ぎんりん23
ぎんりん亭の脱衣場で、みのりからもらった自転車用のユニフォームを改めて見て見るあおい。
上着はあおいが常識としているところのタイトフィットの範囲をはるかに超えていた。
けれど、陸上競技をしていたあおいにとっては許容できる範囲ではあった。
それに、みのりや幸太が着用しているサイクリングジャージのバックポケットは、補給食やその他の必需品を入れるスペースとして有効なのは認めざるを得ない。
けれど、このビブショーツは別物だった。
スパッツから肩紐が伸びている形状のビブショーツはあおいにとって対処不能の代物だった。
これ、どうやって着るんだろう・・・
その時、脱衣場の扉が開く。
「大丈夫?ちゃんと着れてる?」
みのりだった。
ビブショーツを両手でつまんで呆然と佇むあおい。
「それ、はく時下着は付けちゃダメだからね」
「え?直に履くんですか」
みのりは口角をやや吊り上げながら頷いた。
「距離を乗るようになるとそれ以外穿きたくなくなると思うよ。恥ずかしいからって下着の上から穿くととその日はお風呂に入れなくなるくらい痛くなるから」
あおいの顔に不安の色が広がる。
「ま、専用ウェアに勝るモノはないよ。はやく着ちゃってね」
満面の笑みを浮かべながら脱衣場からみのりは立ち去った。
あおいがなんとか着替え、外にでると店内の客が明らかに増えていた。
初めて着るサイクルウェアに気恥ずかしさを感じていたあおいにとってそれはあまりにも過酷な試練だった。
救いは、大半があおいと同じ青を基調としたサイクルウェアを着用していることだった。
「お、ついにあおい嬢もレーパンデビューか」
カウンターでコーヒーを啜っていたセンセイが目ざとくあおいを見つけて声をかけた。
店内の視点があおいに集中する。
このままどこかに消えてしまいたい。
それがあおいの偽らざる気分だった。
「センセイ、それセクハラだよ」
みのりが嗜める。
「セクハラなものか。レーパンデビューは自転車乗りの試練みたいなもんだ」
確かにそうだった。
臀部にパッドが入っているとはいえ、スパンデックスの薄い素材は下着を身に付けないことも相俟って下半身が無防備になったように感じる者が大半だった。
「じゃあ、次は自転車のポジションだね」
みのりがあおいに外に出るように促す。
あおいの愛車ビアンキ1885
今の乗り心地に不満はないのに、何で弄る必要があるんだろう?
「とりあえず、ビンディングシューズを履いてみて」
みのりから渡されたシューズは若干横幅が狭い感じがしたが、それ以外はおおむねあおいの足に合っていた。
しかし、履き心地という面では最悪だった。
靴底に樹脂製の爪がついており、その靴底はカーボンファイバー製で一切曲らないので地面をグリップすることができない。
あおいは生まれたての草食動物並みの頼りなさで地面を歩く。
「それじゃあ、跨ってみてよ」
みのりが支える1885に跨る。
「左足をペダルに載せてみたらカチって音がするまで踏み込んでみて」
左足の下で何かがはまる音がする。
「私が支えてるから右足も同じようにやってみて」
みのりがあおいの腰部分を支える。
右足の下で何かがはまる音がする。
「じゃあ、そのままゆっくり漕いでみて」
あれ?
漕ぎ始めて感じる違和感。
明らかに今までよりもひざ下が窮屈だった。
「あ、あの」
「やっぱりそうだよね。止ってくれる?」
ブレーキをかけ、今までと同じ感覚で右足を出そうとして足がペダルに固定されていることに気づき、パニックになりかけるあおいだったが、みのりが支えに入ったので転倒することは防げた。
おっかなびっくり自転車から降りるあおい。
「ビンディングシューズにすると、サドルを高くしないとペダリングの効率が悪くなる人が多いんだよね」
そう言いながら六角レンチで1885のサドルを引き上げるみのり。
「これでどうだろう?乗ってみて」
再び1885に跨るあおい。
ビンディングをペダルに嵌める時に少し遠いかな?と感じたが、漕ぎ出した瞬間にその違和感は消えた。
今まで以上に1885が前に進む。
自転車と一体になるための靴、その意味が改めて分った気がした。
「よし、それじゃあ次は公道デビューだね」
みのりが満面の笑顔で言った。
「マジかよ」
いつも間にかみのりの傍ら幸太が立っていた。
「鉄は熱いうちに打てって言うでしょ」
「熱いうちに道路のシミにならなきゃいいけどな」
二人の不穏な会話を他所にあおいは自転車と一体化した心地よさを感じていた。