ぎんりん30
シグナルが赤から一斉に青に変わる。
モータースポーツに疎いあおいでもそれがレーススタートの合図であることは理解できた。
しかし、意外なほどゆっくりとしたスタートに拍子抜けする。
彼女が中学時代に経験した陸上競技ではスタート直後に位置取りが発生し、もっとピリピリした雰囲気だったが、今はそうではない。
観客席に手を振っている者、選手同士で雑談している者さえいる。
彼女は選手たちを尻目に集団の中をすり抜けながら先頭を目指す。
この人たち、真剣にレースをする気あるのかな。
いささか侮蔑的な感情を抱きながら走るあおい。
ついに先頭集団に追いついてしまった。
先頭を走るのは実業団のチームだ。
湘南シルヴィア。
黒を基調としたサイクルジャージが印象的なチームだった。
最後尾を走る選手があおいに気づく。
「おや、女の子だ」
あおいは頭を下げる。
「今からペースを上げるのはあまり関心しないな」
ヘルメットとアイウェアで素顔はわからないが、30代といったところか。
このペースなら余裕でついていける、わたしだってそれなりに練習してきたんだから。
「なんといっても先は長いからね」
それは老婆心からの忠告だったが、あおいの中途半端な自負心には響かないものだった。
「今上さんは女の子に優しいんだから」
いつの間にか彼の隣に併走するロードバイクがいた。
湘南シルヴィアのジャージを着用しているのでチームメイトに違いなかった。
声と体型からして女性だった。
「それは勘違いだな。僕は女性全般に優しいんだ」
集団は鈴鹿サーキット一周目を終えようとした。
ピットの前を通り過ぎる。
「あの馬鹿、先頭集団を走ってるぞ」
幸太がうめき声に似た響きで声を上げた。
「まあ、始めてのレースだから舞い上がっちゃったんでしょ」
対照的に冷静なみのり。
「あまり頭は良くないと思ってたけど、これ程とはね」
まなみが腕を組みながら呟いた。
サーキットでの走行と公道での走行は全く違う。
あおいはその現実を徐々に思い知らされていく。
まず、信号での停車がない。
それは一定のペースで走り続けるには悪くないが、同時に体力を回復するいとまが無いことも意味していた。
そして、サーキットは素人が漠然と浮かべるイメージと違い高低差が存在する。
鈴鹿サーキットは第1コーナーからシケインまで一気に高度が上がり、西ストレートからテグナーカーブまでジャブのようなアップダウンが続く。
自転車競技というエンジンが人力の競技では、それらは間違いなく脅威だった。
2週目はなんとか先頭集団についていったあおいだったが、3週目でついに後退を余儀なくされていた。
先ほどまで下に見ていた選手たちに次々と抜かされていくあおい。
焦燥感がつのっていくが、カラダはついていかない。
加えてコース上に日陰がなく、真夏の苛烈な日差しが彼女の体力を削っていく。
どうしよう、どうしよう、どうしよう
順位を大幅に下げてピット直前までたどり着くと、マスタがピットインを示す看板を持って立っていた。
あおいはうなだれながらピットインする。
わたしはいつもこうだ。
調子にのってすぐに失敗する。
きっとみんなわたしを軽蔑するんだろうな。
折角自転車に乗るのが楽しくなってきたのに。
その時、幸太があおいの元に近づいてくる。
「おいビアンキ乗り、さっさとタグをよこせ」
複数で走る耐久レースでは順位を管理するために足に電子タグを巻いて走る。
走者が交代する時はそれを引き継ぐ。
言わば駅伝の襷だった。
あおいは申し訳ない気分でタグを幸太に渡した。
嫌だな、何か言われるんだろうな。
「落ち込んでるんじゃねえよ、バーカ」
彼はそういうとあおいの肩を叩いた。
え?
そこに叱咤激励の意図が含まれているのは明らかだった。