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夏空  作者: 水崎涼
《第一部 嘘吐き少女》
2/17

話す

 「そう言われてみれば、確かに呼びましたね」


公園のベンチに座って晴れ渡った空を見上げる。例の、『時間屋』の彼はいい歳をしてブランコなんぞこいでいる。


「随分挑戦的な呼ばれ方したけどね」

「まぁそうですね」


彼は、人の心でも読めるのだろうか。


「で?君の名前は?」

「匿名希望です」

「ラジオ投稿じゃ無いんだからさ……」

「私もあなたの名前を知らないのでおあいこです」

「あ、俺の名前は、」

「名乗らないで下さい、名乗りたくないんで」

「えー」


 キィ、キィ、とブランコが音を立てる。彼はきっと童顔のせいで、高校生くらいに見えるけれど、本当はもう大学生とか社会人とか、そのくらいだろう。学校や会社はどうしているのだろう? というか、そもそも人間と呼んで良いのだろうか? タイムスリップなんかが出来る時点で人間では無いと思うのだけれど。


「じゃあとりあえず、君が今悩んでる事、俺に全部話してみなよ」


腕時計を見ながら、彼はそう言った。懐中時計を持っているのに腕時計までしているとは、どれだけ時計が好きなんだ。それより、そんな事を言われても、ついさっき知り合ったばかりの胡散臭い奴に、複雑な家庭事情を、おいそれと話す気にはなれない。


「……」


しかし一度黙り込んでしまうと、話すチャンスを見失ってしまう。そうやって、風が吹き抜けるばかりの沈黙が続く。


「……」


沈黙はそこに座りこんで、じっと動かない。さすがの私にも、少し申し訳ない気持ちが芽生えてきて、小さく身じろぎをした。


「……そ、の」

「焦らなくていいから、さ」


ふっと吹き込んだ涼しい声。『時間屋』は、真夏の空を見上げて、気持ち良さそうに伸びをする。まるで、気まずい空気が何でも無い物の様に。


「時間はたっぷりあるんだし、話したくない事は、話さなくても良い訳だし」


全部話さない!とか言われたら困るんだけどね、と軽く笑う。邪気の無いその言い方に、少しだけ安心してしまったのは秘密だ。私は一つ、大きな深呼吸をすると、口を開いた。




 私は、三人家族の一人娘だった。……目上の人には丁寧語を使うべきか。私は、三人家族の一人娘でした。過去形です。理由は、まぁ想像がつくでしょう。何処にでも居るような、平凡で、何の変哲も無い家族。大切にされて(と言ってもそれは私の思い違いだったのかもしれないけれど)何の諍いも無く(と言ってもそれは私がただ知らなかっただけなのかもしれないけれど)両親共働きでも幸せで、平和に毎日を過ごしていました。


 母に男友達が多いのは、知っていました。父もそれを知っていたし、特にそれが家族の障害になる事も無かったし。母は男勝りな人だったから、そんなモノだと思っていたんです。私も、女はネチネチしていて、嫌いだし。


 母が変わったのは、きっと新しい職場に移ってからです。そこで、ロクでもない男に誑かされたんでしょう。いつもは私と夕御飯を食べる為に、早く帰って来てくれる母は、毎日お酒と香水の強烈な臭いを連れて、夜遅くに帰って来るようになりました。あの頃から、私は母が嫌いになった。何度、カップラーメンに涙を落して夜を過ごしたか、分かりません。母から逃げるように、父の寝室で布団をかぶって、彼の帰りを待ち続けました。


 やがて母は、私の知らない男を、家に連れて来るようになりました。寝室に隠れている私の耳に届いたのは、父の悪口を言う、母とは思えない悪魔の様な女の声。怖かった、辛かった。そして、そんな母を知っていながら、野放しにする父に絶望しました。母は、自分が稼いできたお金は全て男とブランド物に使い、それだけでなく、足りないからと言って、父が汗水垂らして稼いでくるお金までもを私利私欲の為に使いました。当然、家計は厳しくなります。でも、あの女はそんな事、気にも留めなかったのです。


 私は、全てが嫌になりました。家を出て行きたいとすら、思いました。しかし、当時小学生だった私に行く当ても無く、自分の無力さを歯痒く感じました。早く何処かへ、行ってくれれば良いのに……。あの時思ったこの言葉、私は父と母、どちらに対して言いたかったのだろう。


 そしてある日、母は居なくなりました。突然、帰って来なくなったのです。あの女は何処へ行ったのか、リコンしたのか。二人だけになってしまった家で、父が私の疑問に答えてくれる事はありませんでした。


 父が交通事故に遭ったのは、それからすぐの事です。会社への道、居眠り運転をしていた軽トラックに突っ込まれた、と聞きました。全治半年の大怪我。体の何処其処の骨が、何本折れただとか、医者から聞いた気がしますが、私は別の事に気を取られていて、そんな事は覚えていません。そんな事と言うのは、父が軽トラックの運転手を、一言も責めなかったという事。あまつさえ、自分の不注意だった等とほざいた事。私は呆れ返って、父の見舞いに行く気にもなれませんでした。母との件で薄々は感じていたものの、彼がここまで腑抜けだったとは……。


 結局、私の周りの人間に、ロクなのが居なかったという事でしょう。だから私は真っ当な人間になる為に、両親を反面教師にして、今日までを生きてきたんです。ただ後悔をしたくない、それだけを心の内に秘めて、今までずっと。その果てがこんな私です。自分が間違っているとは思いません。でも、こんなにもコミュニケーションが下手な人間になってしまったという事は、私も結局、父とあの女の、紛れも無い一人娘だったんでしょうね。




 『時間屋』は、私が話をする間、一度も喋らなかった。私も、話し出したら止まらなくなってしまって、忘れかけていた感情がぶり返して、今は涙目になっているという始末だ。悔しい。もうあんな、親でも無い様な人間に対する情など、とっくの昔に消え失せたはずなのに。悔しい。こんなにも胸が痛くなる事が。息が詰まる。胃がせり上がって来て、上手く呼吸ができない。悔しい。嫌だ。泣きたくない。こんな事で泣きたくない。赤の他人の前で泣くなんて、それこそ情けない。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。


「あーあー、気丈な女の子だ。泣きたくないのは分かるけど、別に笑ったりしないから」

「泣くか泣かないかは、私の自由ですから……っ」

「意地っ張りだね」

「……放っておいて下さいっ」

「でも」


軽い雰囲気だった『時間屋』の声が、突然重みを持った低いものに変わった。


「今思い出して泣くくらい、君は両親が大好きだったんだ」

「……え?」

「いや、大好きなんだ」


大好き? だいすき? ダイスキ? 誰が誰を、ダイスキだって?


「意味が、分かりません」


声が震えた。何故?


「よく居るんだよ、そういう人。君だって、本当は分かっているはずだ。辛い事や、悲しい事から目を背けて、それが全て間違っているんだと思い込む。そうやって自分を守ろうとするんだろう?」

「そんなの、当たり前じゃないですか……っ。だって、だって家族全員が仲良く暮らすというのが、いつの世も正しい姿で、私のみたいな例は間違って、」

「うん。良いんだよ、それは。人間誰でも、防衛本能ってモノは持ってるんだからね。だから、君の歩んできた道は確かに、間違ってなんか無いんだよ」

「じゃあ何でそんな訳の分からない事!」

「ただ、逃げてばかりで、分かっている事から目を背けるだけじゃ、これからも後悔だらけの人生を歩んでいく事になるよ」


後悔だらけの人生。これからも? 今までは後悔だらけ? 家族の問題に関しては、確かに後悔だらけだったけれど。でも、それでも、親と自分を切り離して生きてきた事に、後悔なんか、していない。していないんだ。それなのに、何故? 何故そんな事を言う?


「俺から見た君はね、君が描く自分自身――強くて冷たい人間かな?――になりきれていないんだよ。なりきれていなくて、それが分かってるから、必要以上に周りに嫌悪感を抱く。俺の言ってる事、あながち間違ってないと思うんだけど、どう?」


そんなの、間違いだらけに決まっている。赤の他人に、私の心の内が分かる訳が無い。有り得ない、そんな事。有り得ないのに。どうしてこんなにも、心が痛くなるのだろう……?


「間違ってる」

「君はね、本当は一人ぼっちが嫌いで」

「間違ってる」

「誰よりも愛して、愛されたいのに」

「間違ってる」

「それを失ってしまったから、自分の気持ちを全て間違った物として過去に捨てて」

「間違ってる」

「愛の代わりに憎しみで器を満たそうとして」

「間違って、」

「でも不器用過ぎて、全部全部こぼしてしまって」

「間違って、」

「そんな自分を隠しておきたくって」

「間違っ」

「感情も後悔も、明るさも素直さも、上手く隠して生きてきたのに」

「ちがう……」

「今俺に全て言い当てられてしまったから」

「ちが……っ」

「こんなにも、涙が溢れて来るんだろう?」


視界が、滲んでぼやけて、見えなくなった。頬を流れ落ちる冷たいものは、一体何だろう。太陽の白も、空の青も、地面の茶も、木々の緑も、全部全部ごちゃごちゃになって、私の心と同じにごちゃごちゃになって、消えてしまうのかな、無くなってしまうのかな。苦しいのに、悲しいのに、辛いのに、痛いのに。どうしてこんなに、とっくの昔に忘れた温かい思い出が溢れてくるのだろう。どうして、とっくの昔に置いてきた沢山の気持ちが、蘇ってくるのだろう。どうして、どうして……。



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