ぎんりん9
水谷あおいという人間について。
彼女はあまり主張しない。
自分の主張が人を傷つけることを恐れて。
正確に言うと、自分の主張で他人が機嫌を損ねるのが怖くて。
彼女に競争心というものは皆無だった。
誰かを蹴落とすことに必死になるような人間にはなりたくなかった。
正確に言うと、自分の本当の実力を知ることが怖かった。
彼女は自分が本当は何を欲しいのか、何がしたいのか分からない哀れな人間だった。
そんな彼女が乳児期を除いてほとんど生まれて初めてといっていい、ワガママで手に入れたのがロードバイクだった。
ヤビツ峠は国道246号線、名古木の交差点から宮ヶ瀬湖方面に抜ける全長約12kmの峠である。
交差点からそれなりの傾斜のある坂道を登る。
だが、それはこの峠を登るウォーミングアップだった。
途中には信号などがあり、次いで最後の補給ポイントであるコンビニエンスストアがある。
そこを超えるとちょっとしたコーナーが続き、それが現れる。
自転車でそこを超える者にとっては、それはちょっとした壁だった。
頂上が見えない直線道路。
初めてこの峠を訪れた自転車乗りはそこで一抹の不安を覚える。
おいおい、この登りはいつまで続くんだ?
その不安がペダルの回転数を低下させる。
様子見といこうじゃなないか。
みのりは名古木の交差点に着くと、あおいに向って言った。
「わたしは自分のペースで走るから、あおいちゃんもノンビリ登ってきてね?途中で押してもいいから」
みのりはあおいの視界から見えなくならない程度の速度を維持しようと心がけるつもりだった。
ロードバイク初心者をいきなりヤビツ峠に誘ったのだから、それなりのケアはしようと思っていた。
みのりはあおいがスタートしてすぐにギブアップするものだと思っていたから、彼女が自転車を降りずに自分についてくることを驚きと共に喜びを覚えた。
信号を超え、コンビニエンスストアを過ぎる。
みのりが振り返ると後ろには俯いたままついてくるあおいの姿が見えた。
みのりにちょっとした悪戯心が芽生える
ここで加速したら、あの子どんな顔するかな?
インナーロウ、つまり一番負荷の少ないギア比から右側のSTIレバーを2タップ、リアディレーラーが忠実にシフトアップを行う。
すかさず加速。
ちょっとした冗談のつもりだった。
みのりが振り返ると、そこは相変わらずうつむいたままのあおいが居た。
え?
つまり、素人同然のあおいがみのりのシフトアップの気配を察知し、加速についてきたということであった。
おもしろいじゃない
その事実は、みのりの競技者としての矜持に火がついた瞬間だった。
仲良しサイクリングは終わった。
さらに2タップで急加速。
それは、レースで相手を消耗させる揺さぶりだった。
だが、背後の気配は消えない。
しかし、みのりはこれ以上ペースを上げない。何故ならば
前方に鳥居が見えてきたからだった。
みのりはその鳥居が何の為に存在しているのは知らない。
だが、そのランドマークが目視できると、傾斜度が12パーセントまで跳ね上がることは知っていた。
ヤビツ初心者の自転車乗りはその時点で心が折れる。
みのりは泣きそうな顔で彼女を見上げるあおいの泣きそうな表情を想像して振り返る。
そこに白いサイクリングヘルメットを被って彼女を追走するあおいがいた。
この子、なんなの?
水谷あおいという人間は日常生活では極めて目立たない存在だった。
それどころか、小学校、中学校の通知表では常に積極性の不足が指摘されるような人付き合いの苦手な少女だった。
そんな彼女にたった一つだけ、特質すべき長所があった。
痛みに対しての耐性。
彼女は、母親が使っていた剃刀を悪戯し、掌をざっくりと切った時も血まみれのブラウスの袖を母親に指摘されるまで涙一つ流さなかった。
彼女は小学校のジャングルジムから滑り落ち、前腕部を骨折した時も赤紫色に腫れ上がった腕を見て仰天した担任教師が救急車を呼ぶまで泣き言一つ言わなかった。
今もそうだった。
コンビニエンスストアを抜けたあたりで彼女の心拍数は限界付近であり、みのりが加速した時点で完全に限界点を超えている。
だが、あおいはそれに耐えることができる。
なぜ、そんなことができるかは自分でも説明ができなかった。
自分は苦痛に耐えるということに人一倍強い。
それは天賦の才能であるには間違いないが、あまりにも日常生活には必要なかった。
つまり、ロードバイクでヤビツ峠を登るというような、何の利益にもならないような行為で発揮する以外には。
みのりは、このいつまでも自分についてくる不気味な存在について、一体どれくらいのタイムまでついてこれるのか、という興味をもった。
彼女はさらにペースを上げた。
菜の花台の展望台を超える。
急カーブ。
後ろを振り返る。
あおいはまだついてくる。
直線。
あおいはまだついてくる。
続いて九十九折が始まる。
振り返る。
あおいはまだついてくる。
道幅が狭くなる。
みのりのも後ろを振り返る余裕がなくなる。
サイクルコンピューターの表示を見ると、あと2kmで頂上。
前方にロードバイク。
内心舌打ちをしつつ、右から抜かす。
フィニッシュはダンジング。
売店を通り過ぎ、後ろを振り返ると誰もいない。
みのりは少し大人げなかったかな、と思いつつ売店の道を挟んで反対側の駐車場にオルトレを停めた。
ベンチの腰を下ろす。
ボトルを抜き、一服。
しばらく待つが、あおいは頂上に来ない。
嫌な予感がした。