ぎんりん27
朝練から帰り、自宅でシャワーを浴びたあおいは急に気だるさを覚え、自室のベッドに横になっていた。
ふと先ほどのみのりが言っていたレースのことが気になり、スマートフォンで鈴鹿の地名を検索した。
検索結果に愕然とするあおい。
鈴鹿サーキットの所在地は三重県の鈴鹿市である。
あおいにとって関西地方とは中学校の修学旅行で京都に行って以来馴染みのない場所だった。
ちょっと遠いな、お母さん許してくれるかな。
さらに自転車のレースというのも不安材料だった。
集団走行には大分慣れたとはいえ、レースが別物なのは陸上競技の経験者として想像がつく。
そして、自転車レースは人間が走るよりも遥かに速度域は上だった。
どうしよう?何か適当な理由をつけて断ってしまおうか。
みんなに迷惑をかけたら申し訳ないし。
その時、スマートフォンにみのりから電子メールが届いた。
「鈴鹿サーキットまでは私が乗せていってあげるから心配しないでね」
・・・この人はわたしのこと監視してるんじゃないだろうか。
一瞬、不安になるあおい。
喉が渇いたので、台所の冷蔵庫からミネラルウォータのボトルを取り出す。
その時、母親が帰宅した。
「帰ってたの。自転車の練習どうだった?」
特に意味のある返事を期待していない彼女は、スーパーマーケットのロゴの入ったプラスチックバッグを居間の食卓の上に載せながら言った。
本当はレースのことを切り出したいあおいだったが、当たり障りのないことばを返す。
あおいは慌てて自室に戻った。
ロードバイクは屋内で保管するべし
そのことをみのりに口すっぱく言われていたあおいは、ビアンキ1885を自室の片隅にホームセンターで買ったポリウレタン製のマットの上に置いて保管していた。
思わずトップチューブの撫でる。
速く走る
その造形美に惹かれて買ったロードバイク。
レースに出ないのは嘘じゃないか?
そんな想いがよぎる。
しかし、その前に。
自転車に付着した汚れが気になる。
あおいはパーツクリーナー、シリコンオイル、ミシンオイル、シリコーンオイル、古びた下着を加工したウェスを詰め込んだ紙袋を掴む。
あおいが住むマンションは、1階に水道が設けられており、ちょっとした洗車スペースになっていた。
サイクルジャージにサイクルショーツという恰好は16歳の少女には気が引ける恰好だが、今は綿のパーカにジーンズという恰好なので問題ない。
日曜日ということもあり、既に先客が居た。
「お、洗車かい?」
関根という、初老の男性だった。
「はい、さっき走ってきたばかりなので」
彼はあおいにとってはメンテナンスの師匠といっても過言ではない人物だった。
「いい心がけだね」
柔和な笑顔を浮かべる関根が洗っている車は、あおいのようにクルマに興味のない者でも古さを感じるモノだった。
ランチアストラトスストラダーレ。
フェラーリのV6気筒2500ccエンジンを積みながら軽自動車並みのホイールベースしか持たないマシーン。
それは、ロードバイクに似た、不必要なモノを全て削ぎ落とした美しさに溢れていた。
以前に彼が言った言葉があおいの胸に強烈に残っている。
「丁寧に手入れされた機械は絶対に裏切らない」
食器用洗剤と台所用スポンジを片手にビアンキ1885を漫然と洗車していたあおいにホームセンターでパーツクリーナーとミシン油を買ってくるように助言し、注油すべきポイントと絶対に注油してはいけないポイントを教えてくれた。
あおいは後輪を取り外すと車体をひっくり返して地面に置いた。
まずはスプロケットにパーツクリーナーをたっぷりとかけてからウェスで汚れを拭う。
ついでリアディレーラに付属するプーリーにもパーツクリーナーをかけようとすると、関根が声をかけてきた。
「それって樹脂製だよね?」
どうなんだろう。あおいに確信はなかった。
「樹脂パーツにパーツクリーナーを直接かけるのは良くないよ。ウェスにちょっとだけパーツクリーナーをかけてから拭いたほうがいいね」
あおいは言われたとうりにする。
スプロケットの汚れを洗い落とすと、再び車体にはめ、今度はチェーンの清掃にとりかかる。
パーツクリーナーと使い古しの歯ブラシで油汚れを落とし、続いて中性洗剤をつかってチェーンを綺麗にする。
チェーン周りを洗い終えて、今度はフレームの清掃にとりかかる。
中性洗剤をふくませた洗剤で車体を丁寧に洗っていく。
水で洗剤を洗い流し、新しいウェスで水気を拭っていく。
さらにむき出しのワイヤ、フロントディレイラ、リアディレイラの可動部分にシリコーンオイルを注油する。
これも関根から教わったことだった。
「機械が動く場所は必ず注油すること。どんなに設計が優れた機械でも摩擦には逆らえない」
彼はあおいよりも一足速く洗車を終えたらしい。
ランチアストラトスのエンジンをかけると、自分の駐車場に向っていった。
しばらくしてあおいも愛車の洗車を終え、ささやかな満足感を覚える。
うん、やっぱり自分の自転車が世界で一番かっこいい。




