ぎんりん14
あおいは湘南平についてスマートフォンを使って一通り検索していた。
そこは平塚に所在し、傾斜度14パーセントの直線坂が自転車乗りの間で話題だった。
まったく、自転車乗ってる人ってマゾなの?
幸いその場所は国道134号線を経由してすぐの場所であり、ぼんやりであるが場所は彼女にも把握できた。
放課後、そのまま行ければ近いのに。
一度帰宅してロードバイクに乗り換えると、それなりに手間だったが、制服でロードバイクに乗る勇気はあおいにはなかった。
彼女の学校の女子の制服は「公立学校のクセに無駄にかわいい」という評判だった。
淡いベージュ色のダブルのブレザーと深緑のセーラー服を融合さた上着と深緑色のプリーツスカートの制服はインターネットのオークションで15万円の値段がつけられたり、画像投稿サイトに何度もアップロードされて好奇の目にされされていた。
けれど、あおいにとっては制服マニアよりも遥かに厄介な問題があった。
授業が全て終わり、彼女が学校指定の美的センスの欠片もないナイロン製のスポーツバッグに教科書を放り込んでいると同級生が近づいてきた。
嫌な予感がした。
「ねえ、これからどっかで遊ばない?」
遊ぶという単語の意味はショッピングモールのファストフード店で何の実りもない会話をダラダラと続け、最後にカラオケボックスに行くことだった。
以前のあおいならば素直に誘いを受けたはずだった。
けれど、今のあおいは目の前に夢中になる対象がある。
そんなことで時間を浪費するのは御免だった。
「行きたい、行きたいだけどね・・・」
同級生の女子とはそれなりに距離を置いていたあおいだったが、彼女も女同士の付き合いはそれなりに心得ている。
なんといっても、女を16年間やっているのだ。
「ちょっとお母さんに頼まれた用事あって、色々と行かなきゃ行けないところがあるんだよね・・・」
まず、誘ってくれたことに感謝すること、そして、行きたいのはヤマヤマだけれど自分ではどうしようもない事情があることをほのめかすこと。
「そっかー、大変なんだね」
これで誘ってきた同級生も誘いを断られたという事実をプライドを傷つけられずに受け入れることができる。
「うん、ごめんね」
あおいは、申し訳なさそうな顔とラベリングされている表情を浮かべた。
よし、これで邪魔する物はなにもない。
いつものスポーツ用Tシャツにハーフパンツ、白いヘルメットという自転車スタイルで1885に乗った彼女は湘南平に向った。
国道134号線を下っていると、湘南平と書かれた標識が目に入った。
国道1号線を横断し、片側一車線の市道を走る。
そして今度こそ湘南平入り口の看板。
最初はクネクネと曲った坂道。
なんだ、全然大したことないじゃない。
そして、それが現れる。
傾斜度14パーセントの直線。
ヤビツ峠の記憶がよみがえる。
負けるもんか。
彼女は心の中でそう呟きながら坂道を登りはじめる。
それはヤビツ以上の壁だった。
目の前はアスファルトの路面に支配される。
インナーロウ、つまり彼女の自転車は最小必要限度の負荷で坂道を進んでいた。
プラスチック製の色褪せたパンダの乗り物。
左右に生い茂る植物。
トヨタ製のミニバンに乗り、彼女が自転車で湘南平を登るという行為を奇異の目で見るか家族たち。
それらの風景があおいの頭脳に明確に刻まれていく。
やがて、頂上に近づいてたと彼女が錯覚できる光景が目の前に広がる。
そうか、ここが頂上なんだ。
あおいは思わずペダルを回す足を緩める。
すると、後頭部に衝撃を感じた。
「ばーか、頂上はもっと上だよ」
幸太の声は一瞬にして後方から前方にとおりぬける。
それは、あおいを追い抜く風のように自然だった。
細身の赤いクロモリフレーム、青を基調とそたサイクリングジャージ。
彼の姿はすでに10メートルほど前方。
彼女はサドルから腰を浮かす。
ダンジング走法。
それは、彼女が選択したその場で最良の方法だった。
ちくしょう、ちくしょう、あいつに追いつけない。
頂上は駐車場を抜けたそこにある。
幸太はすでに右足を地面につけ、ニヤニヤと後ろを振り返っていた。
あおいが幸太のチネリ・スーパーコルサの横につけると、そこには平和そのものの光景が広がっていた。
芝生では子供が戯れ、その傍らのベンチでは彼・彼女らの保護者たちが談笑している。
自分が一生懸命に登った頂の上にしては、それはあんまりな光景だった。
「お前が言いたいことはよく分かるよ」
幸太の声が頭に響く。
わたしが頑張った結果は、近所の公園と大して代わらない場所にすぎないの?
「だけどな、こういう積み重ねがとんでもない場所に行く唯一の方法でもあるんだよ」
あおいは思わず振り返る。
彼の表情は痛切ともいえる表情だった。
「・・・わたし、もっと速くなれる?」
なぜ、そんなことを言ったのかあおいはよく分からなかった。
他人に自分の評価を任せる。
それは、彼女にとっては恐怖以外の何者でもなかった。
「知るかよ。そんな限界、誰が決めるんだ?」
幸太は純粋な疑いの目で彼女を見た。
彼の態度はあおいにとっては衝撃だった。
対象に何も評価しないという選択肢を取る彼は、したり顔で全ての物を評価しようとするあおいの周辺の人々とは極限ともいえる態度だった。
「そう、だよね」
「変な奴」
幸太はそう言うと、さっさと下っていってしまった。