ぎんりん16
あおいは、くだりの快楽に酔う。
湘南平は頂上からテクニカルなコーナーが続く。
いきなり右コーナー、そこからシェイク、シェイク、シェイク。
そして傾斜度14パーセントのストレート。
しかし、眼前にトヨタのコンパクトカーがテールランプを何度も点灯させながら行く手を塞ぐ。
こいつがいなければ、もっと早く走れるのに。
彼女は舌打ちしつつ速度を緩める。
くそったれ
あおいは自分が抱いた感情に戸惑う。
彼女にとって、他人に悪態をつくという感情はとうてい受け入れられないものだったからだ。
違う、わたしは坂道をもっと早く登りたいだけ。
だけど、何の為に?
トヨタのコンパクトカーは対向車に一々ブレーキを踏みながら、うんざりする速度で麓にたどりついてしまった。
あおいは再び登りのスタート地点にやってきた。
本当?幸太君の言うことを信じていいの?
彼女はチェーンリングをインナーに、リアスプロケットを3速にして登り始める。
二日目のカレー、二日目のカレー
あおいはペダルにジワジワと力を込めて踏んでいく。
そうすることで今まで気づかないこと気づいていく。
例えば左右の足の連携だった。
速い回転数でペダルを漕いでいるときは気づかなかったが、左右の足で絶え間なく力を入力していくことが自転車にとって如何に重要なことか思い知る。
言うまでもなく、自転車とは人間の力で動く乗り物だった。
あおいの左右の足の入力が消失するその瞬間、1885は失速する。
彼女はある意味、人力で推進するこの乗り物について、誤った見解を抱いていたことを知る。
つまり、彼女の身の回りに多数ある数多くの機器と同じく自分が間違った振る舞いをしてもフェールセーフ的なモノが働くと思っていた。
お客様サポート、修理の保証書、無償修理キャンペーン。
けれど、ロードバイクと言われるこの手の乗り物は全く勝手が違っていた。
剥き身だ。
全くの剥き身だった。
彼女の限界がこのマシンの限界。
あおいの振る舞いがこのマシンの全て。
人力で最速を搾り出す最適解に対して自分の振る舞いは全くもって適性ではない。
学校教育でありがちな、自分が一生懸命な姿を見せてさえいれば、全てが許される雰囲気。
だが、いくらあおいが一生懸命にペダルを踏んでも幸太にもみのりにも追いつかない。
何故なのか。
それは、彼女の努力が全く適正でないからだった。
ロードバイクは努力や根性などというものには全く興味がない。
その場面、場面における最適解。
それこそが物言わぬ自転車の求める全てだった。
傾斜では回転数よりもトルクを。
二日目のカレーをかき混ぜるように、右側のつま先まで力を込め、そのトルクを左足に引き継ぐ。
色あせたパンダのスプリング式の乗り物が随分とユーモラスに見える。
やあ、元気?
あおいは内心プラスチック製のパンダに語りかける。
回転数を落としてトルクをかければ登りは随分と楽になる。
頂上と錯覚した駐車場が通りすぎても何も感じない。
やがて頂上にたどりつ。
心拍数は思ったよりも上昇していない様子だった。
よし、今度はくだりで邪魔が入らないようにしなきゃ。
彼女は笑みを抑えることができなかった。