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ぎんりん28

 その日の夕食は鮭のムニエルとブロッコリー、アスパラガス、カボチャのホットサラダにした。

 魚料理が苦手なまなみだったが、切り身に塩コショウと小麦粉をまぶし、バターを敷いたフライパンで焼いただけで出来上がるムニエルはレパートリーの一つだった。

 どうしよう、お母さん、怒るかな。

 当たり障りの無い話題を繰り広げつつ、自分がレースに参加することについて母親の賛同を得られるかどうか判然としない状況は、彼女にとってひどく居心地のわるいものだった。

「で、何を隠してるのかな?」

 上品にナプキンで口を拭った母親は、そんな娘の様子はとっくにお見通しと言った様子で言った。

 まなみは無条件降伏の証としてナイフとフォークをテーブル上に置き、鈴鹿サーキットでのレースについて素直に白状した。

「あら、いいじゃない」

 母親の反応は意外なものだった。

「あなたくらいの年齢で年上の人と付き合いがあるのはすごく貴重なことよ」

 あおいは母親に対して以前からみのことを話していたことがプラスに働いたようだった。

「今度、菓子折りでも持ってお礼をしなくちゃね」

「や、やめてよ」

 あおいは慌てて首を振る。

「そういうことは大切よ。わざわざ迎えに来てくれるんだから」

 母親の気遣いに煩わしさを感じつつも、みのりが菓子折りを貰った時の表情を思い浮かべると、少しだけ可笑しい気分になった。


 あおいは、期末テストをいつもどおり可もなく不可もない点数で切り抜け、終業式で予想通りの通知表を受け取った。

 級友たちは高校生として始めて迎える夏休みにどこか浮き足立っているようだったが、あおいは自転車で思い切り走れることがひたすらに嬉しかった。

 もちろん、そのことを表面に出すことはない。

 夏休みの予定を聞かれると

「全然予定なんてないよ、遊ぶときは誘ってよ」

 彼女は満面の笑みで答えた。

 

 学校から帰るとさっそくサイクルウェアに着替える。

 空は恐ろしく晴れ渡っており、帰宅した時間は昼前。

 自転車に乗らない理由はない。

 漕ぎ出しは順調。

 国道134号線を滑るように走っていく。

 全てが順調。 

 しかし、破綻は突然訪れる。

 後輪から空気が漏れる音。 

 路上に無数に落ちている硝子や金属片は容易にロードバイクのタイヤとチューブを切り裂く。

 ある程度経験を積んだ自転車乗りならば、こんな時舌打ちの一つでもして自転車を降り、さっさとチューブを交換するだろう。

 しかし、ここに居るのは今まで一度もパンクを経験したことのない女子高生のロード乗りだった。

 今まで地面を滑るように疾走していた自転車は、信じられないくらい重い物質になり代わっていた。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 パニック状態になるあおい。

 とりあえず、ガードレールが切れた場所を発見し歩道に移動する。

 今までの高揚感が嘘のように萎縮する。

 みのりに言われ、サドルの下に取り付ける小型のバッグに予備のタイヤチューブとタイヤレバー、フレームに小型の空気入れを装備していた。

 それだけだった。

 前輪を外したことはある。

 しかし。どうやってタイヤを外して中のチューブを交換していいのか皆目見当がつけられない。

 雑誌やwebサイトで漠然と方法を眺めたような気がするが、凡人並みの記憶力しかない彼女の脳はそれを情報として彼女に提供することはできない。

 チラリとこのままビアンキを置いて電車で帰ることも考えた。その程度の現金なら手元にある。

 しかし、自分の今の恰好はカラダの線が丸見えのサイクルウェアとビンディングシューズという恰好であり、即座にその考えは却下した。

 目の前をロードバイクが何台も走っていく。

 そうだ、誰かに助けてもらおうか。

 今の時期、国道134号線はロードバイクがひっきりなしに行き交っており、助けを呼ぶには事欠かない。

 男の人は怖いな。女の人がいいな。

 彼女は生来の人見知りであった。

 みのりさんか幸太君が通らないかな。

 しかし、彼女の願望も空しくその2人が通ることはない。

 時折、彼女を気にする素振りを見せるロードバイク乗りもいたが、彼女は首を横に振ってしまう。

 スマートフォンで交換の方法などを検索してみたが、自分でできるとは思えなかった。

 1時間が経過するころ、心細さが徐々に高まってくる。まるで、迷子になった子供だった。

 その時だった。平塚方向から彼女の願望に一致する人物が走ってきた。

 サイクリングウェアの体型からすると間違いなく女性だった。

 よかった、助かった。あの人に助けてもらおう。

 彼女はその人物に向けて歩道から大きく手を振った。

 その人物が彼女の目前を通り過ぎ、停車した。

 黒っぽいキャノンディールCAAD9。嫌な予感がした。

「何?」

 振り返った少女がヘルメットを取ると、その下からボブカットの黒髪が現れる。まなみだった。

 あおいは自分の軽率さに内心頭を抱えたかったが、事態の深刻さがほんの少しだけ彼女に勇気を与えた。

「あ、あのね、自転車のタイヤがパンクしちゃって・・・それでね・・・」

 まなみの顔を直に見ることができないあおいは、歩道のタイルを見つめながら何とか声をだした。

 どうしよう、何か言われるかな。この子苦手なのに、何で声なんてかけちゃったんだろ。

 その時、まなみは肩をすくめると、軽やかにガードレールを乗り越えた。

「手伝う」

 ヤビツの時の剣呑な表情で手厳しいことを言われると覚悟していたあおいは、まなみのあまりにもあっさりとした許諾に拍子抜けする。

「でもさ、とりあえず後輪くらい外すのは礼儀じゃない?」

 もっともだった。


 後輪を外す時はインナーハイ、つまりフロントを軽くし、リアを一番重くすることでチェーンのテンションを下げて取り外すのが常識だが、一度もホイールの脱着をしたことがないあおいは散々苦労して後輪を外すことに成功する。

「車体は逆さまにしておいた方がいいよ。リアディレイラが地面に当たるのは良くない」

 まなみのアドバイスに従いハンドルとサドルが接地するようにするあおい。すると、ボトルのスポーツドリンクが逆流してフレームに降り注ぐ。

「・・・ボトルの栓は閉めておいた方がいいと思うけど」

 まなみが呆れ顔で言った。

 死にたい。それがあおいの偽らざる感情だった。


 まなみは慣れた手つきでホイールからタイヤを外していく。

「昔にね」

 彼女はあおいに背中を向けたまま話し始めた。

「道志の方でパンクしたことがあったんだ」

 ドウシ?初めて聞いた地名だった。

「山梨県の方。すごく水か綺麗なんだ。」

 あおいの戸惑った雰囲気を感じたのだろう、まなみが解説を加えた。

「その日はツイてなくてね。そこまでに2回パンクしてて手持ちのチューブが全部なくなっちゃって」

 1日に2回、そんなこともあるのか。

「完全にお手上げだった時に通りがかったおじさんが助けてくれたの」

 あおいは黙って頷くしかなかった。するとまなみはパンクしたチューブを抜き出し、彼女の方を向いた。

「スペアのチューブと空気入れ貸して」

 あおいは慌ててその二つをまなみに手渡した。

「そのおじさん、自分の予備のチューブで私のパンクを修理してくれてさ、そのまま走って行こうとしたから、せめてチューブ代だけでも払おうとしたんだ」

 まなみは手渡されたチューブに携帯ポンプで少しだけ空気を入れ、リムに装着していく。

「そしたらね、そのおじさんお金なんていらないて断ったの」

 今度は片方だけ外したタイヤのビードを両手の親指で押し込んでいく。

「その代わり」

「その代わり?」

「困ってる自転車乗りがいたら助けてやれ、それが今回のチューブ代だって言われちゃったんだ。だから、これがその時のぶん」

 それで?たったそれだけのこのとで?

 パチンという音と共にタイヤがホイールにはまった。まなみはバルブの部分を何度か押し込み、リムとタイヤの境目を何度か手でなでる。

 彼女は立ち上がると。タイヤのはまったホイールをあおいに手渡す。

「空気くらい、自分で入れられるでしょ?」

 まなみはにこりともせずにそう言うとCAAD9に跨った。

「あ、あの」

 あおいが礼を述べようとする。

「今度はアンタが困ってる自転車乗りを助ける番だよ。パンク修理くらいできるようにね」

 そういうとまなみは走り去った。

  

 






 

 

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