ぎんりん8
なぜ、走るのか。
なぜ、自ら苦しむ選択をするのか。
その二つの問いかけが重なる場所がある。
あおいの目の前に壁があった。
それは比喩的な意味ではない。
神奈川県秦野市に所在するヤビツ峠
その場所は、東京や神奈川に住む自転車乗りにとってはベンチマークとして有名であり、45分で登頂できれば脱初心者レヴェルと言われている。
だが、あおいにとってはタイムなどどうでも良かった。
まだ初夏と呼ぶには早い季節だったが、ヘルメットから流れ出る汗が止まらない
セミロングの髪が首に張り付いて不快だった。
しかし、それが気になったのは国道246号線を始まって少しの間だけだった
それはみのりのメールから始まった。
ぎんりん亭でメール交換をしたあおいとみのりであったが、その次の週末、さっそくみのりからメールが着信した。
あおいちゃん、ヤビツ峠って行ったことある?
その妙な名前の峠について、藤沢に住むあおいの知識は皆無だった。
湘南に住む自転車乗りが知らないなんて大損してるよ。今度の週末は空いてる?
絵文字交じりの妙な調子のメールにあおいは断ることができなかった
ぎんりん亭の前にみのりが待っていた。
そこから国道1号線を進み、平塚市内に入ってから市道に入った。
今まで大きな国道や自転車専用道路を主に走っていたあおいにとっては、片側1車線の狭い市道で
背後から接近してくる大型トラックやバスは脅威だった。
なんとかその恐怖に耐えて秦野市内に入る。
先頭を走るみのりがコンビニエンスストアを指差した。
あおいは1885から降りるとフレームに取り付けられているホルダーからスポーツドリンクのペットボトルを取り出して飲んだ。
「え、あおいちゃん1時間も走ったのにそれしか飲んでないの?」
みのりの言葉にあおいは手元のペットボトルを見る。
確かに、その中身は8割ほど残っていた。
「でも、今日はそんなに暑くないですし・・・」
中距離走の走者だった彼女にとって、競技中に水分や食料を摂るという意識はなかった。
「だめだめ、1時間で500ミリリットルは飲みなさい。喉が渇いたと感じた時点でアウトだから」
みのりの言っていることは少し大げさな気がしたが、年齢も上であるしなによりもスポーツ自転車の大先輩であるから、あおいは素直に頷いた。
「ということは、補給食は持ってきてないよね?」
頷くあおい
「コンビニ寄って正解だったね」
あおいはみのりに連れられてコンビニエンスストアに入った。
「まあ、コンビニで手に入れられて手軽にカロリーを補給できるのはゼリータイプのやつかな」
そういうと、みのりは銀色のプラスチック容器に入ったゼリー飲料をカゴに入れた。
「これって1個で160キロカロリーくらいあるから、1時間に1個くらいの感じで食べるといいよ」
「え?いちいち止って食べるんですか?」
みのりはイタズラっぽい笑みを浮かべて首を横に振る
「乗ったまま食べるの。自転車レースはね自転車に乗ったまま飲み食いするのよ」
「気持ち悪くなったりしないんですか?」
「慣れよ慣れ。まあ、あおいちゃんは初心者だからそこまでしなくていいけどね」
みのりはパンコーナーに向う。
そこで小分けにされたアンパンが4つほど入ったパッケージを手に取る。
「コスパ最強はこれ。これで100円だけど、この1個でゼリー1袋分のカロリーがとれる。つまり、これだけあれば4時間は走れるってこと」
ダイエットとカロリーという単語に対する反応は、十分に標準的な女性の範疇に収まるあおいはみのりが手に取ったパッケージを見つめる。
つまり、4時間走ってもあれだけしか消費しないってこと・・・?
ロードバイクをインターネットで検索すると、そのエクササイズの効果がよく謳われている。
今日もみのりは体の線がはっきりと出るサイクリングジャージとレーシングパンツという格好である。
それに対してあおいはあまり体にフィットしないTシャツにハーフパンツという格好だった。
あおいはロードバイクに乗ることによってダイエットの効果も期待しているのだった。
「それだけって顔してるけど、本格的に乗れば体重はどんどん落ちるよ。でも、あおいちゃんって別に太ってないと思うんだけどなあ」
のぞきこむようなみのりの視線にあおいが顔を赤くする。
みのりは菓子コーナーに向った。
そこでみのりはどら焼きを手に取った。
「どら焼きって生地の部分がスポーツドリンクで溶けやすいんだ」
「あの、さっきからあんこ系ばっかりな気がするんですけど・・・」
みのりはどら焼きを棚に戻す
「炭水化物と食物繊維が多いから理想的なの。で、これだね、やっぱり」
彼女はビニールに包まれた羊羹を手に取った
「片手ですぐに食べられるしサイズも小さい。しかもチョコレートと違って溶けないし」
カゴに4つほど入れ、レジで清算する。
店の外に出ると、さっそくゼリー飲料を飲む。あんぱんと羊羹をジャージのバックポケットに入れた
そして、あおいにもゼリー飲料を差し出す。
「これから峠だから、食べておいた方がいいよ」
正直なところ、これからまだ自転車を漕がなければならないのに食べ物を口にすることにあまり気が進まないあおいだったが、指示どおりにゼリー飲料を飲み下した。
彼女たちの目の前を、ロードバイクの集団が走り抜けて行った。
「あの人たちもヤビツ峠なんですかね?」
「こんなよく晴れた日に、自転車で峠を登らない理由なんてあんまりないからね」
みのりの声にどことなく高揚感がただよう。
空は雲ひとつなく、さわやかな青空が広がっている。
みのりがヘルメットを被りオルトレに跨った。
あおいも慌ててゼリー飲料の容器をゴミ箱に捨てると1885に跨った。