ぎんりん29
「ねえ、何で言ってくれなかったの?」
「だって、わたしみのりさんのお仕事なんて知らなかったですし」
東名高速に乗って何度目のやりとりだろう?あおいはすでに数えるのを止めていた。
レース前日の午後11時、みのりはあおいの自宅であるマンションの前まで迎えに来た。
彼女の黄色いスズキ製ホットハッチは指定されたマンションの玄関前に停車した。
そこに2人の人影が立っているのをみのりは認める。
一人目はあおいだった。生真面目な顔で立っている。傍らにビアンキ1885。
そして、もう一人の人物の顔を見た時、みのりの背筋の衝撃が走った。
なんで、なんで課長がいるの?
みのりは引きつった笑みを張り付かせてクルマを降りた。
「あらあらあら」
あおいの母親が驚きの声を上げるが、その表情はいつもの表情とあまり変わらない。
あおいは怪訝な表情を浮かべるが、みのりのあまり楽しいとは言えない笑顔も気になった。
「お、お疲れ様です」
みのりが頭を下げる。
それは、あおいにとっていつもの頼れるお姉さんというみのりの既成概念を打ち破るものだった。
「まさか貴女が、私のかわいい一人娘をこんな胡乱な世界に引き入れてたなんてね」
「いや、別にそのような訳では・・・」
みのりの視線が宙を泳ぐ
「冗談よ冗談」
あおいの母親が笑いながら言った。
お母さんとみのりさんが知り合い・・・?
「あおい、杉崎さんの言うことをきちんと聞くのよ」
一瞬、誰のことか理解できないあおいだったが、母親の目配せでみのりのことだと承知する。
それにしても、みのりさんって公務員だったんだ。
スズキ製の黄色いホットハッチは人間2人とロードバイク2台、あおいの母親がみのりに手渡した菓子折り、その他の荷物を積んで東名阪道を走っている。
夜中の高速道路は、あおいにとって異世界のようだった。
トンネル内の瞬く間に背後に流れていく照明、追い越してゆく大型トラックの群れ。
みのりに何度も寝てて良いよ、と言われていたがあおいは幻想的とさえ言えるこの風景に見とれていた。
やがてスズキは本線を逸れてサービスエリアに入った。
「もう三重県に入ったから、ちょっと休憩」
あおいが車外に出ると粘ついた熱気が身体にまとわりつく。
さすがに5時間以上シートに座っていた身体はこわばっていた。
ふと周囲を見回すと、ロードバイクを車外に搭載したクルマが目立つ。
「あの、この人たちってもしかして・・・」
運転席から降りてきたみのりはニヤリと笑う。
「多分、今日のレースに参加する人たちだね。どう?テンション上がってくるでしょ?」
たしかにあおいは気分が高揚する感覚を覚えた。
サービスエリアのフードコートで朝食を摂ることになり、あおいはみのりの勧めでスパゲッティナポリタンの大盛りを頼む。
「レースの前は炭水化物を沢山摂らなきゃ。」
多量のスパッゲティを腹に押し込んだあおいとみのりは、再びクルマに乗り込むと、鈴鹿サーキットへの道を急いだ。
鈴鹿サーキットのゲートに着く頃には気の早い夏の太陽が登り始め、入場を待つ車両によってちょっとした渋滞が起きていた。
「これ、全部今日のレースに出る人たちですか」
あおいがあきれたような口調で感想を言う。
「全員が同じレースに出るわけじゃないけどね。色々なカテゴリーがあるし、後はレースに出る人の応援なんかも居るから。」
ゲートをノロノロと通過するあおいたち。
敷地内に入るとサイクリングジャージを着た者達が闊歩し、移動手段はもちろんロードバイクだ。
まるで、自転車の国にきたみたい。
みのりの黄色いホットハッチがしばらく進むととある駐車場に入った。
まったく、ここはどれくらい駐車場があるの?
鈴鹿サーキットの駐車場はいつも母親と車で行くショッピングモールの数倍はあった。
あおいもうんざりしていた頃、とある駐車場に入っていく。
中に入ると、見知った顔が手を振っていた。
幸太だった。
二週間ほど会っていなかったので懐かしさを覚える。
みのりが慣れた手つきで駐車スペースに止めると、黒いハイエースからマスタが出てきた。
どことなく犯罪の臭いがしないでもない。
「よう、間に合ったな」
マスタが車を降りたみのりに声をかける。
「仕事明けにそのままかっ飛ばして来たわよ」
みのりがワザとらしく肩を回しながら答えた。
「おい、あおいお前が一番手だぞ」
幸太に何か言おうとして躊躇していたあおいは先手を取られた。
「え、なにが?」
呆れ顔の幸太はみのりの方を向き直る。
「本当に話をしてないのか?」
みのりは悪戯っぽい笑みを浮かべながら頷いた。
「うん、その方が面白いと思って」
気づくとあおいはスズカサーキットのコース上に立っていた。
かつて、F1やオートバイでいくつもの死闘が繰り広げられてきたモータースポーツの聖地。
もちろん、今年16歳で自動車運転免許を持っていないあおいにとっては知る由もないことだったがが、レースのスタート直前の雰囲気は伝わってくる。
期待と喜びと不安と後悔が入り混じった独特の感情。
わたし、これからレースに出るんだ。
彼女の8時間耐久レースが始まろうとしていた。