ぎんりん5
ぎんりん亭の店主はあおいの自転車の傍らに屈むと、ペダルを手で掴むと回転させ、変速をレバーを数回操作する。
鉄パイプを組んで作られた駐輪場は、自転車にサドルを引っ掛けて後輪が宙に浮いた状態になることから、スタンドがない自転車を駐輪できること以外に、ある程度の整備をそのまま行える利点があった。
あおいは店主の背中に不安そうな視線を送っていたが、店主が急に振り返り、更に眉間に皺を寄せた穏やかとは言いがたい表情を浮かべていることから、思わず後ずさった。
「お前、これ中古で買ったな?しかも自転車屋じゃないところで」
店主の言葉にあおいは驚きながらも頷き、チェーン店のリサイクルショップの名前を告げた。
「やっぱりな。大方、ブームで買ったのはいいが、少し乗って後は外にほっとかれヤツだろ」
店主は大儀そうに背を伸ばすと、あおいの真正面に立った。
「シフトワイヤとブレーキワイヤが錆びてる。おまけに初期伸びを未調整だ。これじゃあ変速がまともにできなくても当然だな。あと、チェーンにも錆びが浮いてる。リアディレイラハンガは恐らく曲ってない。みのりが適当なことを言ったのだろう」
あおいには何を言っているか皆目検討がつかなかった。
彼女の困惑が店主に伝わったのだろう、彼はやれやれといった様子で苦笑を浮かべた。
その表情が意外と優しげで、あおいは緊張が少し解ける気がしたが、店主はそのまま、店の中に戻ってしまった。
あおいは呆然と彼女の1885と隣に駐輪されているみのりのオルトレを見比べる。
アルミパイプを組み合わせ、直線を基調とした1885と最先端のカーボン強化樹脂を使い、空気抵抗を考慮して有機的とすら言えるラインを描くみのりのオルトレ。
細部まで観察すると、チェーンやホイールのリムまで手入れが行き届いているオルトレに対し、1885はチェーンやフレーム周辺に張り巡らされたワイヤには錆びが浮き、ハンドル周りのボルト
も錆びており、リムはくすんでいた。
今まで自分にとって最高の乗り物だと思っていたロードバイクが急にみすぼらしく感じてしまう。
そうだよね、いきなり来た余所者の自転車の面倒なんて見てくれるハズないよね。
彼女は、諦観の念を抱きながら、会計を済ませるために店内に戻ろうとした。
扉の前に立った途端、両開きのドアが内側から開いた。
店主が先ほどの白いシャツに黒いスラックスの上から黒いエプロンをして、手にはブリキの道具箱、それにいくつかパッケージを持っている。
「あ、あの」
あおいは驚愕の表情を浮かべてその場に立ち尽くす。
「どかないと、外に出れないんだが」
「すいません」
彼女が飛びのくような勢いで店主に道を開ける。
彼は1885の変速レバーを操作し、今度はハンドルに巻かれているテープを剥がし始めた。
「バーテープの在庫はない。再利用するぞ」
店主が振り返らずに言う。
彼女はどう答えていいか分からず、うめき声に似た音声を出すことがやっとの状態であった。
彼はため息をつきながら手に持ったスプレーでチェーンに吹きかけてゆく。
それは、テレビなどでもコマーシャルを流している有名な防錆・洗浄剤だった。
あおいは、それを見て自分の通学用の軽快車の錆びたチェーンにそれを吹きかけたことを思い出した。
しかし、その時は一時的によくなったが、すぐに動きが以前よりもひどくなり、結局自転車店で修理するはめになった。
チェーンをウェスで拭うと、ブリキの道具箱からプラスチック製の小瓶を取り出し、チェーンに丁寧に塗布していく。
そうか、あれは汚れを落すだけで、本当は別に油を塗らなきゃいけなかったんだ・・・
店主は、手際よく前後の変速用ワイヤを取り外してゆく。
パッケージを開けてあおいも見たことがある黒いアウタ・ワイヤを取り出すと、古いアウタ・ワイヤと長さを合わせてワイヤーカッタで切断してゆく
先ほどのパッケージから今度は銀色のワイヤーを取り出すと、道具箱からグリスの容器を取り出して素早くワイヤに塗布する。
あおいは、その迷いのない手際に関心させられ、気づくと1885の傍らに立っていた。
シフトワイヤを右側のSTIレバーの根元に押し込み、リアディレイラに取り付けられる。
ドライバで微調整したあと、ペダルを回して先ほどみのりがしたようにノブを調整してベストな状態に追い込んでいく。
やがて、後輪に取り付けられたスプロケットの上チェーンが滑るようにギアが右から左へ、左から右へと動く。
「すごい」
あおいは思わず声を上げた。
店主はその声に反応してあおいを睨みつけたが、得意そうに右の口角が上がっているのをあおいは見逃さなかった。
その後もフロントディレイラ、ブレーキワイヤと交換は手際よく行われ、ドロップハンドルにアウタワイヤがビニールテープによって取り付けられる。
「バーテープくらいは自分でつけろ」
その時、店の扉が開き、コウタと呼ばれた若い男が出てきた。
「へぇ、マスタ、結局面倒見てあげたんだ」
コウタは大げさに驚いたような仕草で言った。
「おい、ビアンキ乗り」
どうやら、自分のことらしいとあおいは思った。
「この人はなあ、元」
「コウタ、たまには飲むか食うかしていけ。ここは無料のシャワールームじゃないんだぜ」
店主の声がコウタのセリフを遮った。
「悪い、バイトに送れちゃうから」
彼は肩をすくめると、ラックに引っ掛けられている赤いロードバイクを持ち上げる。
それは、あおいのアルミロードやみのりのカーボンロードに比べると随分と細身に見えた。
コウタは目の前の国道134号線に出ると、みるみるうちに加速していった。
「はやい・・・」
目で追ったあおいが感想を漏らす。
あんな加速の仕方ができるんだ・・・
「まずい」
店主のうめき声が聞こえた。
あおいが何事かと店主が見つめた先に視線を合わせると、同じ国道のくだりに複数のロードバイクの集団が見えた。




