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ぎんりん4

 あおいの目の前には一皿のパスタが置かれた。

 そして、目の前に座るみのりの前にもパスタが置かれたが、それはどう考えても自分の2倍の分量があった。

「ここのペペロンチーノは、少なくとも半径20キロ以内じゃ一番美味しいよ」

 みのりはパスタの山にフォークを突きたてながら言った。

「何か引っかかる言い方だな」

 リーゼントに鋭い目つきをした、誰もが特定の自由業を連想するであろう風貌の店主が言った。

 この剣呑な声は果たして演技なのだろうか。

 あおいはみのりにつられるカタチでパスタを口に運ぶと、少なくともみのりが言っていることが嘘ではないこと知った。

 口に入れた瞬間に感じるのは、ああ、ペペロンチーノだな、という唐辛子とニンニクの風味。

 だが、スパゲッティよりも細いフェデリーニであることにあおいの舌が一瞬戸惑う。 

 そのフェデリーニは塩でなくコンソメで茹でられている。

 アンチョビ・フィレの風味が追い討ちをかける。

 あおいの口の中に複合的な味覚が広がった。

 それは、間違いなく美味しい食事とめぐり合った幸福感を伴うものであった。

 あのカウンターの中でつまらなそうに新聞を読んでいる店主は、ごくあたりまえのようにこのペペロンチーノを出したといことだった。

 メニュー表は品名と値段が書かれた質素な物だった。

 ペペロンチーノ550円

「自転車に乗ってるとさ、すごくお腹がへるんだよね」

 みのりは大盛りのペペロンチーノを口に運びながら言った。

 そのことについてあおいは賛同せざるを得なかった。

 ロードバイクを手に入れ、何の知識もなく乗り始めたあおいは、その速度、反応性、敏捷性に大いに魅了されたが、同時に自身の身体能力の低下を痛感していた。

 陸上競技を止め、体を動かさなくなってから半年近くが経過しており、10代の体とはいえ、競技に打ち込んでいた頃の動きを取り戻すには現在も至っていない。

 だが、最初は10キロメートルも乗れば疲労困憊の状態が、20キロ、30キロと体が慣れてくるにつれて走行距離がのびてくると、今度は猛烈な空腹に見舞われた。

 ハンガーノックという症状は知識としては知っていたが、中距離走の走者であったあおいにとっては初体験であった。

 自転車という共通の話題もあり、あおいとみのりが他愛もない会話をしていると、来店を告げる真鍮のベルの音が鳴った。

「あ、コウタ」

 みのりが呟くように言った。

 あおいが上体を捻ると、自分と同年齢くらいの男が店内に入ってくるところであった。

「表にオルトレが停まってるから姉御がいると思ったけど、この子誰?新しい彼女?」

 その男はあおいとみのりが座っているテーブル席までやってくると、あおいをジロジロと見ながら言った。

「誤解を招きそうなこと、言わないでくれる?」

 みのりと全く同じサイクルジャージとレーシングパンツに包まれた体はまるで全身がバネでできているようなしなやかな体つきだった。

 くせ毛がちな髪と、アーモンドアイがどことなくやんちゃな印象を抱かせる。

 異性が苦手なあおいは、彼の無遠慮な視線に戸惑うしかなかった。

「同じビアンキ乗りのあおいちゃんよ」

 みのりが自分の名前を出した弾みで思わず頭を下げるあおい。

「ふうん。あのボロいアルミロードに乗ってる奴か」

 あおいは自分が気に入って買ったロードバイクがあからさまに貶められていることに面白くなかったが、いつもの癖で愛想笑いを浮かべてしまう。

「あんただって、ポンコツクロモリロードでしょうが」

 みのりがすかさず言い返す。

 若い男は肩をすくめると、店の奥にある扉を開けて中に入ってしまった。

「アイツは横山光太。いつもあんな感じだから気にしないでね」

「あ、はい・・・あの人、店の奥に行っちゃいましたけど・・・」

 今度はみのりが体を捻ると店舗奥にある扉を見る。

「ああ、あそこはシャワールームなの。常連がよく使うんだけどね」

「カフェにシャワールームがあるんですか」

 困惑するあおい。

「ここは自転車乗りが集まるお店だからね。普通のカフェとは少し違うの。名前もぎんりん亭と言ってね。銀輪っていうのは自転車の古い言い方なんだ」

 あおいは店の前にはスタンドを持たない自転車の為に鉄パイプを使ったサドルを引っ掛ける仕組みの駐輪場があり、大いに感心したものだった。

「さすがのわたしも、レーパンとジャージ姿で普通の喫茶店には入る勇気はないよ」

 みのりが笑いながら自分の着ているサイクルジャージの胸元を引っ張った。

 確かに彼女が着用してるサイクルウェアは体の線を包み隠さずあらわにしていた。

 自分には絶対に無理だと、あおいは思った。

 普段、なるべく体の線を出ない服を好んで買うあおいには、みのりの服装は自転車の乗ることには最適かもしれないが、自分が着るとなると躊躇する代物であった。

「あおいちゃんも似合うと思うけどな。せっかくロードバイクに乗ってるんだから、サイクルウェアも着なきゃ」

 みのりの視線にどこか粘着質なものを感じて動揺するあおい

 知らない人についていくのはやめましょう。

 今更にして小学校の時に習った道徳の授業が思い浮かぶ。

 曖昧な笑みを浮かべることしかできないあおい。

「あ、そうだ。自転車のことだよ。マスター、マスター」

 カウンターの中で新聞を読んでいた店主が顔を上げる

「あおいちゃんの自転車の調子が悪いみたいなんだけど、ちょっと診てあげてよ。リアディレイラだと思うんだけど」

 店主は眉を中央によせ、あからさまに不機嫌な顔をしていた。

「俺は自転車修理屋じゃねえ」

 店主は素っ気無くそう言うと視線を新聞に戻した

「えー、だってあおいちゃんに修理できるトコロ知ってるって言っちゃったんだもん。いいでしょ?」

 店主が再び顔を上げるが、今度はあきれたような表情を浮かべている。

「お前な、ウチは喫茶店なんだよ。コーヒー飲んでメシ食う場所だ。それなのにこんな訳わからん奴を連れてきてどうするつもりだ」

 訳分からないって・・・

 店主の言動にあおいは困惑したが、みのりはひるむ様子はまったく見せなかった。

「いいでしょ。こんな常連しか来ない店に新規のお客さん連れてきてあげたんだからさ。ここでパパッと修理してあげれば、あおいちゃんもきっと常連さんになってくれるよ。ね?」

 自分の名前を出されて困惑するあおいだったが、ええ、まあ・・・と曖昧な返事をしてしまう。

 わたし、完全にこの人のペースに嵌ってる気がする。

「ほら、ほら」 

 猫科を連想させる顔に満面の笑みを浮かべながらあおいは店主に迫った。

「面倒くせえなあ・・・」

 店主はカウンターに新聞を置くと、難儀そうに腰を上げた。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

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