホをタッチし、堂々とその場で電話を掛ける。

全くすっかりリア充ことリアルに充実した人になりやがって。まあそんなものは無視して。

「自分もそうした方がいいですか?」

「美奈さんか?」

 シスコンの話に移る。

「ええ、まあ……」

「そうだな……。なら一番の貸出客ってことで開店早々行って来い。三十分後には戻って来てくれよ」

「え、最初に行ってきていいんですか?」

「ああ」

 早速こいつも連絡。これでまた一つ話が解決する。

「と、ところで、ありす副会長、は、どちらに?」

「ああ、今外で整備をやってるよ」

「そう、ですか……」

 憐れに一人は一歩も前に踏み出すことができず話が幕を下ろす。

あとはてっきりリク会長から俺に何か言われると思っていた。昨日彼女から誘って来たのだから何か言われるはず、と。しかしリク会長は一向に俺へ口を開く素振りを見せない。

「よし、今日一日最高の文化祭にするぞ。十分客を楽しませ、そしてお前ら自身も楽しんで来い!」

 結局そう言ってオープン準備にかかってしまった。

 昨日のは、夢だったのだろうか。


 文化祭が開催されるともう私情を挟んでいる暇などなかった。一体どこから噂を聞きつけてやって来たのか次から次へとお客さんが入って来て客足が途切れる事はなかった。珍しく俺も多めの指名を受けた。

 他校の子から言われたのだが変に気取ってなくて、そこまでイケメンじゃない所が親しみやすいそうだ。それは褒められているのか貶されているのか微妙なラインだった。それでも何人かはアドレスを教えてくれたし貸出も申し込まれた。そんなわけでとにかく忙しかったのだ。

 圭斗でさえ調理をありす副会長に任せて接客にまわっていた。もちろんどもりは酷いがそこが可愛いと上々の評判だった。

 それから恒例のリク会長指名は断トツだった。ただ生徒会やクラスの方で抜けると聡哉がそこをフォローした。それでも客で不満そうな人は誰一人いなかった。それは聡哉の腕だろう。

 客の中には指名はないものの中学生だと思われる男子も若干だがいた。もしかしたら来年入ってくれるかもしれない。

 とにかく忙しくてたぶんどこの店よりも一番繁盛していたと思う。

 辛うじてお昼になっても空腹で死にそうな状態にならないのは接客中に一緒に飲んだり食べたりしていたからだろう。おかげさまで休憩ないまま午後の部に突入したのである。

 それでもって人は一向に減らないのに文化祭終了一時間前の四時になると聡哉が容赦なくあざかが指名したという形でデートに出て行った。あいにくリク会長も席を外している。まさかの俺と圭斗と優雅の三人で店を回す事になった。

 優雅は眼鏡を外しているからともかくとして俺と圭斗はフォローどころか自分の指名さえ満足させるのに苦労していた。もう頭が回らないのだ。

 それなのに! どうしてこう多忙な時に問題はやって来るのだろう。

 ガタンッ!

 いきなり音をたててドアが開いたかと思えばまあまあ三人のイケメンがご来店だった。

 イケメンの王道、黒髪吊り目の学ランと金髪にピンクのメッシを入れたチャラ男、薄い茶色がかった穏やかそうな青年、揃いも揃って美少年ではないか。三人ともジャニーズやファッション誌にいても違和感のなさそうな人達だ。

 一体全体そんな人達がうちに何の用で?

 室内は静まりかえる。その静まり返った中で三人はズカズカと入り込んで来た。そして中心にやって来ると学ランが俺達を見下したような目つきでこちらを見つめて来たかと思うと鼻でせせら笑った。

「お前らが地元で噂のホスト部か」

 低く軽薄な声。しかし声までもイケメンである事を認めざるを得ない。

「えっと……」

 それに比べ俺はビビりまくりで震えている。何で本当にこんな時リク会長や聡哉がいないのだろう。

「揃いも揃ってブサイクばっかじゃねえか」

 そりゃあ揃いも揃ってイケメンに言われては反論の余地はないのだけれど。

「あの、どちら様ですか?」

 すかさず優雅が動じることなく立ち上がり学ランに歩み寄る。

「近隣校のマスカットニクス・フレイバー校のホスト部だ」

 これまた紅茶の原料みたいな名前の高校だ。本校に負けないネーミングセンスの悪さ。この辺りの学校大丈夫だろうか、名前的に……じゃなくて、他にもホスト部あったんだ。

「で、その近隣校のホスト部さんが何か御用ですか?」

「いや、最近ここのホスト部が人気だと聞いてね。でも予想以上にブサイクの集まりでよくホスト部なんかできるなと」

「へえ。客は可愛い子たくさんいるじゃん。君、名前なんて言うの?」

 金髪メッシが近くの女の子に絡む。女の子はちょっと震えながらも小さく答えた。

「ほんと勿体ないよな、こんな可愛い子たちの相手がこいつらなんて」

「ねえ良かったら僕たちと遊ばない?」

 薄茶色のも穏やかなのんびりした声と口調でナンパにかかる。

「悪いようにはしないよぉ?」

 正直女の子たちは脅えてはいたものの心は揺れていた。やはりイケメンには勝てないという事なのか。

「ちょ、ちょっと!」

 そんなのは悔しいと立ち上がってみるも膝はがくがく笑っている。

「ああ?」

 学ランが眉をひそめる。

「あ、いや、一応文化祭中だし……」

「ブサイク顔面凶器は黙ってろ。こっちも今部活中なんだよ」

 どんな部活だよっ!

 その時これまたタイミング悪く

「どうかしました?」

 メイド服のありす副会長が異変に気がついて調理室からやって来たのだ。

 すると学ランの目がキラリと獲物を見つけた虎の如く輝いた。そして舌舐めずりをするとアリス副会長に近づく。

「へえ、すっげぇ可愛い子じゃん」

「えっと……どちら様ですか?」

 戸惑いつつもあくまで猫を被ったありす副会長が問う。ありす副会長が猫を脱ぐときはリク会長が関わっている時だけ、なのだろうか。今こそ脱いでくれればあっさり片付きそうなのに。

「俺は近隣校でホスト部をやっている犬神雷雅っていいます」

 名前までめちゃくちゃカッコいいじゃねえか!

「ねえ君、俺と」

「あ、ありす副会長!」

 耐えかねた圭斗が男気を発揮。ところが次の瞬間ギロリと獣じみた瞳に睨まれ縮こまり黙りこむ。

 頑張れよ圭斗! ……人の事は言えないのだけど。

「で、俺と遊ばない?」

 完全に圭斗は無視。にっこりスマイルで学ランがありす副会長の口説きにかかる。

 だがいつの時代もピンチの時は必ずヒーローが現れる。ただし少しばかり遅いのだ。

「私の可愛い後輩を口説くなんて百年早いんじゃないか? どうしても口説きたいならその学ラン、白く染め直して来てもらおうか」

「リク会長ッ!」

 そしていつもヒロインはヒーローの登場に最高の笑顔を見せる。本当に何かのワンシーンのようだ。

 イケメン三人がリク会長を振り返る。

 首から下を見れば完全に男だと間違われそうな姿の美少女に学ランが顔を歪めた。

「あんたは?」

「私はここの部員兼生徒会長だ」

 その言葉に雷雅が口元を歪めていやらしく笑う。

「へえ。生徒会長様ですか。それもここの部員で」

「ああ。何か不満か? 少なくともお前らよりはモテると思うぞ」

「言ってくれるじゃん、男もどきが」

 そう言って雷雅はリク会長に歩み寄った。それから一層いやらしさを増して微笑む。

「あんたも綺麗な顔してるんだからあっちの子みたいにメイドさんの格好でもしたら?」

 ぐっと顎を掴む。けれどリク会長は動じない。

「そしたら俺結構好みだと思うんだけど」

「ふん」

 そこでようやくリク会長も動きを見せた。鼻でせせら笑い顎を掴む手を振り払う。

「別にお前みたいなゴミに好かれたいとも思わないね」

 馬鹿にするような嘲笑がリク会長の表情を彩る。

「ゴミ? この俺が?」

「それ以外に誰がいる? いやしかしゴミはあまりに失礼だったかな、ゴミに対して」

「ってめぇ黙って聞いてりゃ言ってくれるじゃん」

 ダァン!

 リク会長は入口付近から動いていなかったためいとも簡単に壁に押し付けられた。壁と雷雅に挟まれ、手も頭上で拘束される。けれどリク会長はいつだって沈着冷静だ。

「そうやって暴力でしか解決できないのか。やはりゴミ以下だな」

「おっと、まだそんな暴力ってほどの事はしてねえだろ? お前だって所詮女だ」

 俺の位置からはもう雷雅の表情は見えない。だが声は笑っていた。そして次の瞬間雷雅は顔をリク会長に向かって近づけ始めた。

「てめえリク会長になっ――――!」

 見かねて怒りに声をあげたのはありす副会長だろう。でもその頃には俺の体は動きだしていた。考えるよりも早く。

 ただどこか、心のどこかにあったのはキスしようとしているなら絶対させないという不明なプライドだった。

 俺は奴の背中を掴み引き剥がした。予想外の行動に奴はあっさりと身を動かす。その隙に二人の間に割り込むが如くリク会長の前に立ちはだかった。

「何すんだよ。ブサイクは引っ込んでろ」

 体勢を整えた雷雅が俺をきつく睨む。当然足は震え言い返す言葉は見つからないけど動く気はない。

「り、リク会長は、俺の……」

 俺の? 違う。そんな事言う勇気は、ない。

「俺達のぶ、部員と言うか、仲間と言うか、その変なことされても、困るというか」

 自分でも本当に情けない。声はどんどん小さくなっていくし結局何が言いたいのか分からない。本当にどれだけヘタレなんだ俺はっ!

「はあ? 意味わかんねぇ。邪魔。どけよ」

「それは、できません」

 蚊の鳴くような声とはこういう事を言うのだろう。

「どけろって言ってんだよ」

 さすがにキレられた。なんて呑気に考えているとその瞬間何もかもがスローモーションに見えた。顔面に向かって拳が向かってくる。頭の中で殴られるという認識があった。

 ただ一つ。

「翠、しゃがめっ!」

 リク会長の鋭い声だけは通常のスピードで聞こえた気がした。だからこそ反応できたのかもしれない。とっさにぐっと腰を落とす。

 次の瞬間風と共に何かが頭上を横切った。それからズクシュッ――という音で合っているかは分からないが鈍い音が響いた。

 まさか俺の代わりにリク会長が殴られたのではないか。反射的に瞑った目を恐る恐る開いてみる。

 するとそこには腰を押さえ倒れる少年の姿とほぼ垂直、頭上にすらっと細長い足が宙に浮いていた。

 何があったのか理解できないままその足はあるべき所に戻ってゆく。

「可愛い後輩を傷つけるようなら私がお前を殺す」

 かなり物騒な言葉が頭上で響く。しかしその声に冗談は一切なく、リク会長は本気だった。

「ついでにこいつもホスト部である限り顔は商品だ。売り物を傷つけたら賠償金払うのは当然だよな」

 その声は嘲笑っていた。でもやっぱり本気だ。

 俺は立ち上がりようやく状況を理解した。

 つまり俺がしゃがんだ事で雷雅の拳は空気を裂き、同時にリク会長の長い足で奴の腰に蹴りを見舞いしたわけだ。

 それって何だか俺がカッコ悪くないか? まるで守られたみたい、俺が。まあ一番カッコ悪いのは雷雅なのだけれど。

 雷雅もようやく立ち上がった。けれどまだ痛みはあるのだろう。腰に手を当てている。

「やってくれるじゃねえか、暴力女。次会ったらただじゃおかねえ」

「次? そんなものねえよ」

 リク会長は俺を押しのけ雷雅に歩み寄った。かなり近距離でお互いの吐息は微かに触れるくらいだった。

「ニ度とその面見せんじゃねえ」

 こんな風にキレるリク会長は今まで一度も見た事がなかった。そもそもリク会長は怒るという事はしない。いつも笑ってくれる。間違ってたら正してくれる。寛大な人だ。でも今はまるで人が違うみたいだった。

「ちっ」

 さすがに諦めたか、それともこの人には敵わないと悟ったか、雷雅は大きく舌打ちをし、リク会長の横を通ってこの場から姿を消した。一緒に来た二人も後を追う。

 すると一瞬にして静寂が波のように押し寄せて来た。誰も口きけぬまま押しつぶされそうな、酸素がなくなったような息苦しい空間が生まれた。おそらく誰もがリク会長の新たなる姿に言葉を失っているのだ。あのありす副会長さえ。

 それをぶち壊すように奴らが開けっぱにしたドアから人が入って来た。

「ごめん、文化祭終了ぎりぎりまで一緒に過ごしちまった……ってあれ、何か静かじゃね?」

 状況理解どころか状況把握ができていない呑気な奴が彼女(仮)とのデートを終わらせて来たのだった。こっちの気も知らないで。でもそれを期にリク会長が俺の方を振り返る。

「その、翠」

「……はい」

 俺は恥かしくて情けなくてリク会長と目を合わせる事ができなかった。だけど――――

「ありがとな」

「え?」

 その言葉に思わず会長の目を見つめてしまう。

 するとリク会長は、優しく笑っていた。先ほどまでのが嘘であるかのように。

「嬉しかったよ、庇ってくれて。ちゃんと女として扱ってくれた。ありがとう」

「いえ、そんな、俺は何も……」

「いつも守る側だからな、私は。でもたまには守られるって言うのも悪くないかもしれないな」

「今、なんて?」

 そうやってリク会長はいつも大事なところを濁すように小さくしか呟いてくれない。でも聞き返しても首を横に振って繰り返す事もしない。だけどそんな所も最近は愛らしくて俺は……。

「あと十分か。くっそーあいつまじで許さない」

 リク会長はふざけたように拳を握る。

「仕方ない。それでも行くぞ、翠!」

「え、は、はい!?」

 拳はパッと開かれ俺の手を掴む。そしてそのまま引っ張られ部室を出る。

「あ、あのリク会長!?」

 人ごみにもまれながらも必死にリク会長に呼び掛ける。その声は戸惑いに満ちているというのに彼女は振り返って満面の笑みを浮かべて明るい声で言うのだ。

「お前の今日の最後の指名客は私だ」

「っ!」

 ふっと昨日の事を思い出す。やはり夢なんかじゃなくて本当に誘われていたんだ。

「そうだな。綿あめは絶対食べたい。いや、クレープも外せないな。うーん、りんご飴も捨てがたい」

 俺は思わずくすりと笑った。

「甘い物ばかりですね」

「うるさいなぁ。今日は甘い物の気分なんだ」

「……じゃあ十分くらい我儘にお付き合いしましょう、お姫様」

 とてつもなく恥かしくてキャラじゃない事は分かっていた。だけどこれも合宿でやったことだし、何より言いたくなった。だってリク会長があまりにも無邪気で可愛かったから。

「くたびれるんじゃないぞ、王子様」

 でもリク会長は決して似合わないセリフを馬鹿にしたりはしない。笑って合わせてくれる。

 本当に素敵な人だ。だからかこうして引っ張られて人ごみを縫うように歩くのも、悪くない。そう思えてしまうのだった。リク会長が、一緒なら。


 あの後の事を話すと、うん、すごかった。

 とりあえずどの店行っても顔パスで並ぶことなく買えたのだった。さすが人気を誇る生徒会長。

 だから十分しかなかった割には色々買えた。ただし甘味しかなかったのだけれど。それでいて全部俺の奢りだったのだけれど。

 それでも無邪気に笑って甘い物を頬張るリク会長は愛らしかった。そしてその食べる合間に奴らの話を聞いた。

 マスカットニクス・フレイバー校はここ数年新入生が減っていて赤字を背負った廃校目前校なのだそうだ。その危機的状況を改善するためホスト部が造られたらしい。

 しかしそのホスト部は校内だけでなく校外にも出て女の子に声をかけていたらしい。とても部活とは思えない金額で飲み物等を提供していたという噂もあるらしく、ここらじゃ俺達とは違った意味で有名だったらしい。

 おそらくホスト部で儲けた金は学校の運営費に回されていたのだろう。それでも学校の赤字なんてそんな安い物でもないのはず。ホスト部の普段の部活だけじゃ補えないに決まってる。そこで今回こんな事を起こしたらしい。

「全く呆れた奴らだ」

 リク会長は終始それを繰り返したが終了のアナウンスが鳴る一分前、クレープのクリームを頬に付けて俺を振り返った。

「だけどあいつらが来たから翠の、そのカッコいいところが見られたんだよな。だから少しは感謝しないと」

 それはちょっと冗談交じりでちょっぴり本気なリク会長らしくない言葉だった。

「頬にクリーム付けてそんな事言われても反応に困ります」

 あえて冗談の方にのって茶化してみる。するとリク会長は恥かしそうにクリームを拭い、そして笑った。

「来年こそ最低三十分は付き合ってもらうぞ」

 来年って会長卒業してるじゃないですか、なんて野暮な突っ込みは呑み込んで少し照れつつもはにかんでみる。

 その時ちょうどアナウンスが流れ、こうして文化祭は幕を閉じた。閉じたのだが終って三日後、まず第一の問題が起きた。

 部活に来たありす副会長が俺達に一枚の紙を突きつけて来た。その紙の上に踊る文字は……

「退部届……」

 聡哉が一応部長として受け取り声に出して読む。そしてしばしの沈黙が部室に落ちた。四人のうち誰一人として何が起きているか理解でいた奴はいなかった。漸く聡哉が我に返り状況を理解する。

「た、退部!? 何で!?」

「そうですよ、どうしたんですか!」

 俺も続く。優雅は興味なさそうに眼鏡を押し上げるが内心そわそわしているのが傍から見て分かる。圭斗においては放心状態と言ったところか。

「どうもこうももう意味がないの」

 彼女は肩を竦めてすとんと近くの椅子に腰かけ、足を組んだ。細い足が組まれる事で覗く太もも辺りが実に色っぽい……ってそうじゃなくて。

「意味がない?」

 俺は間抜けにも復唱する。

「そう。私にとってリク会長が全て。リク会長のいないホスト部なんて興味ない」

 これこそ猫を脱いだありす副会長の本当の姿だった。いつもの鼻にかかった舌ったらずな声ではなくちょっと低めの冷たい声が耳を叩く。

「リク会長がいなきゃただのブサイクの集まり。別にお前らに興味はないの。私がこの部に入ったのはあくまでリク会長がいたから。それ以上でもそれ以下でもない。よって私は退部する」

 心に突き刺さるような言葉の霰が俺達を襲う。当然一番ショックを受けているのは圭斗なのだろうけど。

「ま、待てよ! ほらそれって、内申書にも関わるんじゃね!?」

 俺達にとってありす副会長の存在は大きい。出してくれる案はいつも成功へ導いてくれるし、動きも機敏で実に力になってくれている。リク会長がいなくなった今、またその大きな存在を失うにはあまりにリスキーすぎる。

 だからこそ部長としても引きとめたいのが本音である。ところが

「別に内申なんてどうでもいいの。とにかく決めた事だから部長としてサインくれるかしら?」

「そうはいかないだろ。人手だって足りてないわけだし」

「それなら貴方の彼女、確か立花だったかしら、あの子に頼んだら? よろこんでコスプレしてくれるんじゃない?」

 嫌味くさく突放された。今だリク会長への暴言を根に持っているのだろう。

「いやあいつは無理だって。あいつ基本女子でも俺達以外仲良い奴いないし」

 それもそれで気の毒。だけどそれってホスト部のメンツは特別って事なのか?

「知らねえよ。とにかく後は勝手にやって」

 そう言ってありす副会長は立ち上がり、踵を返す。

「ちょ、待てって!」

「しつこい男は嫌われるわよ。一週間以内にサインくれないなら教員の所に直接行くから」

 振り返りもせず彼女は冷たくそう言い放って部室を後にした。

 聡哉は止めようと伸ばしかけた手の行き場を失い、俺は口を開け、優雅は眼鏡を押し上げる。圭斗は俯きつつ肩を震わせた。その胸に今、何を想う――――。

 第二の問題は客足が減りつつあることだった。

 リク会長が六日、ありす副会長が三日、来なくなって経った日数。折角文化祭で一位だったために部費が増えたというのに客は半分以下まで減り、正直暇を持て余していた。

 時たま聡哉に相談目当てで来る子や、優雅の眼鏡外した姿を拝みに来る子もいたけれど前ほどじゃない。

 やはりリク会長がいなければ所詮こんなものなのだ。

「リク会長の存在って大きかったんだな」

 聡哉が天井を仰ぎ見る。

「何か調子にのって俺彼女できてもモテるかと思ってたけど所詮リク会長の待ち時間潰しだったんだな」

「結局俺達ってさ」

 俺は静かに口を開いた。あまり言いたくも聞きたくもない現実だけど仕方がない。これが真実なのだ。

「何も変わってないんだよな」

 この真実に三人の視線が集まる。

「リク会長の人気に絢かって本当は何も成長してない。それに周りは気付いてる」

「そうかもな。たぶん俺達四人だったらここまで来れなかった。リク会長がいなかったらここまでにはなってない。だから本当はいた間に俺達自身成長してなきゃいけなかったのに結局当初と何も変わってない」

 聡哉の言う通りだった。俺もずっと変わりたいと思って来た。彼女ができないのは機会がなかったわけじゃない。前に進む一歩を踏み出す勇気がなかった。それだけのこと。そして今もそう。俺は半年前と変わらないヘタレだ。

「このままじゃダメなんだ。変わらなきゃ。成長しなきゃ。こんなんじゃ来年新入部員を迎えられない」

 変わりたいと思うなら、嫌だと思う自分がいるなら、変わらなきゃ、脱ぎ捨てなきゃいけない。いつまでも閉じこもっているようじゃ、ダメなんだ。

「いやでも確かに翠の言う事も分かるんだけど、本音俺はわりと満足してるし? 俺はあざかさえいればいいし?」

「自分も美奈姉の事ばかりですがそれは自分が美奈姉を一番に思っていて、別に美奈姉さい傷つけなければいいかなと。あ、もちろん女性としてではなく姉としてですよ?」

 そこは顔赤くして訂正しなくてもいい。そんなことはどうでもいいのだ。それより変わる意思がない所に問題がある。

「それじゃあダメだよ。一人しか大事にできないなんて狭量すぎる。もっと視野を広げなきゃ。その上で彼女たちを〝特別〟とするんだ」

 自分でも何が言いたいのか分からなくなってきた。自分だってそんなこと出来ない。だけど口は走り続ける。

「自分勝手な人間になったら、ダメなんだよ」

 でも走る割に自信もなくて綺麗事に思えて声は小さい。

「そんな事言われてもなぁ……」

「だ、だけど!」

 渋る聡哉を遮ってようやく圭斗が口を開く。しかしその声はどもっていて俺達の目を見ようとしない。

「り、リク会長って確かに、み、みんなを大事にしてるって、感じだった、よね。誰に対してもびょ、平等と言うか」

「……その中で〝特別〟が翠だったという事か」

「聡哉? 今何か言ったか?」

「あ、いや、何でもない」

「と、とにかく僕は、み、翠君に賛成。僕自身も、変わりたい」

 その声はいつになく熱を帯びている気がした。

「そうは言うもののどうするんですか? まず客が来ない以上どうにもなりませんよ」

 優雅の冷静な突っ込みに誰もが(かしら)を下げる。

 それもそうだ。今変わる以前にどう客を集め、その客をリク会長がいない中でリピーターにするか。リピーターができた先に変わった自分がいるのだと思う。もし変われてないならリピーターにはならない。

「ならまず客寄せだな。最終兵器を使おうぜ」

「最終兵器?」

 俺は聡哉の言葉に眉根を寄せた。優雅も眼鏡を押し上げ聡哉を見つめる。

「そこの考え込んでる奴」

「ぼ、僕ですか?」

 圭斗が最終兵器? こいつついに思考回路ショートして無能になったんじゃないか?

「お前ら忘れたのかよ。アルコールだよアルコール!」

 ショートどころか爆発していやがった。

「馬鹿ですか? 先生にバレたらどうするのですか? 下手すれば退学ですよ?」

 優雅の言う通りだ。それにそれじゃあ結局自分の力で変わった事にはならない。意味がない。

「でもそれなら一発で人は集まると思うぞ。あとはそれをリピーターに出来るかは俺達の腕次第だろ。リピーターができればアルコールなしの圭斗が変わるチャンスも作れる。もしリピーターに出来なきゃこの部は解散。二つに一つだ」


 議論の結果

「はい、圭にゃん。コーラ風だよ」

 美奈さんがアルコール缶を片手に放課後部室に姿を見せていた。白っぽいワンピースに薄茶色のコートを羽織った私服は秋らしさを醸し出している。しかしニーハイというのは冬に近づいている今この頃としては寒いと思う。

「本当に良いんですか?」

「もう後戻りはできねえだろ。既に校内に宣伝したんだから」

「そうですけど……」

 優雅は煮え切らない様子だった。確かに正しいやり方とは言えないが何かのきっかけになることは間違いない。だから無駄ではないんだ、きっと。

「みんな重く考えすぎだよ。所詮アルコールだよ? ドラックじゃないんだから」

「美奈姉は安易すぎます。一応ここは学校、高校なんです。校内で堂々とアルコールを摂取するなど馬鹿らしいと思いませんか? 当然隠れてればいいという問題でもありませんが」

「優くん堅いー。でもそんな優くんも好き。何かしびれちゃう! きゃはっ!」

「だから人前で抱きつくなって」

 相変わらずと言うか、場の雰囲気に合ってないというか、場違いってやつだ。

「とにかくさっさとしようぜ。既に数人客が来てるみたいだしな」

 外をちらりと見て聡哉が言う。

「あとは俺達次第だ」

 聡哉の一言に美奈さんも抱きつくのを止め、静かに立つ。

「……じゃあ、いただき、ます」

 プシュッ――――

 耳触りの良い音が響く。これがただのコーラだったらどれだけ飲みやすかったか。もしここに先生が来たら一貫の終わりだ。しかし圭斗はゴクゴクと意外にも躊躇いなく良い飲みっぷりを見せた。シュワシュワ弾ける炭酸が彼の喉を通りその度に喉仏が大きく揺れる。その時だった。

 ガタンっ――――!

 扉が大きな音と勢いをつけて開いた。

「ちょっと、あなた達何しているの!?」

 全員の肩がびくりと震えた。誰も声の方を振りかえれぬまま声の主だけが足音をたてて近づいて来る。

「ごほっ!」

 思わず圭斗もむせた。けれど変わらず彼女は近づいて来て

「何で全員無視するわけ?」

 不機嫌な声が投げられる。俺達は怒られるのを覚悟で振り返り、腰を九十度に折った。

「あのそのごめんなさい。これには……って、ありす副会長!」

 下を向いていたら上履きが目に入り生徒だと気付く。そこで顔を上げてようやく声の主を確認する。

「あ、そういや今日で一週間だ。忘れてた……」

 聡哉がふっと思い出す。

 なるほど、退部届のサインを受け取りに来たのだ。でもここの所圭斗のアルコール作戦で頭が一杯だった。

「あのサインなんですけどもう少し……」

「はあ? 何言ってんの?」

「え?」

 聡哉の苦い表情が間抜けな面に変わる。

「もうそんなもの破り捨てたわよ。そんな事より早く店を開けたらどうなの。外でかなり女の子待ってるわよ?」

 見事に間抜け面が四つ並ぶ。何を言われているのか分からない。

「ちょ、ちょっと待て。破り捨てたっていうのは……」

 聡哉が説明を求めるように口を開く。

「ほんと回転が遅い奴らね。退部しないって事。残ってあげるの、この部に。嬉しいでしょ。感謝なさい」

「まじ、かよ。俺らの説得に揺らいだ?」

「馬鹿じゃないの、あんた。重力振り切ってんじゃないの、思考が。そんな訳ないでしょ。リク会長に頼まれたのよ、あとはよろしくって」

 散々暴言をぶっ放して最後に照れて説明を終える。

「別にお前らの為じゃないから」

「やーん! ありりんツンデレー!」

「きゃっちょっと、離れ、な、さい!」

 美奈さんが抱きついて来るのを本気で拒絶している。にもかかわらず美奈さんはぎゅうぎゅう抱きつくのだから驚異の精神力の強さだ。

「はな、れろ! ほら女の子待たせるな!」

 ようやく美奈さんの腕から逃れたありす副会長は距離をとり、怒鳴る。それを見て俺達は目を合わせ、微笑む。

 別にMに目覚めて怒鳴られるのが嬉しかったわけではない。こうしてメンバーが揃ったのだ。リク会長はいないけれど引き継ぐには十分なメンバーが揃った。それが嬉しくて微笑まずにはいられなかった。あとは――――

「ありす副会長」

 圭斗が俺達の間を縫って前に出て来る。そしてありす副会長の目の前に立った。彼の表情は俺の位置からは見えないけれど背中がいつもより大きく見えた。

 あえて言うならありす副会長の方が背が高いが故に圭斗越しにでもありす副会長の表情が見えてしまう所が痛い。

 それでも圭斗から紡がれる声は澄んでいて男らしい。

「戻って来てくれたんですね」

「だからお前らの為じゃ……」

「分かってます。それでもありす先輩が戻って来てくれた事が嬉しいんです」

 早速アルコールは効果を発揮しているらしい。すっと見上げる圭斗の表情にいつもの幼さやあどけなさは皆無だろう。ありす副会長も驚きを隠せぬと同時に恥かしさも隠せずにいた。頬が僅かに紅潮している。

「と、とにかく部活を始めなさい!」

「そうですね。じゃあ開けましょうか」

 俺達を振り返り微笑む圭斗はいつになく眩しい。眩しく輝き思わず目を細めたくなる。美奈さんに置いては

「ズッキュンストライク。あれで高身長だったらスマイルキラーだね」

 ハートを射抜かれたようだった。ただ二言目はだいぶ痛いとこをついているが。

 しかしそこは一人にとってどうでもいいようだ。すかさず優雅がぎょっとした表情で美奈さんを見つめる。

「あ、もちろん優くんの方が好きだよ」

「べ、別にそんなこと聞いてませんからぁ!」

 本当は気になっていたくせに。俺と聡哉は目配せし、苦笑するばかりだ。


 久しぶりに大盛況だった。もちろん圭斗が一番人気で俺とありす副会長が料理を作って運んだ。(圭斗ほど上手にはできないが。)これじゃあ可愛い系男子が作る手作り料理という萌えポイントがないが仕方ない。

 優雅と聡哉は順番待ちの子の相手、美奈さんはどこかに消えたかと思えば最後尾に並んで弟を指名するという見事なブラコンぶりを発揮した。

 とりあえず終った頃には皆ぐったりと疲れていた。誰も彼も腰を浮かそうとせず思い思いに座っている。一人美奈さんだけは別だが。今だに優雅にくっ付いてはしゃいでいる。

「やだ優くんカッコいい! コンタクトにしたら? あ、コンタクト入れるの怖いんだっけ? もう可愛い!」

「美奈姉うるさいっ!」

 言葉こそ乱暴なものの本気じゃないことは当の昔から知っている。

「でもありす副会長が戻って来てくれて良かったです。俺一人じゃきっと手が回りませんでした」

 疲れながらも感謝の意を俺はありす副会長に告げる。ありす副会長も疲れが酷いのかこちらを見ようともせず気だるげに答えた。

「別にー。私はリク会長に頼まれたから。そうでなければ私じゃなくても良かったのよ」

「そんなことありません」

 すかさず酔いの醒めない圭斗が割って入る。

「ありす副会長でなければだめなんです」

 圭斗は重い体を奮い立たせて立ち上がり、ありす副会長に近づいだ。

「ホスト部にとっても僕にとってもありす先輩が必要なんです」

「な、何よ急に」

 不意打ちのせいもあって圭斗を見上げるありす副会長の頬は紅潮し、視線を彷徨わせている。

「ありす先輩、僕は入学する前からずっと貴女が好きだったんです。道端ですれ違うたびドキドキしてました。貴女が好きでここに入学したんです。僕にとって貴女が〝特別〟なんです。だからもうどこかに行こうとしないでください。僕の傍にいてほしいなんて図々しい事は言いません。ただ部活は辞めるなんてもう言わないでください」

 優しくて強い切実な声。ストレートな言葉。すごく圭斗が大人びいて見えた瞬間だった。素直にカッコいいと思った。

「な、何なの本当に! わ、私はその……ってちょっと、圭斗君!? ちょ、きゃっ!」

 しかしありす副会長が何か言いかけた時圭斗はふらつき始め、そのまま前のめりに倒れていったのだった。

 それは咄嗟に立ち上がったありす副会長に支えられたため床に強打することなく、むしろ豊満な胸に収まる。ただ、圭斗の意識はそこでそのまま失われたのだった。


 僕が目を覚ますとそこは薄暗い室内だった。一体ここがどこなのか理解できない。少しでも情報を得ようと体を起こすとズキンっと刺すような痛みが頭を駆け抜けた。

「痛っ」

 思わず頭を押さえる。

「目、覚ましたようね」

 その仕草をタイミングにするように鋭い女の人の声が痛む頭にガンガン響く。女性は僕が横たわっていたソファーの向かえにある椅子に足を組んで腰かけていた。その姿が艶めかしく窓から差し込む月光に照らされる。

「あ、ありす副会長!」

「ほんとあんたって最低な男ね」

「え?」

 何もかも理解できない。まずここはどこなのか。どうして僕はありす副会長と二人きりなのか。そして一体僕は何をやらかしたのか。何を持って最低と言われたのか。

「お酒の力借りて告白してきた上に告白直後ぶっ倒れるとかほんとありえない」

「こ、告白!?」

「はあ! まさかあんた覚えてないわけ?」

「す、少し待ってください」

 僕は自分の中で整理しようと頭の中で時間を戻した。ところが部活が始まる前美奈さんも珍しく遊びに来て、という辺りまで記憶がある。だがそれ以降がまるで抜き取られたようにさっぱり記憶がない。

 でも辺りを見回す限りここは部室。部活はとっくに終了しているようだ。時計も七時四十二分を指している。閉門時間もとっくに過ぎている。一体この数時間で何があったのだろう。

「ごめんな、さい」

 僕は正直に謝った。するとありす副会長は足を組み直して肩を竦めた。

「ほんと最悪」

 そう言ってここ数時間の事をざっくり話してくれた。

 僕はアルコールで人格を変え客寄せをしていた事、終わってそのまま告白した事、告白した後気絶したというより眠った事、リク会長の働きによって僕が起きるまで学校にいる許可が得られた事、しかし部員は家庭事情で帰った事。

「つ、つまり、僕が起きるまで、あ、ありす副会長は待ってて、下さった、んですか?」

「そういう事。けどもう起きたんだから私は帰るわ」

 ありす副会長が立ち上がった。それに僕は停止を掛ける。

「ま、待ってください!」

 自分でもビクンと震えるほど大きな声だった。けれどありす副会長はただ気だるげに「何?」と尋ねるだけで驚いた様子もなかった。月明かりに照らされたありす副会長はひどく冷たい表情をしている。

「あの、こく、告白について何ですけど……」

「は? そんな酔い任せの言葉なんて鵜呑みにするわけないから。真面目に答えるなんて馬鹿らしい事しないわよ私は」

 突き放す様にありす副会長は冷たく言い放つ。そして踵を返した。

その瞬間カールのかかった柔らかい髪がふわりと宙を舞った。

「待って!」

 僕は堪らず声をあげえた。こんなにもはっきりものを言ったのは生まれて初めてかもしれない。

 でも今はそれどころではない。ありす副会長は誤解している。その誤解を解かなければ前には進めない。

「た、確かにふふ普段の僕は告白なんて、できないかもしれない」

 ダメだ。声はどもっていて、挙句の果て上ずっている。顔も火が出ているのかと思うほど熱い。

「だ、だけど」

 今はちゃんと言わなきゃいけない時だ。

「その、勢いは酔い任せかも、だけど……言ったことに、い、偽りは、ないんで、す」

「言ったこと覚えているの? 今復唱できるの? 例えどもっていたとしても」

 ありす副会長は肩越しに振り替える。

「そ、それは……」

 そりゃあ記憶もないのだから復唱なんて出来るわけがない。つい言葉を詰まらせてしまう。

「ほらね。嘘か本当かなんてわからない」

「そ、そんな」

「じゃあね。あと部室の鍵かけて。たぶん生徒会室にリク会長がいると思うから御礼を言って帰ることね。」

 ありす副会長は扉に向かって歩き始める。足音が妙に大きく響いた。

 もしこのまま止めずにいたら、手を伸ばさずにいたら、きっと二度と手が届くことはないだろう。きっと変わることもできない。変わりたいなら、自分で変わろうとしなきゃ、だめだ。

「好きですっ!」

 学校中に響いたんじゃないかと思われるような大きくはっきりした声。自分でも今どこから声が出たんだろうと思う。すごくすごく恥ずかしい。どうか薄暗くて表情までは見えませんように。

 けれど無駄ではなかった。その声にありす副会会長は足を止めたのだから。

「ほ、本当に、す、好きなんです。が、学校に入る前から、み、道ですれ違ってて……」

「ほんっとしつこい奴」

 そこでバッとありす副会長が振り返った。

 その目はさっき以上に冷えていた。薄暗いからそう見えるのかもしれない。でもたぶそれは僕の都合のいい言い訳だ。本当に冷めているんだ。それに顔色もいつもより蒼白な気がした。

「あんたに何が分かるの? 私の何を知って好きだなんて言うの? どうせあんたが好きだって言ってる七海ありすは創られた七海ありすで本当の七海ありすじゃない。そうでしょ?」

「え、あ、いや、そんなつもりは……」

 再び言葉を詰まらせる。こうして言葉を詰まらせると本当に何か喉に詰まっている気がして息苦しくなる。

 それをありす副会長は鼻でせせら笑った。

「ふん。いいわ。今の私の本当の気持ちを教えてあげる。私の本性も教えてあげるわよ」

 そう言うとありす副会長は腕を組み、唇を歪ませた。唇は弧を描いて赤い三日月をつくる。

「どうしてありすみたいなこんな可愛い女の子が人間の底辺みたいな男に告白されないといけないわけぇ? お前くらいの男なら拝むだけで十分だろ。むしろ拝ませてやってることに感謝しろって感じ? 身の程をわきまえろよ。ありすに釣り合うのはリク会長みたいな人だけだから……みたいな?」

 まず絶句した。これがありす副会長の本性だというのか。まさしく完全なる我儘タイプ。普段の甘く優しいふんわり系はどこにもない。

 確かに時折暴言は吐いていた様な気がしたが気のせいだと思っていた。いや、そう思いたかっただけかもしれない。

「お前が好きなありすちゃんは……」

 そこで組んでいた手を後ろに回し、恥ずかしそうに俯く。そしてにっこり笑った。いつものふんわりオーラを放って。

「え、私なんかを好きになってくれたの? 凄く嬉しいな。でも、こういうの初めてでどうしたらいいかな?」

 こてんと首を傾げる。当然ストライクど真ん中ストレート。心臓の打つ音が早くうるさく鳴る。

 しかしそれは一瞬の儚い夢。笑顔はすっと消え、冷めた表情に戻る。

「だろ? それは創られたありすだから。残念でした。失望した? がっかりした? でもね、勝手に思い込んでたのはあんただから」

 そう言って踵を返した。そしてスタスタと扉に歩いて行ってしまった。もう止めることはできない。止める言葉も見つからないし何より放心状態にあった。けれどドアを開けるや否やありす副会長が自ら足を止めた。

「リク会長ッ!」

 その声色は驚きで満たされている。それもそうだ。リク会長はどうやらドアの近くの壁に寄り掛かっていたらしくありす副会長が開けた瞬間中に入って来たのだから。

「な、何故ここに……?」

 ありす副会長の声が震える。

「いやなかなか来ないから様子を見に来たんだ。もう八時過ぎてるし」

 リク会長の言葉で我に返りスマホを見る。刻まれた時刻は八時十三分。ついでに親から不在着信一件。

「えっと、あの……」

 ありす副会長は焦っていた。きっと今までの会話を聞かれたかどう考えたのだろう。

「それじゃあ私は、帰ります! さようなら!」

 結局不自然に切り、駆け出してしまった。

「あ、ちょ、ありす! 遅いし送るぞ!」

 リク会長は叫んだもののありす副会長が戻ってくる事はなかった。

しばしその背を眺め、溜息を一つ、肩を竦ませやがて僕に向かってリク会長は歩み寄って来た。

「私たちも帰ろう。立てるか?」

心配そうにのぞき込むリク会長の表情はありす副会長とは正反対で温かかった。月明かりに照らされたその姿は優しく手を差し伸べる女神に見えなくもない。僕は苦笑してゆっくりとソファーから立ち上がった。

ズキンっ――――再び走る鋭い痛み。視界も体も揺れ、バランスを崩す。

「圭斗っ!」

するとリク会長が駆け寄って何とか僕の体を支えてくれた。自分より高い背は自分を惨めに思わせる。でもやはり線の細い体やわずかながらに膨らむ胸は女性の物で何だかほっとする。

「すみません……」

「全くアルコールなんか飲むから」

体を離しつつ痛いところを突かれるとやはり言葉を詰まらせざるを得ない。

「でも部活の為に頑張ってくれたんだよな。ありがとう。そしてお疲れ様」 

そう言ってリク会長は笑った。にっこりと。その瞬間僕は思った。

あ、この人には敵わない。敵う訳がない。だけど、いつかこの人みたいになれたらいい、と。


冬に近くなった今日この頃の夜はやはり肌寒く思わず黙り込んでしまう。だけど空気は凄く澄んでいて夜空には星がいくつも輝いていた。空に飾られたイルミネーションは冬に近づくにつれ輝きを増してゆく。

「リク会長は……」

 僕は静かに隣で一緒に帰路をたどる彼女に話しかけた。するとリク会長は「ん?」とだけ言って先を続けることに許可をくれた。

「その、えっと、さっきの話、聞いていたん、ですか?」

「うん、まあ」

 一瞬の間を入れてからリク会長は短く答えた。

「……どこから、ですか?」

「圭斗が好きなのは創られた自分だとありすが言った辺り、かな」

「じゃあ、ありす副会長の、ほ、本音も、き、聞いていたんです、ね?」

「ああ」

 これを聞いたらありす副会長はショックを受けるんじゃないかな。

「でも」

リク会長は続けた。

「でも私はそれでありすを嫌いになったりはしない。あいつは高校に入って二年間ずっと私に尽くしてくれた大切な可愛い後輩だ。それをあの程度の事で嫌うほど器は小さくない」

 それどころか大きいくらいだと僕は思う。

「むしろ私は圭斗が羨ましかった」

「え?」

 それはあまりに意外な言葉だっだ。

「ありすがいつも何かを隠しているような気はした。それはどんなに歩み寄っても見せてはくれない。私の前では決してあんな態度はとらない」

 それは……

「だけど今日、圭斗の前では本性というものを見せた。私がどんなに見ようとしても見られなかったもの。それを圭斗、お前は見た」

「そ、それはっ!」

 それはありす副会長があなたを好きだから、そう言おうとして途中で口を噤んだ。

 「好き」という言葉はちゃんと本人から聞かなければ意味がない。もしここで僕が言ったらそれは告げ口の様なもの。そもそも話を聞いていたのならリク会長自身気が付いているはず。だから僕が口を出すことじゃない。

「ん? どうした?」

 言いかけて続けない僕に不信を抱いたリク会長が口を開く。

「あ、いえ。で、でも……やっぱりめめ迷惑、だったかな、とは、思います」

 誤魔化す様に続けた話だったけど案外あっさり本音が漏れた。

「迷惑?」

「はい、あ、ありす副会長の、ききき気持ちも考えずに、一方的な、想いを、押し付けて」

「そんなことはない」

 リク会長が即答した。

「誰かに想いを寄せられて嫌な気がする奴はいないよ。相手が執拗なストーカーでない限り」

 その声は優しげで、でもどこか儚げで、いつもの漢であるリク会長とはまるで違う。

「ストレートにものを伝えるのは悪いことじゃない」

「……リク、会長?」

 リク会長は足を止め、僕の斜め後ろに立っていた。僕は振り返る。

 俯いた彼女の顔は闇と一体化してしまいそうな綺麗な黒髪でおおわれている。

「私はいざとなるとただの臆病者だ。ストレートに想いを伝える勇気はない」

「……そんなこと、ない、ですよ」

 僕は歯切れの悪い言葉に顔をあげた。精緻で歪みのない美人顔は暗くてもはっきり分かる。

「だって……おお想いを寄せられて、嫌、な人は、いない、んですよね? ストーカーでない、限り」

 会話は噛みあってないような気がした。僕の返答は間違っているように思える。だけどリク会長は――――

「ふっ」

 吹いて笑った。

「ははっ。お前成長したな」

「え?」

「大丈夫だ。ちゃんと成長してるよ、圭斗は」

「え?」

 僕は間抜けにも同じことを繰り返した。

「じゃあ私はこっちだから。じゃあな」

「え、あ、えっと、りりリク会長!」

「お前は男だから家の前まで送る必要はないだろ」

 いやそうじゃなくて……。

 リク会長はもうひらひらと手を振って闇へと呑まれる様に別な道を進んでいった。

 ただ茫然とその背を見つめる僕の頭上で星は瞬いていた。


 翌日部室に向かう途中ばったりとありす副会長に出会った。ありす副会長は僕を見るときまり悪そうに視線を外し、無言で部室に向かおうとした。でもそうはさせない。

「あ、あのっ! どこか、で、すす少し、話し、ませんか?」

 ありす副会長の眉根が寄る。その表情にはうんざりと刻まれている気がした。

「あ、いえ、ここでも、構いませんけど」

「ならここで」

 短く冷たい言葉であしらわれる。それでも、多少傷ついても、言葉は伝えなければ。

「えっと、き、昨日の事、なんですけど、ややっぱり、僕、あ、ありす副会長が、好きです」

「はぁ?」

 近くを通った生徒が横目に僕らを見て「何何?」と楽しそうに声を弾ませる。

「もちろん昨日のほ、本音、聞いた上で、です。つまり、その、例えどうであろうと、あ、ありす副会長はありす副会長、じゃないです、か。だから」

「待って待って待って。あんた本気で言ってるの? 信じられない。何度も言うけど何であんたみたいな底辺が私みたいな子に告白するわけ? 一億年早いから」

 もう人目など気にしない。ありす副会長は平気で僕を罵った。周りは「今のあのありす副会長の言葉?」「ありす副会長ってもっと優しい感じじゃなかった?」「でも私罵られてもいいかも」驚きから変な囁きで一気に辺りが賑わう。「お前なんか跪いて崇めるだけで十分でしょ。私とじゃ釣り合わない」

「分かってます。だ、だからつつ付き合ってなんて、言いません。……このまま、好きで、いさせて、ください」

「っ!」

ありす副会長は目を見開き、息を呑んだ。それに対し周りは「何今のカッコよくない?」「あれホスト部の人だよね?」「今日ホスト部行く?」「これこそGAP萌え?」と黄色い声とマニアックな声が響く。

「な、何言って……」

 珍しくありす副会長がどもっている。しかし僕は(ひる)まない。

「す、ストーカー的な事は、し、しませんから、いいですよ、ね?」

「当たり前でしょ! ストーカー行為したら訴えてやるわよ! でもそこまで言うなら私の可愛さ勝手に拝めば?」

「本当、ですか!」

 僕は嬉しくて微笑む。するとありす副会長はぷいと視線を逸らしつつ腕を組んだ。

「じゃ、じゃあ部活行きま、しょうか」

 ありす副会長は僕と目も合わせずに歩き出す。僕も後を追った。

 そうだ。今はこうして追っているけれど、いつか手を伸ばして、いつかとなり歩いて、いつかは前を歩いてリードしたい。今は無理で遠い夢だとしても、いつか叶うと信じて。

 そしてちなみにこの一部始終を見ていた者たちから「ありす副会長に罵られ隊」ができたのはもう少し先の話である。


 部活に行こうとするとその途中で人だかりができていた。その群れの中心にいたのは俺と同じ部に所属する圭斗とありす副会長であった。

 一体何事かと思いながらも女子高に近い本校で群れに飛び込むのは女子の輪に飛び込むのと同じこと。そんな勇気ある事は出来ないので遠巻きに眺め、耳だけを澄ましていた。

 なかなか周りのノイズで肝心の話がなかなか聞こえないのだが時たま聞こえてくるありす副会長の「はあ?」とか「跪いて」など言葉の悪い発言にとりあえず面食らった。

 まさかありす副会長がそんな事を堂々と口にするとは。それも自分を可愛いみたいな事言った気がした。気のせいか。

 その時肩を叩かれたので振り返った。するとぶすりと誰かの指が頬をつつく。

「リク会長」

 相変わらずパンツルックが似合う会長様がいた。会長は俺の頬から指を離し問うてくる。

「こんなところで何してるんだ、翠」

「人だかりできてたものだから見たら圭斗だったもので」

「あーなるほど。あいつ変わったよな」

「え?」

 急に紡がれた言葉に戸惑いを覚えた。俺には圭斗が変わったとは一ミリも感じなかったから。

「実は昨日さ……」

 そう言ってリク会長が語った真実は耳を疑うものだった。

 ありす副会長が裏の顔を持っていたことは薄々気づいていたがまさかそれを表立って表すとは思わなかった。挙句の果て酒が抜けてから告白し直したというのも信じがたい。そしてその結果を受けた上で再度想いを今、告げている。

「本当にあいつありすが好きなんだな。まあ確かに私も男ならアタックしてたかもしれないけどな」

 そうなったら完全に圭斗の勝ち目はなくなりますよ……じゃなくて、とても信じられなかった。

 でも真実なのだ。実際話が済んだのか二人は人の輪から出て来た。ありす副会長の顔は恥ずかしさと不愉快さの入り混じった表情をしていたけれど、圭斗は穏やかに笑っていた。

「人はいつでも変われるんだ。だけど簡単な事じゃない。それでもきっかけ次第でどうにでもなれるんだ」

 そう静かに語るリク会長は俺にというより自分自身に言い聞かせているようにも見えた。

伏せられた瞳に何を想うのだろう。

「リク会長も変わりたいって思うこと、あるんですか?」

 その問いにリク会長は苦笑した。

「当たり前だ。自分全てに満足している奴なんていない。どこか負い目を感じているものだ」

「意外、ですね。リク会長がそんな事言うなんて」

「そんな事はないだろう。前も言ったように私は素直になりたいんだ」

 俺は勉強会の日の事を思い出した。そう言えばあの時も素直になりたいって、バルコニーで語ってたっけ。

「さて、解決したようだし私は受験勉強があるから失礼するよ」

 そう言ってひらひらと手を振って去ってしまった。

 素直、か。それなら俺は勇気が欲しい。今の関係が崩れるのを恐れて前に踏み出すことができない。

もしかして変わっていないのは、俺だけなのかもしれない。


 それからリク会長とはほとんど顔を合せなかった。

 時たま部活に顔を出したり、廊下ですれ違ったり、その程度だった。クリスマスはどこかデートに誘おうか悩んだけど部活でクリスマスイベントをやる事になって準備で追われて、誘わなかった。ちなみに聡哉と優雅は見事にリピーターを作り、イベントは盛大に盛り上がった。圭斗もあの廊下での出来事以来アルコールなしの圭斗にもファンができた。

 そして何よりも一番人気を集めたのはありす副会長だった。(いや、十二月よりリク会長が生徒会を引退したためありす会長になったのだけれど。)例の罵られ隊が多く来店したのだ。

 そんな客とクリスマスを過ごし、新年は新年会を過ごした。

 充実はしていたし、女の子とも友達になれた。だけどやっぱり忙しいと言うのは言い訳で、ただ怖くてリク会長、リク先輩に近づけなかった。

 二月になればバレンタインがあってもしかして何て期待したけれどもちろん来なくて。

 ちなみにチョコレートダービーをやった所一番はまさかの圭斗だった。二番はありす会長、次に聡哉、優雅、最後に俺。当然俺だけ本命なくて。

 もしかしたらリク先輩はあげる側よりもらう側だったのかもしれない。でもこれも都合のいい言い訳。

 もうこんな自分がうんざりで、変わりたくて、変われなくて、一歩を踏み出したいと思った。だから、俺は決意した。後悔しないように。


 三月の桜が蕾を膨らませて人々の気持ちを表現する。それは新たな世界への希望や期待か、はたまた不安か。

 俺は後者だ。ただ新学期に対してではない。現在行われている卒業式後の告白に対する不安だ。その不安は吐きたい衝動に駆られるほど膨れ上がり、今にも八分、いや満開になり、綺麗に咲くことなく爆散して一瞬で散りそうだ。

 そんなことも知らずお相手は卒業生代表の言葉を堂々たる態度で話している。

 きっとリク先輩との距離何て今俺がいる位置とリク先輩が立つ教団より遥かに遠いのだろう。

 でも言葉にしなければ伝わらない。変わらない。なら――――――。

  式が終わると三年生たちは涙ながらに一・二年生の待つ校門あたりに出て来た。

 卒業証書と花で両手塞がる三年生の表情は皆どこか晴れ晴れとしている。

 風はまだちょっぴり冷たいけれど、新しい未来へ背中を押し、涙を乾かしてくれる。

 俺も、前に踏み出さ気れば。

 リク会長が出て来た瞬間一斉に一・二年生が彼女に駆け寄った。まるで芸能人だ。

 俺達ホスト部プラスあざかと美奈さんはそれを遠目に眺める。

「相変わらずだな」

「ほんと。あいつの何が……」

 聡哉に相槌を返そうとしたあざかはありす会長に睨まれ最後まで言い切ることなく言葉を噤む。

「いやーでもほんと人気だね!」

「……何故美奈姉がいるのですか?」

「え、だってリクちゃんは私の友達だし? 折角だから見たいじゃん?」

 そこで何故優雅の腕にしがみつく? 何だか目の前にいる本当のカップルよりカップルらしい。

「そういえばさ、聡哉」

 あざかが妙にそわそわした様子で口を開いた。

「私たちももうすぐで進級じゃん?」

「え、何? 別れようとか無理だよ。俺あざかの事普通に好きだから、誰よりもまじで」

 うわー。ストレート。まだ何も言っていないのに。

 あざかはカッと赤くなり聡哉をど突く。

「うおっ!」

 バランスを崩した聡哉はお腹を押さえよろけつつも転びはしなかった。

「お前は馬鹿か! 何恥ずかしいことさらっと言ってんだよ。別に別れようなんて言おうとしてねえから!」

「じゃあなんだよ」

 心配そうに眉を寄せる。するとあざかは聡哉から視線を逸らし小さく呟いた。

「そうじゃなくて、もう、その……彼氏(仮)じゃなくて、彼氏でいいかなって……」

「え、まじで?」

 かなり意外だったのか聡哉の顔は鳩が豆鉄砲を喰らった時と瓜二つだった。俺としてはまだ(仮)だったんだという呆れも交じりつつ、幸せそうで何よりと拍手を送りたい気分だった。でもその反面リア充めっ! と毒づきたい気分でもあった。

 自分はこれからフラれに行くのだから。

「すげえ嬉しい。え、キスしていい?」

「はあ? まじで脳味噌傾いてんじゃないの? そもそもその頭には脳味噌自体詰まってないわけ? このエロクズ鈍犬馬鹿くそ野郎!」

(仮)は外れても暴言の雨はやむことを知らないようだ。

「だって、ねえ?」

「ねえじゃねえよ! だいたいそんな公然猥褻できるわけないだろ!」

 まあ所謂照れ隠しなのだろう。そしてその照れたのを聡哉は可愛いとでも思っているに違いない。罵られた割に口元はにやけを堪えている。

「幸せそうだねぇ。優くんは彼女作らないの? 最近はモテるんでしょ? リクちゃんから聞いたよ」

 美奈さんの下から舐めるように覗かれた優雅は視線を外し冷たく言う。

「自分は別に……」

 どうせお前の中にいる一番は美奈さんなんだろ、このシスコン。なんて毒は吐かずに飲み下す。正直今何か言葉を吐こうものなら胃液も一緒に吐き出されそうだ。

「お前らいちゃつくなら向こうでやれ」

 代わりにありす会長が冷たく言い放つ。もうリク先輩以外に猫被ることのなくなった彼女は今日も絶賛ご機嫌斜めだ。

 まあ愛しのリク先輩がいなくなるのだから無理もない。

「ありりん本当に雰囲気変わったね」

「うるさい。それもありりんとか呼ぶなキモいから」

「まあこれはこれで結構たまらないかも?」

 容赦ない罵声に傷つかない美奈さんの精神はぜひ俺にも分けてほしい。

「あ、あの!」

 この状況で圭斗が口を開く。

「僕と、あ、ありす会長の、か、関係も、な、何か……」

「は?」

 ぎろりと紙一枚あっさり切れそうな鋭い目が圭斗を捉える。

「おめえは私の可愛さ跪いて拝んでろって何回言えば分かるんだよ」

 ガンつけると言うのはこういう事を言うのだろう。だけど圭斗は震えあがることもなく苦笑して「ですよね」とだけ言った。圭斗も変わったのだ。いや、まだどもっているし、アルコールなしではイケメンになれない。だから変わったと言うより、慣れたのかもしれない。

 どちらが正しいか分からないけれど、でもたぶん前進は、していると思う。なんて物思いにふけっていると

「そこのヘタレ」

 急に俺に対する声が飛んできた。もちろんヘタレというのが俺で合っていればの話だが。

「俺、ですか?」

 胃液は流し込み、声だけを発する。するとありす会長はめんどくさそうに

「お前以外に誰がいるんだよ」

 と、睨みの的を圭斗から俺に移した。

「何ですか?」

「……女の子に恥かかせんじゃねえぞ」

「……はい?」

 何を言っているのか全く分からない。だけどありす会長の目は本気で冗談など含まれていない。

 俺は聞き返そうと口を開きかけた。だがその時人の群れから抜け出したリク先輩が俺達の方へと歩いてきた。

 それもとてつもなく寒々しい格好で。ブレザーを始めとするネクタイやらボタンやらいろいろ欠損していた。

「リク会長、卒業おめでとうございます」

「会長はお前だろ、ありす」

「あ、つい、癖で……」

 そう言って、てへっと笑うありす会長の笑顔は周りに花が飛んでいそうな愛らしい表情だ。まさしく二面性。

「にしてもずいぶん寒々しいっすね」

 そう言ったのは聡哉だ。

「ああ。色々くださいと言われているうちにこんなことになってしまった」

 さすが生徒会長兼ホスト部ナンバーワンだ。

「もしあんたがもう少し胸あればそんだけ肌蹴てんだ、谷間見えてたのにな」

「うるさい黙れっ!」

「うおっ!」

 リク先輩の怒鳴り声と聡哉の嗚咽が重なる。どうやらリク先輩の言葉と飛んできたのはありす会長の拳だったらしい。

 ありす会長の拳が脇腹に食い込んでいる。

 ところが次の瞬間にはすっと抜き、何事もなかったかの如く

「でもリク先輩がいなくなると思うと寂しいですぅ」

 泣きそうな声で続ける。するとリク先輩は穏やかに笑った。

「またすぐ会えるさ」

「リク先輩……」

 その言ってありす会長はリク先輩の胸に飛び込もうとした。しかしリク先輩はわざとかはたまた偶然か、それを避けて俺の前に歩いてきた。

 リク先輩越しに忌々しいと刻まれた顔が俺を睨む。だが俺は申し訳ないと思いつつそれを無視してリク先輩を見つめた。

「えっとリク先輩、あの」

「翠、少し話をしないか?」

 俺の言いかけた言葉はぴしゃりと遮られた。

「え、あ、はい」

 俺は返事をしつつちらりとありす会長の方を見ると顎で「行け」と言っていた。

 これって、リク先輩と二人きりになるのか。


 二人でやって来たのは屋上だった。屋上を選んだのは彼女だ。何故彼女がここを選んだのか、俺には分からなかった。ただ卒業証書と花を床に置き、フェンスに寄り掛かって風に靡く髪をかき上げるリク先輩が美しくて何かの撮影みたいだった。美しさに気を取られ、沈黙である事を忘れてしまう。だからしびれを切らしたのはリク先輩で口を先に開いたのもリク先輩の方だった。

「あのさ翠」

「……はい」

「こんな事、言うの初めてだから笑わないで聞いてほしいんだ」

 笑う? 俺が?

 俺は首を傾げた。するとリク先輩はストレートな髪を耳にかけ、真っ直ぐ俺を見据えた。

「翠、私は……私は、お前が好きだ」

「っ!?」

 息を呑む。すごく世界が歪んだ気がした。眩暈がする。

「私はホスト部に入ってすぐ辺りからずっと好きだった。本当はうちに来て妹があんな事した時、すごく妬いてた。でも恥ずかしくて言えなかった。だけど、今日がこの学校最後だから素直になろうって」

 勉強会の日を思い出す。妹には大胆にも押し倒され頬にキスまでされて、夜バルコニーでリク先輩と語った。でも俺は全く気持ちに気が付かなかった。

「私はさ、皆が思っているような奴じゃないんだよ。独占欲が強くて欲しいものは手に入れたいって思う強欲な女んだ。だから翠だって誰にも渡したくなくて、お前の気持ちなんか考える余裕、ないんだよ!」

 リク先輩の頬に一筋の線が走った。

 泣いているの、ですか?

「そんなの、言ってくれなきゃ、分からないですよ。俺馬鹿だから」

「え?」

「お、俺だってり、リク先輩の事、好き、でしたよ。ただ告白する勇気なんてなくて、でも今日

告白しようって、決めてて……」

 自分でも何を言っているのか分からなくなる。けれどリク先輩には伝わったらしい。

「本当、か……?」

 信じられないと言いたげに目を見開いている。信じられないのは俺の方だというのに。それでも俺は黙って首を縦に振った。するとリク先輩は目に一杯涙を溜めて、零して、くしゃってなるくらい笑った。

「何だよ、全然知らなかった」

 そう言って彼女は俺に歩み寄って来たかと思うと、ほんの少しだけ背伸びして唇を重ねて来た。

 俺はただただ目を見開く。それに対しリク先輩は自分の手を俺の手に絡めて来て唇を離そうとしない。

 やがて息苦しくなった頃、リク先輩は唇を離した。そして上目遣いで俺を見つめるとクスリと笑った。

「ホスト部がこんなに鈍感じゃ、だめだな」

「……そうですね」

 俺もクスリと笑って見せた。

 結局俺は何も変わってないのだと思う。だけど変わってはいなくとも前に進めていればいいんじゃないだろうか。例え一歩がどんなに小さくとも。少しでも前へ。

 もうすぐ春が来る。桜が花を咲かせれば俺達は新しい日常へと飛び込むことになる。そうやって日々変わる中で自分自身変われなくても前に進めればそれでいいのかもしれない。

 そうやって少しずつ理想の自分に近づけるかもしれないから。

 自分では嫌いな一面もこうして誰かがひっくるめて好いてくれるから。

 風が俺とリク先輩の髪を揺らした。


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