ぎんりん3
国道134号線は、横須賀から大磯に至る相模湾沿いを走る比較的平坦な道路であり、鎌倉、江ノ島などの観光地が点在している。
多くの場合、湘南と呼称される地名はこの道路の周辺である。
自転車乗りにとっては東京や横浜から箱根に向う際の通り道であり、比較的幅員も広く、地元住民もスポーツ自転車が車道を走ることに慣れているため、走りやすい。
水谷みのりにとって、この道路をロードバイクで走るということは日常生活の一部になっていた。
彼女は江ノ島を左に見ながら、本日もルーチンワーク的にロードバイクで走ってると、一台のロードバイクに追いついた。
基本的に車道の左端を走っているロードバイクは、追い越しするチャンスはかなり限られたものになってくる。
そのため、前方を走っている走者の技量を見極めて追走するか追い越すかを判断しなけらばならない
目の前を走っているのは、ビアンキの1885。
一昔前のアルミ製ロードバイクだが、メーカーのカテゴリーではかなりスパルタンなモデルであり、その手のロードバイクに乗っている人間はそれなりに速い場合が多い。
だが、乗り手は一応、自転車用の白いヘルメットはかぶっていたが、白いTシャツに紺色のハーフパンツという格好で肝心な靴はスニーカーであった。
ロードバイクはビンディングペダルというスキーのビンディングと同じような仕組みによって専用の靴と接続されることによって最大限の走行性能を得る。
だが、ペダルと靴が接続されるということは咄嗟の時に足を地面につけないということであり、恐怖以外の何ものでもない。
そのため、初心者はフラットペダル、つまり普通の自転車についているペダルを使用する場合が多い
普段のみのりならば、自分のペースよりも遥かに遅い初心者と判断した場合はさっさと抜くだけだったが、彼女は目の前の自転車乗りに興味を持った。
自分と同じビアンキのロードバイクに乗っていること、リアディレイラの動作が怪しいこと、そしてその後姿が明らかに若い女性であり、しかも単独で走っていることが彼女の興味を引いた。
最近の“自転車ブーム”によりスポーツ自転車の人口は増加傾向にあったが、国内ではまだまだマイナな趣味であることには間違いない。
しかも、そのマイナなカテゴリの中でも女性となるとさらに僅少だった。
さらに、多くの場合、自転車趣味の夫、彼氏に付き合ってという場合がほとんどであり、目の前を走っている自転車乗りのように単独で、というのは自分を含めてもかなりの少数だった。
元来、みのりは人懐こいところだがあり、知り合いを作るのが趣味のようなところがあったから、江ノ島入り口交差点で信号が赤になり、前走者が止ったところで声をかけたのは自然なものだった。
「こんにちわ」
振り返った顔は、まだ少女と言っていい若い女性だった。
頬に汗で髪がはりついており、肌の白さが際立っていた。
大きめの二重まぶたのはっきりした目のは困惑の感情が浮かんでいる。
みのりはサングラスをとり、笑顔を浮かべる
「リアディレイラの調子がよくないみたいですね」
すると、目の前の少女は驚いたような表情を浮かべた
「そうなんです。なんだか変速が全然うまくいかなくて・・・でも、買ったお店は修理できないって・・・」
みのりにとって、リアディレイラの話は会話の端緒を掴むだけのものであったが、目の前の少女は本気で困っていたらしい。
「あーもしかして勝手に変速しちゃったり、変な音がする的な?」
少女は大きくうなずいた。
リアディレイラは後輪に取り付けられた変速機である。
それに対してチェーンリング付近に取り付けられた変速機はフロントディレイラと呼ばれる。
リアディレイラはフロントのそれと比べて細かいギア比の変速を司るものであるが、外部からの衝撃でハンガーと呼ばれる取り付け部品が歪んだり、変速用のワイヤーが長年の使用により延びることによって任意のギア比に変速できなくなったり、勝手に変速するような不具合が出現する。
国道134号線のような平坦な道路ならば大した問題にならないが、山道のような勾配を走る場合にはそのストレスは計り知れないものになる。
「そっか。それならちょっとその先で見てあげようか?ワイヤーの伸びなら私でもなんとかなるし」
みのりはナンパが成功した時に近い高揚感を覚えながら、江ノ島入り口交差点先のちょっとした空きスペースを指差した。
その場所は交差点に面しており、公衆便所を中心としてちょっとた広場になっている。
休日である今日は江ノ島観光のオートバイや自転車が多数とまっているが、リアディレイラの調子を確認する程度の場所には充分だった。
みのりは自分のロードバイクであるビアンキ・オルトレから降りると、湘南らしさを表現するためにわざとらしく広場の中心に植えられているヤシの木にたてかける。
みのりは後ろをついてきた少女に対して
「ちょっと支えておいてくれる?」
といって彼女の1885の傍らにかがみ込んだ。
リアディレイラはシマノの普及グレードである105であった。
ワイヤーのテンションを調整するノブを回す。
「後輪を持ち上げてくれるかな?」
見上げると、少女はみのりを羨望の表情で見ている。
いやいや、そんな期待されても困るんだけどな。
手でペダルを回すと、自転車乗りにとっては不愉快以外のな何ものでもない不協和音が聞こえてる。
さらにペダルを回しながらノブを回すが、その音が止む気配はない。
こりゃ、ハンガーだ、わたしの手には負えない。
「これ、根元の部品が曲ってるっぽい、私じゃどうにもならないな」
「やっぱり、そうですか」
落胆した声色で少女は言った。
「でも、治せる人は知ってる」
彼女は驚きの表情でみのりを見た。
「ところで、そこそこ美味しいパスタと美味しいコーヒーは好き?」
みのりは少女を見上げながら言った。