ぎんりん10
自分の体が限界に近づくとどうなるのか。
あおいにとってそれは、おなじみのプロセスだった。
まず、胃が内容物の有無に関わらず全てを体外に排出しようとする。
その吐き気を耐え切ると、今度は下半身の筋肉に力が入らなくなるような虚脱感に襲われる。
それをひたすら耐える。
すると口の中が金臭くなってくる。
そうすればしめたものだった。
耐え切れない苦痛を乗り越えた先。
理性を超えたその向こう。
中学校や決して強豪といえない高校の部活では心拍数の計測などしていないが、それはあきらかに最大心拍数のゾーンだった。
しかし、彼女は中距離走者であり、限界値を超えてからゴールまで数百メートルの距離しか残っていない。
だが、彼女がそのゾーンに達しても、ゴールはさらに3kmほど先だった。
傾斜はどこまでも変わらない。
やがてみのりの姿が見えなくなる。
酸素の供給量が不足し、脳がパニック状態になる。
先ほど食べた羊羹とスポーツドリンクを吐く。
あおいが覚えているのはそこまでだった。
意識がブラックアウトした。
みのりの嫌な予感は的中していた。
彼女が自転車で10分ほどヤビツ峠を下ると、一台のプリウスがハザードを焚いて止っている。
さらに近づくと、老夫婦があおいを介護しているのが見えた。
「あおいちゃん、大丈夫!?」
みのりが声をかけると、あおいの唇が歪む。
どうやら笑おうとしたらしい。
「あら、この子のお知り合い?」
上品な顔立ちをした白髪の女性が心配そうな顔で言った。
「はい、友達です」
「そう、よかった。この子路肩で倒れてたのよ」
「救急車を呼ぼうと思ったのだけど、携帯が繋がらなくて・・・」
みのりは内心、胸を撫で下ろした
「この子のことはよく知ってるので、後は私が面倒を見ます」
心底心配しているフリをした。
内心、反吐がでそうな気分になる
「そう・・・良かった。それじゃ、離れても大丈夫ね」
プリウスが音も立てずに走り出す。
数年前のモデルチェンジで完全に電動化されたプリウスはみのりにとっては無音で背後に忍び寄る、蛇蝎のごとく嫌っていた電気自動車の走行音が今は心地よく聞こえる。
失神するまで自分を追い込める、というのは一種の才能だった。
みのりのペースはヤビツ峠の頂上まで30分のペースだった。
この子、使い道がある。
あおいはすでに道路に地面にあぐらをかいて座っている
「ちょっと、大丈夫?」
みのりの問いかけに、今度は照れたような笑顔を浮かべるあおい。
「少し頑張りすぎちゃいました」
「とりあえず、ぎんりん亭まで帰れる?」
秦野市のヤビツ峠から藤沢市に所在するぎんりん亭までは約30kmの距離があった。
「なんとか大丈夫だと思います」
これ以上の傾斜がなければ、あおいにとって地獄への道でも大歓迎だった。